Act.1-4

 初雪が降り始めてから、僅か半月も経たないうちに、街はすっかり雪に覆われていた。旧市街の北端。過去の内戦の爪痕が、手当てを施されないまま崩れていった、ひときわ風化の進んだ地区だった。

 酒場の建ち並ぶ街路の片隅。僅かな軒下で、かろうじて雪を避けながら、拾った毛布にふたりで包まり、ぴたりと身を寄せ合って縮こまる。

 夜が深まるとともに、寒さは一層、容赦をなくし、どれだけこらえても、歯の根がかちかちと音を立てた。

「もう少しの辛抱だよ、永」

 自分も震えながら、由は永に微笑みかける。

 酒場が営業を終えれば、ごみ捨て場で残飯にありつける。僅かでも空腹を満たすことができれば、寒さも少しは和らぐだろう。

 でも……。

「……寒い……な……」

 抱えた膝に、額をつけて、由は小さく呟き、顔を伏せる。だめだ、笑顔を上手く作れない。疲れているのかもしれない。……もう、疲れたのかも、しれない。

 この夜が終わるまで、凌げるだろうか。

 この冬が終わるまで、耐えられるだろうか。

 たとえ凌げても、また次の夜が来る。

 たとえ耐えられても、また次の冬が来る。

 あと、いったい、どれだけ……。

「兄さん」

 刹那、繋いでいた手が、そっと持ち上げられるのを感じた。顔を上げると、永が由の片手を両手で包み、微笑んでいる。そのまま目を伏せ、永は、はぁっと吐息を当てた。ほのかな温もりが、凍えた由の指先に滲む。

「永……」

「俺は、寒くないよ」


「兄さんがいるから、寒くない」


 そう言って、もう一度、永は由の手を温めた。

「……俺も」

 由の顔が、ふわりと綻ぶ。

「ありがとう、永。お前がいるから、俺も寒くない」

 こつん、と額を合わせて、笑い合う。

 永。お前を守るためなら、俺は、いくらだって世界に抗える。

 お前を死なせないためなら、俺は、どんな世界でも生きられる。

 永がいるから、生きられる――

「君たち」

 コツ、と質の良いブーツの音が、不意に、凍てついた石畳を鳴らした。

 見上げると、上等そうな黒のコートに身を包んだ初老の男が、ふたりの前に立っていた。

「テストを受けてみるかい?」

 背の高い体をかがめ、こちらに目線を合わせると、男は柔和に微笑んで、続けた。

「私は《勧誘人スカウトマン》。合格したら、暖かい場所に保護してあげる。食べるものも、着るものも、ベッドもある。もちろん、ふたり一緒にね」

 表情も声音も、至極、穏やかで、優しかった。しかし、笑みの形に細められた瞳の向こうには、こちらを冷静に値踏みするような、冷ややかな光が宿っていた。

「兄さん……」

 警戒と戸惑いに瞳を揺らし、永が、ぎゅっと由の腕にしがみついた。そんな永の手に由は自分の手を重ね、大丈夫だという声の代わりに、永に小さく微笑みかけた。そして再び唇を引き結び、まっすぐに男を見上げて、尋ねる。

「テストって?」

 凛とした、落ち着いた声だった。男は満足そうに頷いて、肩に掛けていたビジネスバッグから、銃とナイフ、そして一枚の写真を取り出した。

「今から十分後、あそこの店から、この男が出てくる。そいつを殺すんだ。上手にできたら、合格だよ」

 男が指差したのは、道路の向かいにある賭博場だった。

「言っておくが、ここから先の質問は無用だ。テストを受けるか、否か。君たちの選択に条件はない」

 さぁ、どうする? と男の瞳が鋭く光る。

 殺すことが、テスト。殺せることが、保護される条件。

 人を殺したことなんてない。銃やナイフに触れたことすらない。

 今までずっと越えずにいた罪の境界線が、足もとで静かに掻き消えていく。

 たとえ、それが、生きるための罪でも。

 永と繋いでいた手を、由は、そっと、ほどこうとした。男に手を伸ばし、右手で写真と銃を、そして左手でナイフを取るために。

 けれど、繋いでいた手は、永によって留められた。結んだ手はそのままに、永の左手が、由の代わりに、男の手からナイフを取る。

「永……」

 由が、僅かに瞠目して、永を振り返る。永は、きゅっと唇を引き結び、ナイフを胸もとで握ると、意志を湛えた瞳で、由を見つめた。

「決まりだな」

 男は笑みを深めて頷いた。

「銃の安全装置は外してある。トリガを引けば、簡単に撃てるよ。……では、健闘を祈る。私は、少し離れたところから、君たちの受験を監督するとしよう」

 そう言って、男は静かにきびすを返すと、街灯の陰に消えていった。

 由は写真に目を落とす。人相の悪い中年の男だった。どこかの廃倉庫で撮られたらしい。太い葉巻をくわえ、辺りを警戒するように睨んでいる。大柄で、くたびれたランニングから、複数の注射痕の目立つ筋肉質な太い腕が伸びている。

