Act.1-5

 水路の側には、切れかけた街灯がひとつ灯っているだけで、辺りは暗がりの中にあった。人気ひとけはなく、水の流れる音が、やけに大きく響いて聞こえる。

「見当たらないな……水路に落ちたのかも」

 手紙を探すふりをして、さりげなく永と二手に分かれる。やがて、焦れた男は荒々しく息を吐き、水路のふちに屈んで葉巻を取り出した。燐寸マッチで火をつけ、一服する。良い頃合いだ。

「暗くて、よく見えないな」

 合図の台詞を口にして、由は永に目配せをする。永は小さく頷いた。

「俺、お店に行って、ランプを借りられないか頼んでみるよ」

 そう言って、永は駆け出す。由の言いつけ通りに、ひとつ先のストリートの角を曲がる。ここで永の演技は終わりだ。

 手紙を探すふりを続け、由はさりげなく、男の後ろに回り込む。ちょうど街灯の陰になる位置。由は静かに拳銃を取り出す。

「なっ……⁉」

 気配を感じた男が振り返るより早く、由はトリガを引いていた。男の目が一瞬、大きく見開き、由を映す。しかし、それはすぐさま光を失い、焦点を散らした。頭から血を噴き出し、男はる。そのまま、数秒、痙攣して、その巨体は水路に転がり落ちた。

「兄さん!」

 銃声を聞き、永が駆け戻ってくる。

「……終わったよ」

 由は静かに水路を見下ろした。男は、もう、ぴくりとも動かない。

 流れる水の音が、再び静寂を引き立てていく。

 パチ、と、手を叩く音が、背後の陰から聞こえた。パチ、パチ、パチパチパチ……それは、拍手だった。

「おめでとう。合格だ」

 いつの間にか、《勧誘人スカウトマン》を名乗った男が姿を現し、近づいてくる。

「さぁ、この場に長居は無用だ。車を待たせているから、乗りなさい」

 男が促す先は大通りだった。男の歩みは、紳士然であり、堂々としていた。

 唇を引き結び、由は男に続いて歩き出す。一歩、遅れて、永も隣に並んだ。

 誘拐かもしれないと、考えなかったわけじゃない。まして、人ひとり殺すことを教唆しているのだ。この先、どんな目に遭うか分からない。けれど、今この瞬間を生き延びるすべを、他に思いつけなかった。選ばなければ、自分たちは、明日の朝には確実に凍えて死んでいた。

「車に着くまでの雑談に、聞かせてもらえないかい?」

 歩きながら、男が不意に、由に尋ねた。

「君の創った、手紙のシナリオ……君は、あの男を、と見た?」

 コツ、コツ……男の靴音が、ゆったりと、乱れなく響いていく。

「……写真から、推測しただけです」

「詳しく」

 男が促す。由は視線を落として続けた。

「貴方から受け取った、あの人の写真……腕にいくつも、注射の痕がありました。咥えていた葉巻も、ただの煙草じゃない。以前に居た街でも、吸っている人がいたので見覚えがありました。実際、香りも同じだった……あれは、麻薬の葉巻です」

 それに……と、由は静かに話していく。男は、じっと、それを聞いていた。

「会話をしてみて、あの人の発音が、この地域のそれとは異なることに気づきました。それで、思ったんです。麻薬に関わり、命を狙われ、この街に逃げてきた……摘発された麻薬組織の人なんじゃないか、と」

 あくまでも推測ですが……と、由は小さく言い添えた。

「良い解答だ」

 男は満足そうに頷いた。

「あの男は、我々が先日潰した麻薬密売グループの残党でね。彼自身も中毒者なのが災いして、これまで多くの犠牲者を出してしまった。一刻も早くする必要があったのだよ」

 とはいえ……と、男は言葉を続ける。

「私の仕事は《勧誘人スカウトマン》……国中を回り、君たちのような有望な子供を見出すのが専門だ。だから、兼ねることにしたんだよ。彼をテストの材料にすれば、一挙両得だとね」

 人を殺せる子供を探していた……いや、正確には、子供を探していた。

 ふと、無意識に握り込んでいた由の手に、柔らかく温かいものが触れた。永の手だった。

 今しがた人を撃った兄の手に、弟は自分の手を重ね、ぎゅっと力を込めて、固く繋いだ。

「私は、君にも適性があると見ているよ」

 男は、ちらりと横目で永に視線を送る。

「兄に銃口が向けられたとき、君は咄嗟とっさに、躊躇ためらいなく兄の前に出てかばおうとした。それも私は、高く評価しているよ」

 男の冷静なまなざしの向こうには、微かに滲む、慈しみの色があった。

 大通りに出る。行き交う車のライトと、煌々こうこうと照らす街灯の光が、闇に慣れた目に眩しい。

 路肩に停められた車は、黒々とよく磨かれた高級車だった。運転手は若い女性で、ボンネットにもたれて煙草を吸っていたが、こちらに気がつくと、急いで火を消し、笑顔で迎えた。

「あら、可愛い子たち」

 後部座席のドアを開け、女性は由と永に、車に乗るよう促した。

「怖がらなくて良いわよ。《勧誘人スカウトマン》のテストに合格した子を、私たちが無下に扱うことはないから」

 大事な候補生だもの、と女性はバックミラー越しに微笑む。

 車の中は温かく、運転は丁寧だった。市街地を抜け、車は郊外へと向かっているようだった。どこへ連れて行かれるのか。自分たちはこれからどうなるのか。尋ねずにいる兄弟に、男は苦く笑って言った。

「安心したまえ。行き先は、我々の組織が出資している孤児院だ。そこで君たちは、将来我々の組織の一翼を担う存在として、豊かに手厚く育てられる。この国の秩序と正義を維持するための、粛清の仕方を学びながら、ね」

「……粛清……」

 由が視線を上げる。バックミラーに映った男と目が合った。

「貴方たちは、何か、政府の……?」

 由の問いに、男は頷く。

「国家公務員だよ。ただし、公には存在しないことになっている機関だけれどもね」

「……国家……」

 由は呟く。男の言葉に、嘘はないだろう。後戻りできない自分たちに、甘い嘘で夢を見させる理由はない。この男に、そんな嗜虐趣味があるようにも見えない。

 ふと、肩に微かな重みと温もりを感じ、由は視線を永に移した。由と手を繋いだまま、由の肩に寄りかかって、永は小さく寝息を立てている。

「君も少し眠ると良い。到着まで、あと数時間ある」

 男は微笑んだ。車内は温かく、座席は柔らかく、振動は程良く心地が良かった。けれど由は、目を閉じることを躊躇ためらっていた。瞼の裏に、殺した男の断末魔の顔が焼きついている。

 永……。

 逃れるように、弟を見つめる。穏やかな寝顔だ。ほっと息をつき、由は微笑む。

 そうだ、永……お前と生きるためなら……お前を生かすためなら……何だって、俺は……。

 ふっと、安堵のはさみが、緊張の糸を切った。意識がほどけ、微睡まどろみが広がっていく。

 自分に凭れて眠る弟の頭に、そっと頬を乗せて、由は静かに目を閉じた。


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