第50話 完

 帰りの電車は十分ほど遅延した。

 これくらいならそこまで珍しくもない。

 日が暮れてもまだ感じる暑さにネクタイを緩めながら、途中のスーパーに立ち寄る。

 冷蔵庫の中身がそろそろ寂しくなってきたので、食材などを買い足す。

 名残のようなもので、ここ数日の夕飯は自炊していた。

 一人で作って一人で食べるのは少し寂しくもあるが、今は料理をするのも楽しめている。

 いつまで続くかは自分でもわからないけど、しばらくは続けてみようと思う。

「ただいま」

 薄暗い部屋に入り、電気をつける。

 当然、彼女の姿はない。

 それでもつい『ただいま』と言ってしまうのは、これも名残だろう。

 スーツを脱いでハンガーにかけ、着替える前に食材を冷蔵庫に入れる。

 そのあとで部屋着に着替え、ソファに座ってスマホを確認した。

 特に連絡事項はなし。

 なにもかも、いつも通りだ。

 カーテンの隙間から覗く夜の気配に息を吐く。

 残業こそなかったものの、仕事による疲れはあった。

 自分でもわかるくらい、集中して仕事をしていたからだろう。

 でも、気怠さを覚える嫌な疲れ方ではない。

 むしろ心地よさのある、達成感のある疲れだった。

「今頃、どうしてるかな」

 いくら集中して仕事をしていても、頭の片隅には彼女のことが残っていた。

 あれから三日。

 まだ三日とも言えるし、もう三日とも感じてしまう。

 最後の戦いになると言っていたが、それがどれほど過酷なものになるのかは想像もできない。

 数日で決着がつくのか、もっと長い時間がかかるのかすらも。

「スマホで連絡くらい、くれてもいいのに」

 こっちから連絡する手もあるけど、彼女の事情を考えると躊躇してしまう。

 もし俺が連絡したせいで、なにか不都合でもあったら取り返しがつかない。

 いや、そもそも彼女が戦っているときは連絡がつかないのだから、するだけ無駄だ。

 それに、こっちから連絡するのはルール違反な気もする。

 全てが終わったあとどうするのか、どこに戻るのかは彼女次第。

 催促をするような連絡は、きっとするべきじゃない。

「もう会えないかもしれないけど……」

 もしかしたら彼女は、戻らないつもりだったのかもしれない。

 だからこそあの日、初めて自分のことを話してくれたとも考えられる。

 俺とはもう会うこともないから。

 それとも、戻ってこられないと考えていたか……。

「いや、それはないか」

 あの日話してくれた内容は、決して遺言めいたものじゃなかった。

 戦いを終わらせて帰るという、確かな意志があった。

 だから、それだけはない。

「ま、ここに戻ってくるなんて約束、してないけど」

 期待してしまっている自分には、今更驚かない。

 それがどんな感情から湧いて来る期待なのかは、まだわからないけど。

 ただの同情か、それとも別の感情か。

 答えを今出す必要は、たぶんない。

 今の俺にできることは、彼女が無事に帰ってくることを待つだけ。

 たとえ別の場所に彼女が帰ることを選んだとしても、それはそれで構わない。

 ただ一つだけ、無事に終わったと知ることさえできれば。

 とにかく、俺は待つと決めた。

 もし彼女がここに帰って来たとき、当たり前に出迎えることができるように。

 彼女が『ただいま』と言ってくれたら、『おかえり』と返せるように。

 あの日の俺よりも、胸を張って彼女と会えるように。

 そのために俺は――。

「…………」

 ほんの一瞬だった。

 空耳だったと言われたら、だろうなと頷けるくらいの、微かな音が聞こえた気がした。

 玄関よりも近く……それは、ベランダだ。

 僅かな隙間には、夜の暗さしか見えない。

 あれから三日だ。

 そう都合のいいことがあるなんて、正直思えない。

 だけど高鳴る鼓動に、俺は立ち上がっていた。

 ベランダへと続くカーテンの前に立ち、息を呑む。

 音はもう聞こえないし、気配も感じない。

 でも、いつかの夜を思い出す。

 あのときも彼女はそこにいて、俺はなかなか気づかなかった。

 確かそのときは、怪我を見せたくなくて俺が眠るのを待っていたんだ。

 だけど寒さにくしゃみをして、気づくことができて……。

 今回もそうだという保証はない。

 もし彼女がいなければ、俺はきっと落胆するだろう。

 自分でも引くくらい、情けなく。

 でも、確かめなければきっと、答えは出ない。

 もしかしたら彼女は躊躇っているかもしれないのだから。

 踏み出すのなら、こっちからでもいい。

 自分を奮い立たせるように深呼吸をして、カーテンに手をかける。

 そして新しい一歩を踏み出すように、俺はカーテンを開けた。

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正義の味方の羽やすめ 米澤じん @yonezawajin

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