「……行こう、永」

 永の手を引き、賭博場の建物の陰に入る。繋いだ永の手は、小さく震えていた。頭では覚悟を決めても、心がついていけないのだろう。

「大丈夫だ、永」

 由は微笑み、ささやいた。

「俺がやる。永は俺をサポートしてくれ」

「兄さん……」

「考えがあるんだ。良いかい、永。相手は大人だ。しかも大柄で、間違いなく暴力の心得もある。武器だって持っているだろう。正面からまともに向かったら、殺されるのは俺たちだ」

 殺される。その言葉に、永はびくりと体を震わせる。そんな永の頭に、由は優しく手を置いた。

「だから、一芝居打つ。今から伝えるシナリオ通りに、永は動いてくれれば良い。俺が確実に殺せるように、永は俺を守ってくれ」

 服の下に銃を隠し、由は身構える。与えられた情報は、写真一枚のみ。そこから、いかにして、相手の背後を取れるか。不意を突けるか。こちらが用意する舞台に、相手を引きずり込むことができるか……。

 やがて、賭博場の分厚い扉が開き、写真の男が現れた。ミリタリージャケットを着込み、せわしなく周囲に視線を巡らせ警戒しながら、反対側の街路へ歩いていく。まだだ、まだ、もう少し、距離を取る。不自然でなく走って追いつける距離まで。

「……よし、行くよ、永」

 手を繋ぎ、建物の陰から出る。

「あのっ……!」

 後ろから呼びかけ、男に向かって駆けていく。

「何だ……?」

 足を止め、男が振り返る。警戒の刃は研ぎ澄ませたまま、それでも、走ってくるのが幼い子供ふたりだと分かると、その眼光は、ほんの少し、牙を収めた。

「子供か……物乞いなら、他を当たりな」

 面倒そうに舌打ちをして、彼は早々にきびすを返そうとする。

「あっ、違うんです。俺たち、さっき、向こうの辻で、貴方に手紙を渡すよう頼まれて……」

「手紙?」

「はい。貴方の仲間だって、言っていました。貴方に伝えたいことがあるけれど、自分はマークされているから、迂闊うかつに接触できないんだって」

「仲間……? そいつは、どんな奴だった?」

 男が食いついてくる。由はわざと、困ったように首をかしげた。

「どんなって……この辺じゃ見かけない人だってくらいしか、俺には……」

「ちっ、仕方ねぇな……まぁ良い。とりあえず、その手紙を寄越しな」

「はい。……弟が持っているんです。自分が持ちたいって、聞かなくて。……ほら、さっき預かった手紙、早く出して」

 そう言って、由は永に視線を向ける。永は小さく頷いて、ごそごそとポケットを探るふりをした。

「……ごめんなさい……落としちゃった……」

「何だって?」

 男の眉が上がる。

「ごめんなさい! さっき、ひとつ先の水路の脇で、弟は転んだんです。きっと、その時に、落としたんだと思います。すぐに探しますから、貴方も……」

 そう言って、由は、ちらりと男を見上げる。

「しょうがねぇな。俺も行こう」

 頭を掻きながら、舌打ちまじりについてくる。ここまではシナリオ通りだ。男を気にしながら、由が歩き始めたとき、

「……なんてな」

 カチリ、と、由の後ろで、硬い金属の音がした。

 足を止め、肩越しに振り返ると、男が由の背中に、拳銃を向けている。

「兄さん……っ」

 永が咄嗟とっさに由の前に立つ。由の言いつけを守り、ナイフは隠したままだ。

「言え。誰に頼まれた」

 男は言った。銃口は、由にぴたりと狙いを定めている。

「誰って……さっき、お伝えしたように、俺たちは、ただ、知らない人から、貴方に手紙を渡すよう頼まれただけで……」

「嘘をつけ。この先の路地裏か、どこかに、待ち伏せている人間がいるんだろう。そこへ俺を連れてくるように言われたのが、本当のところなんじゃないか?」

 男は警戒していた。いや、怯えていた。こちらを信じることができず、そうかといって全く信じずに離れていくこともできない。

 それで良い、と由は思う。信じないで構わない。いぶかりながらでも、ほんの数分、離れずにいれば。

「路地裏になんて入りません。すぐ先の水路まで行くだけです。それに、よく見てください。今、この通りにいるのは、俺たち兄弟と、貴方だけです」

 低めた声で、由は静かに、ゆっくりと話した。由の言葉に、男は拳銃を突きつけながら、周囲の気配を探る。

「……分かった。だが、妙な真似をしたら、すぐに撃つからな」

 そう言って、無精髭の生えた顎をしゃくった。

「行くよ」

 永の肩に手を置き、再び歩き出す。大丈夫だ、永。ありがとう。

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