第16話 傷の異変

 藤本はかつてない自身へ襲いかかる恐怖と危険にただ従うしかなかった。


「ま、待ってくれ! 降参だ! ゆ、許してくれ! か、金ならいくらでもやる!」


 創は少し笑いながら交渉を始めた。


「確かに研究費用はいくらあっても足りないが、汚れた金は使いたくない。胸の拳銃は没収するぜ」


「な……」


 唯一の武器を取り上げられた藤本は無力化し、狼狽する。


「俺の要求は母さんの研究を、家族の研究を、生物兵器目的で使わないでくれってことだけだ。あんたは約束してくれるか?」


 選択の余地はないかのようにナイフの刃先が眉間へ近づく。


「わ、わわ、わかった! 約束する! だから凶器を向けないでくれ!私は先端恐怖症なんだ!」


 タチの悪い言い訳かと思いきや、まともな理由だった。


 創も遊びをやめるように止められた子どもの顔をしながら渋々バイオツールを元に戻し、消耗を抑えるために変身も解いた。


 創は後ろを振り向き、彩理を呼ぶことにした。


「おーい、片付いたからこっちきなー」


「わかったー」


 呼びかけに答えた彩理が創へ向かって走り出す。


 走る彩理の目の前には、創と腰の抜けている藤本しかいない。


 襲いかかった人型は、あたり一面に砂となって黒いアスファルトを部分的に染めている。


 もう一度言う。


 彩理の目には二人しか見えていない。


 次の瞬間、彩理が見たのは創の胸から先ほどのバイオロイドが持つ鋭利で長い爪が血塗られたまま突き出ていた。


 長い四本の爪は、背後から忍び込んだバイオロイドによって、創の背中から胸に向かって斜め上に貫かれている光景が目に入ってきたのだ。


 創は鋭く加わった衝撃に両目を見開き、開いていた口は更に大きく拡大する。


 混乱する創はなんとか自らがとらわれている状況を悟り、すぐさま背後を襲ったバイオロイドを反射的に後ろ蹴りで突き放したと同時に、貫通した爪も引き抜かれた。


 刺された傷口から血液が垂れ流しの状態で暗い地面に落ちてゆく。


 口の中は溢れ出す液体によって、覚と嗅覚が絶えず血の味と鉄の匂いで満たされている。


 創には小さな針が連続で刺さるようなズキズキとした小さな痛みが走るのだが、それと反比例するかのように、身体はバランスを大きく崩し、前のめりに倒れそうになるが、なんとか両膝をついてそれを免れた。


