Act.7-4

 暫定拠点アジトは、繁華街から少し離れたテラスハウスの一軒で、一階のシングルは《削除人デリータ》たちが一人一部屋ずつ、そして二階のツインは由と永が使用している。

 シャワーを浴びて部屋に戻った由は、ベッドの片方に座り、小さく息をついた。マカノから手に入れた名刺に記載されていた名前を、そっと唇に乗せる。既に《伝達人メッセンジャ》に連絡し、その人物について調査するよう指示を出した。クメキたちの死体は、《掃除人クリーナ》が片づけてくれている。もうしばらく、この地に留まり、調査を進めることができそうだ。

 キィ、と蝶番ちょうつがいの軋む音がして、由は顔を上げた。シャワーから戻った永だった。おもむろに扉を閉め、鍵を掛ける。

「永?」

 振り返らないまま、永はうつむいていた。その肩が、小さく震えていた。

「永……?」

 立ち上がり、永のもとへと歩いていく。そっと手を伸ばす。けれど、その手が、永の背中に届く前に、振り返った永が、その手を掴んだ。

 永の瞳は、雫を湛えて揺れていた。

「……守れて、良かった……でも……」

 涙より先に、震えた声が、永の喉からこぼれた。

「…………怖かった…………」

 由の手を掴む永の手に、ぐっと力がこもる。由を見つめる永の瞳には、苦しげな炎が揺らめいていた。

「……今日だけじゃない……ずっと……怖い…………もうずっと…………兄さんを、いつ喪ってしまうか知れない……いつ奪われるか知れない…………この世界で……俺は……兄さんを……いつまで守っていられるんだろう…………」

 永は顔を伏せた。張り詰めていた糸が切れ、溢れた言葉には、涙よりも澄んだ、ひとつの心だけがあった。

「永……」

 掴まれた手と逆の手を、由は静かに、永の頬に伸ばした。ふわりと、包むように重ねる。

「怖いのは……お前だけじゃない。俺も、同じだよ、永……」


「お前を喪ってしまったら、俺は、俺でいられなくなる」


 由の言葉に、永は顔を上げた。雫を湛えた瞳が、一瞬、僅かに大きく見開かれ、そして、切なげに細められる。

「……同じ……なんだ…………兄さんも……俺も…………」

 弟であるということ。兄の弟であるということ。

 兄であるということ。弟の兄であるということ。

 ふたりでいるから、生きていられること。

「……どうして……だろう…………」

 永の、その問いかけは、由に向けたものではなかっただろう。世界だった。奪うばかりで与えない世界に、永は問い続けていた。

「この世界で……生きることは……どうして、こんなにも、難しいんだろう……」

 由が問い続けてきたことと同じに。

「それでも……」

 由は微笑む。微笑むことしかできなかった。ずっと、ずっと……微笑んできた。微笑むことだけが、由にできる、たったひとつの、弟を守るすべだった。世界から、心を守るすべだった。

「俺たちは、今、この瞬間……生きて……ここに、存在している」


「一緒に生きて、ふたりで存在している」


 永の頬に重ねた由の手に、温かな雫が触れた。心そのものの温もりだった。

 それは流星のように、きらきらと光の軌跡を引いて、てのひらに消えていく。

「兄さん」

 永の腕が、縋りつくように由を抱えた。封じ続けた心の奥から、その暗闇から、放たれた、それは、願いだった。星のように儚く灯り、あえかな光で瞬きながら、涙とともに流れていく、心の破片だった。

「……触れたい……」


「兄さんの命に、触れたい」


 永の両手が、由の頬を包む。そのまま、その手は耳の縁を通り、髪の中を進み、頭の後ろへ回って、引き寄せられる。瞳が近づく。鼻先が擦れる。永の吐息が唇を掠め、由は目を閉じた。柔らかな熱が、唇に触れる。そっと重ねて、一度、離れて、それから今度は、密に塞いだ。雫の音が響く。永の舌が問いかける。由は頷き、砦を開いた。しなやかな永の熱が、由のそれに絡む。強く吸いつかれ、由の脚の力が、ふっと緩む。その体を、永の腕が、危なげなく支え、抱きとめた。

