第4話 蝶のように飛び立ちたい

「……えっ」


 思ってもみなかった言葉に頭の理解が追いつかない。倉橋先輩はいつにもない真剣な眼差しで私を見据えた。


「俺はお前がフィクションを作るのが好きだってこと知っているよ。詳しくは見てねえが、さっき見たノートに話のアウトラインが書いてあったしな」


 でも、と話は続いた。


「お前の世界にはどうして起承転結の『転』がないんだ。この二年間ずっと疑問に思っていた」


「どうして、って」


 訳を話しても、倉橋先輩はきっと理解してくれない。私の過去はいまだ親しい人にも教えたことはなかった。話して、同情されるのが嫌だったから。でも伝えないと話が先に進まない気がした。私のことをわかってもらうためにも、倉橋先輩には素直に話すことにした。


「起承転結の『転』って、お話に展開が期待されるところじゃないですか。でも、その期待っていうのは大抵不幸なことや悲しいことばかり。私、そんなの嫌なんです」


 倉橋先輩の顔に明らかに筋が入る。映像に青春を費やしている人にとって、私の一言は禁句に違いない。倉橋先輩は少し声を荒くして言った。


「ストーリーっていうのはな、平たいまんまじゃ面白みがねえんだよ。それくらい二年目ならわかるだろ!」


 いつにも増して厳しい言葉にコーヒーを持つ手が震えた。私は怒られ慣れしているほうだが、所謂いわゆる、冗談めかした呆れられる程度の怒られるであって、倉橋先輩に本気で怒鳴られたことはただのいままで一度もなかった。

 どうしたらこの想いを伝えられるだろうか。私はその術をまだ知らなかった。だって、同情されるのが嫌だなんて理由をつけて、誰からも逃げてきたのだから。


「先輩にはわからないです! みんながみんな、不幸や悲しみから立ち直って、蝶みたいに元気にまゆから飛び立てるわけじゃありませんから!」


 そういって無理やり話を断ち切ると、荷物をまとめて部室から私は飛び出した。靴が引っかかって転けそうになるのを踏ん張ると、大学を出て、二つ離れた駅の近くに借りたアパートの帰路に着いた。


 風呂桶に貯まったお湯で体を洗い流すと、足先から時間をかけて浴槽に体を浸した。日中髪ゴムで縛り上げた髪は、いまや浴槽のお湯に揺蕩たゆたうように浮いている。

 右の手のひらを見ると、裸眼でもどことなくふやけているのがわかる。しかし、少し離れた浴槽の電源ボタンに書いてある文字はまるで読めない。


「これが、まず先輩にはわからないんだろうなあ」


 幼少期に受けた先天性緑内障の手術とは、眼球のレンズを破砕して、代わりに人工レンズを組み込むものだ。そうすることで視力がある程度回復し、術前よりはよく見えるようになった気がする。幼少期の視力なんて覚えているわけがないからなんとなくだけど。しかも、歳を取れば普通の人はこのレンズが濁ってくるものだが、人工レンズの場合はそれが加齢によって濁ることはない。いつまでもクリアな視界を保つことができるのだ。

 もちろんメリットだけでなく、デメリットも存在する。それは、。太陽を見るなんてもっての外で、伝わりづらいかもしれないが、雪に反射した光ですら眩しく感じる。だから真夏と真冬にはサングラスが必須アイテムとなっているのだ。


 普通の人と同じ世界が見たかった。これが私の願い。


 普通の世界でいい。ギアナ高地にあるエンジェルフォールズなんて雄大な景色とかじゃなくて、ありふれた日常の世界が見たい。みんなと海で思いっきり遊びたかった。みんなと雪合戦して思いっきり遊びたかった。そんな特別なんでもないことが私にはできなかった。

 髪をとかしてベッドに横たわると、一通のメールがきていた。倉橋先輩からだった。

 一瞬開封するのを躊躇ったが、今日のこともあって、届かなかったで許されるはずもなく、やむなく開封した。


『明日の十八時に大学裏手の門に集合』


 たったその一行が書いてあるだけだった。下にスクロールしても続きの言葉もなければ、何か添付ファイルがあるわけでもない。

 何なのだろう。呼び出して撮影でもするのだろうか。いやぁ、でもなぁ、部活辞めろって言われたばっかだしなぁ。

 明日の十八時になにが待ち受けているのか、悩んだ末に答えには至らなかったが、とにかく行かないともっと酷いことになる。それだけは理解していた。「承知しました」とだけ返信をしてから、ふて寝するように枕に顔を埋め、そのまま意識は遠退いていった。

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