 彩理はここまで飛び込んできた光景によって、一時的に脚が震え、が動かなくなってしまった。


 次に動けるようになったのは、膝をついた創が倒れようとすることを防ぐために急いで両肩を抱いた時だった。


「創! 創!」


 彩理は創の肩を揺らしながら大声で呼びかける。


 身体の力が抜けている創の体重が彩理に寄りかかれども、それはあまりにも軽く感じた。


「ごめん、油断した。大丈夫……」


「でも……!」


「もうちょっとで修復が終わる、から、待ってて……」


 創の着ていた服は自身の血液に侵食され大部分が真っ赤に染まっている。


 傷口からの出血は既に止まっており、あとは内部機能の復帰を待つだけだった。


 彩理が創に呼びかけたその先に、いつの間にか立ち上がった藤本が立ちはだかっていた。


「人が良すぎるぞ、小僧。こんな罠すら見抜けないとはな」


 顔は創に対する呆れと、再びイニシアティブを握ったことによる安堵の表情が混在していた。


「っ!」


 藤本を睨んだ彩理の目は、血液とは異なる真っ赤な色になり、温度を持った涙がこぼれそうになっている。


 全身に力が入り、怒りとも悲しみともとれるほどの感情を身体の震えが表現していた。


「おとなしく引き渡すんだ。このくらいで死にはしない」


 あれだけの数が消えたはずのバイオロイドがぞろぞろと増え始め、彩理たちを包囲するほどの数で、逃げる隙間も抗う力も無力化されるほどであった。


 彩理は創をゆっくりと横に寝かせてから立ち上がり、一人藤本と対峙する。


「……嫌だ」


 言葉をわずかに発しただけだが、そこには確かな意思があった。


「何?」


 見当違いだと言わんばかりに眉間を狭め、藤本は聞き返す。


「嫌だって言ってるんだよ!」


 その怒号は、大事な人を傷つけられたことに怒り、そして守る覚悟を決めた彩理の証拠でもあった。


「彩理ちゃん!」


 創はようやく動けるようになった身体を起こし、すぐさま急速回復用のアンプルを飲み干して捨て、クロロの力を開放して追いつこうと立ち上がった。


 その一瞬の行動は、あまりにも手遅れであり、悲劇を回避するまでにはいかなかった。


 言葉の反射として、二つの銃声が跳ね返ってくる。


 藤本の所持するリボルバーはそれぞれ、彩理の左肩と右足に銃弾を命中させた。


 銃口から煙を吐き出し、ゆっくり藤本は腕を下げた。


「ううっ……くっ……」


 最初になかった痛みが、徐々に肉を引き裂かれたような強烈な刺激が脳を襲い、それが全身に蔓延し始めた。


 彩理の額には秋とは思えぬほどの汗がにじみ出ており、それは高熱を発する患者に近い様相がふさわしいほど。


「彩理ちゃん! 彩理ちゃん!」


 回復した創が彩理へ駆け寄った。


 彩理の朦朧とした意識の中で、色鮮やかな緑色の長髪と模様が描かれた顔を見せる創を網膜で投影させていた。


 創のようにすぐに出血は止まらない。


 赤い濁流が彩理の周囲を染め、彩理の意識が薄くなり始めた。


 打たれた箇所に衝撃と耐えられなくなった体重が負荷となって、片膝で支えることが精一杯だった。


「それでも、守ろうというのかね? 若き研究者よ」


 藤本の顔には勝利を確信したように嘲笑をこぼした。


「くそっ……どうしたら……」


 彩理の怪我がなければ、再び距離をとって反撃に転じることもできた。


 創にとって、彩理の余計な出血を防ぐためには、その場にと留まるしかなかったのだ。


「しっかりしろ! 彩理ちゃん!」


 彩理と向き合った創はひたすら声を出す他なかった。


 どうすることもできない状況に、創は自らを差し出す覚悟を決めた時だった。


「創、ごめんね……」


 彩理は、力を振り絞って声を出した。


「謝るな。今喋ったら、身体がもたなくなる」


 避けられない時間に差し掛かったことを、創は受け入れたくなかった。


「それ、なんだけど――わたし、――」


 彩理の“最期”とも言える言葉に、妙に引っかかった。


「彩理ちゃん? それ、どういう……」


 彩理の左手から、急速回復用アンプルの容器が落ちた。


 プラスチック特有の乾いた音が地面と衝突し、創の耳に入ってきた。


 細長い容器の中身は空になっており、既に飲み干した後になっている。


「絶対に、守るから、ね?」


 彩理は目を細くし、笑顔を作った、次の瞬間であった。


 みるみるうちに、出血を繰り返した肩と足の傷がふさがり、完全に傷口を消した。


 額に滲んだ汗が消え、髪の色がもうひとりと同じ緑色に代わり、顔に浮かび上がった模様はもうひとりとは異なるパターンに浮かび上がった。


「!」

 

 創は驚きを隠せなかった。

 

 バイオロイドの潜在能力を引き出せるクロロは、自分にしか使うことのできない力であると信じてきた。


 この状況は、この環境は、一体何が起こっているというのか。


 生き方に苦しんでいた一人の女の子が、もっと言えばバイオロイドではない一人の人間が、クロロを発現していたのだ。


 閉じかけていた瞳は大きく見開き、片膝を付くほどの限界を迎えていた身体はしっかりと二本の足で立ち上がっていた。


 次の瞬間には包囲していた、彩理たちとは異なる人型が、いつの間にかナイフに展開していた彩理のバイオツールによって切り裂かれ、倒されていたのだ。


「なっ……何だと!?」


 藤本にもあまりに予想外の状況へ変貌し、攻撃を指示することも退避する選択も脳内から消えてしまった。


「…………」

 

 クロロを発現する彩理は、何も語らなかった。


 しかし、生まれたばかりの新たなクロロには問題が生じていた。


 彩理の目は相手方のバイオロイドのように禍々しい赤へと変わり果て、目を合わせればそれだけで獲物を捕捉し殺す獣のような、創とは別の意味で“人ではない生き物”がそこにはいた。


「・・・・・・ウアアアアアアアアァァァッ!」


 さっきまで彩理は人間だった。


 今は人なのか、人外なのか、果てはその境目にいるのかまでは解らない。


「嘘だろ……なんで、彩理ちゃんが……」


 彩理の見開いた瞳と、怒りや悲しみを超越した咆哮。

 

 それは創にとって、何としてでも自身が止めなければならない状況でしかなかった。

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