 刹那、唇が離れ、由は忘れていた呼吸を取り戻す。そのとき、ふわりと、両足が床から離れた。永に抱き上げられたのだと知ったときには、永は由の体を、そっとベッドに横たえていた。

 月明かりが、カーテンの隙間から射し込んでいる。澄んだ淡い光を受けて、永の頬を伝う涙が、きらきらと瞬いた。

「ごめん、兄さん」


「こんなかたちで、愛してごめん」


 永の声が、涙とともに、由へと落ちる。

「謝らなくて良い」

 由は微笑んだ。手を伸ばし、永の頬に触れる。涙に、重ねる。

「言っただろう、永」

 永の頬を包み込む。そっと、永のまなじりを拭って。

「俺も、お前を、愛している」


「お前が愛したいように、俺を愛してくれ」


 由は微笑む。微笑み続ける。たったひとつの、幸せのために。

 由にとって、弟は、この世界の全てだった。親を失い、家を失い、残されたのは、たったひとりの弟だけ。失い続けた世界の果てに、唯一、残った幸せが、弟だった。

 生きたいと思える世界ではなかった。両親、故郷……幼い自分を守るもの全てをぎ取られたとき、死は安楽と安息を謳い、由を誘った。それでも生きる道を選べたのは、弟がいたからだ。ひとりきりだったなら、生きる意志など持てなかった。

「……兄さん……」

 声を追いかけて、唇が降りてくる。瞼を下ろし、由は永のくちづけを迎える。永の手が、由のボタンを外す。ほどかれた胸。夜気にさざめく前に、永の胸が、重なる。命の音が、響き合う。

 弟を生かすためなら、生きられた。

 弟と生きるためなら、生きられた。

 ずっと、ずっと、今も、弟を、


――守るためなら、生きられる。


 幸せも、のぞみも、世界には、とうに求めてはいない。生きる理由になり得るものなど、今ここに存在する、弟だけで良い。奪うばかりで与えなかった世界だ。今更、愛することなどない。けれど、弟には、全てがある。由の幸せも希みも……愛も、全て。弟がいれば、満たされていられる。だから――


――お前に、俺の、全てを与えよう、永。


 心も、命も。求められるもの全て。


――幸せの名も、希みの名も、愛の名も、全て、お前なんだよ、永。


 くちづけが深くなる。隙間なく塞がれた唇、奥へと絡む舌、加速する胸に、呼吸が追いつけずに規則性を外す。

 波のない白いシーツの海。さらさらと広がる黒髪の上で、由の手が、喘ぐように空を彷徨さまよう。

 由の頭を掻き抱いていた永の右手が、由の首から肩を撫で、脇腹から腰へと輪郭をなぞり下りていく。左手は由の腕を辿り、手首を越え、てのひらに行き着くと、指を絡めて握った。永の左手と、由の右手がつくった、それは、祈りのかたちだった。閉じていたを薄く開け、由は繋いだ手を見つめる。


――この祈りは、罪だ。


 弟を、兄という罪に、繋いでしまった。

 分かっていた。知っていた。それでも、解くことなどできなかった。手放すことなどできなかった。自分が生きるために弟を必要とした、弱い兄だったからだ。

 弟を、自分の全てにしてしまった。弟に、自分の全てを与えたかった。それは、鏡のように跳ね返り、弟から、兄以外のもの全てを奪う結果を生んでしまった。

 両親、友人、先輩、恋人……成長するにつれて出会い、芽生え、宛先が枝分かれしていくべき感情を、弟は全て、兄へと向けた。敬愛も、親愛も、情愛も……性愛も。そう育てたのは、他でもない、兄である自分だ。


――どうか、赦してくれ。


 生きたかった。生かしたかった。守りたかった。心も、命も。与えるほどに奪ってしまうと知りながら、今も、罪を重ね続けている。弟を、罰の犠牲にして。罪の連鎖を、止める強さを、持てないでいて。

「……永……?」

 ふと、永のくちづけが離れ、由は視線を上げた。触れる手を止め、由を見下ろす永の瞳が、衝動と抑制のあいだで揺れている。この先に進めば、兄の体を傷つけるのではないかという怖れを湛えて。

 だから、由は、もう一度、微笑む。もう一度、罪を犯す。花の蔓のように、蜘蛛の糸のように、柔らかく、強かな、呪縛の言葉をかけて、

「大丈夫だ、永」

 守るという、罪を。

「……兄さん……」

 永が唇を引き結ぶ。小さく喉を鳴らし、永は右手を、由の腿の内側へと進めた。永の指先が、吸いつくように、由の窪みに届く。

 中指、そして、人差し指……挿し込まれた永の指が、由の中を拡げていく。少しずつ、丁寧に、丹念に。ほんの少しの痛みさえ許さない手つきで、由を拓いていく。綻んでいく由の体。次第にち上がる芯から、じわじわと熱が滲み始める。それは永の手を濡らし、水の絡まる音を響かせた。

「っ……永……」

 由の腹部に、永の前髪が触れる。由の雫の源を、永はおもむろに咥え込んだ。由の中で動かす指を、更に奥へと、進めながら。

「だめだ……っ、永! それは、やめ――」

 止めようとした由の声は、途中で切れた。強く吸い上げられ、由の体が跳ねる。集束する熱。白に染まる視界。反射で閉じた瞼の裏で、光が弾ける。

「……どうして、止めようとしたの?」

 こくん、と喉を鳴らし、永が顔を上げる。

「兄さんの命の欠片なのに」

 そう言って由に向けた永の微笑は、由がずっと永に向け続けた微笑と同じだった。

「全部、俺がもらうよ」

 永の顔が近づく。由の耳に、永の唇が触れる。ささやく。

「兄さんの、全部、俺に頂戴」

 由の首筋に、永が歯を立てる。繋いだ手を、固く握って。

 由の体の中へ、永は進んだ。熱と熱が、繋がる。

「……愛してる……兄さん……」

 ほんの少しの隙間も塞ぐように、ほんの少しの冷たさも排するように、永は由を抱きしめ、深く、ふかく、体をうずめた。兄の温もりしかいらないと、これが全てなのだと、世界を拒絶するように。

「……兄さんの……命の熱だ…………全部、俺の…………」

 弟は微笑む。兄と同じ、まっすぐな黒髪を、さらりと揺らして。兄と同じ、白い頬を、薄く染めて。兄と同じ、透き通った微笑で、けれど兄よりも幼く。

「俺が死なない限り、兄さんは死なない」

 兄を見つめる弟の瞳は、恍惚に揺蕩たゆたっていた。

「俺が死なせないから、兄さんは死なない」


「兄さんが死ぬ時は、俺も一緒だ」


 組み敷き、抱きしめ、穿ちながら、弟は笑った。

「兄さん」

 呼ぶ。これが、幸せの、のぞみの、愛の名だと。

 こんなにも、満たされているのだと、与えられているのだと、示すように。


――これが、罰か。


 兄という罪に科せられた、弟という罰。

 ほころんだ体で、永の熱を、奥へ、おくへと、受け容れながら、由はを閉じた。

 瞼のふちに、雫が滲む。気付いた永が、そっと舐め取る。

 生理的な涙だと、弟は思ってくれただろうか。そうであってほしい。気付かないでほしい。兄の懺悔など、どうか、弟には届かないで。


――俺から解放してやれなかったことを、どうか、赦してくれ。


 弟の言葉に、由は静かに微笑んだ。けれど、頷きはしなかった。ただ、そっと手を伸ばし、弟の髪を撫でた。


――守れなくて、ごめん、永。


 兄という存在から、弟を守ることができなかった。

 心を繋ぎ、命を縛った。守るために生きるのは、自分だけで良かったのに。

 弟まで、兄と同じになることは、なかったのに。


――〝《調整人コーディネータ》が、《護衛人ボディガード》を守れるのは、一度きり。〟


 いつかの言葉が、脳裏をぎる。


――〝《調整人コーディネータ》が、自らの命を投げ出すときだ。〟


「永」

 幸せの、のぞみの……命の名を、呼ぶ。

「お前を……愛している…………」

 泣きながら、笑って。

「……綺麗だ、兄さん」

 永の熱が、最奥に届く。

「とても、綺麗だ」

 白く、果てて。


――弟を、守れたなら。


 《調整人コーディネータ》である自分が、《護衛人ボディガード》である弟を、守ることができたなら――

 そのとき、自分は、ただの兄になれる。

 繋いだ心を、縛った命を、解き放って。

 永、お前を、俺から自由にしてやれる。


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