第49話

「一息入れるか」

 必要なデータを送り終えたところで席を立つ。

 ずっと続いていた集中が切れたからか、喉が渇いていることに気づいた。

 休憩所まで行き、自販機でコーヒーを買う。

 椅子ではなく壁に寄りかかりながら、窓の外を眺める。

 あれから――彼女が姿を消してから、もう三日になる。

 彼女はまだ姿を見せず、もちろんスマホに連絡もない。

「まだ戦ってるのかな……」

 それとも、すでに戻っているが俺の前に姿を現していないだけか。

 それならそれでもいいと思う半面、寂しくもある。

 俺が知る限り、世界は相変わらず平和だ。

 なにか異常な出来事や事件は、今のところ起きていない。

 だから最悪の事態にはなっていないと思う。

 まぁ、ニュースを見れば小さな事件から話題になるような事件は起きているけど。

 それはある意味当たり前で、普段通りのことだろう。

 世界も、俺自身の生活も変わらない。

 ごく当たり前の毎日が続いている。

 いつもの部屋で目覚め、出勤して仕事を済ませて、帰宅する。

 ほんの一ヶ月前までと同じ、俺の人生だ。

 もちろん、違う部分もある。

 住み慣れた部屋のはずなのに、一人では広すぎるような気がしてしまったり。

 フローリングにある使っていない布団を、意味もなく眺めてしまったり。

 どうやら俺の生活の中に、彼女という存在はしっかりと食い込んでいたらしい。

 自覚していなかった事実に、一人苦笑してしまった。

「休憩中?」

「ん? あぁ、ちょっとな。そっちもか?」

「ん、まぁね」

 自販機で飲み物を買いながら、咲奈は素っ気なく頷く。

 そのまま自販機に肩を預け、コーヒーの缶に口をつけながらこっちを見てくる。

「えっと、どうだった、あれ」

 なんとなく居心地の悪さを覚えて、休憩前に送ったデータについて確認する。

「ざっとだけど、目は通してみた。たぶん大丈夫じゃないかな」

「だといいんだけどな。不備とかあれば、遠慮なく指摘してくれ」

「当然でしょ、仕事なんだから」

「だな」

 当たり前のことを言ってしまった自分を恥じる。

 そんな俺の顔を探るように、咲奈は僅かに目を細めた。

「ね、大丈夫?」

「大丈夫って?」

「んー、なんとなく。最近なんか、気がかりがあるみたいに見えてたから」

「……あぁ。まぁ、大丈夫だ」

「うん、そうみたい」

 あっさりとそう言われるくらい、最近の俺はおかしかったのだろう。

 思い返すまでもなく、自分でもそう思う。

 彼女のことばかり考えていて、仕事に身が入っていたとは言い難い。

「逆に今週はなんて言うか、やる気があるみたいね」

「そう、だな。たぶん、そうだと思う」

「週末、なにかあった?」

「あったと言えば、まぁ」

「そう」

 そんな答えで納得できているのかはわからないが、咲奈は微かに笑みを浮かべた。

「じゃあ、もう大丈夫ってことか」

 理由までは追及せず、咲奈は事実の確認をしてくる。

 俺がちゃんとできるのかどうか。

「あぁ、もう大丈夫だ」

 先ほどよりもはっきりと俺は答える。

 咲奈の目を真っ直ぐに見て。

 先週までの俺ならきっと、すまないとか悪いとか、後ろ向きな言葉しか返せなかったと思う。

 でも今は違う。

「もう一回、頑張ってみるよ、俺」

 自分の内側から湧いて来る熱に、笑みが浮かぶ。

 自信があるかどうかは、この際考えない。

 やるだけやってみると決めたのだ。

 自分の人生と向き合うために。

「そっか。じゃあ、うん。頑張って」

 俺の決意がどれくらい伝わったかはわからないが、咲奈は噛み締めるように頷いて、笑ってくれた。

「あ、咲奈」

 ゴミ箱に空き缶を入れて立ち去ろうとする咲奈を呼び止めた。

「なに?」

 立ち止まり振り返った咲奈は、少し意外そうな顔をしていた。

 俺は少なからずある照れくささや申し訳なさに空き缶を弄びながら、今あるありったけの勇気を振り絞る。

「いろいろ、ゴメン」

 たったそれだけでも、咲奈には伝わったと思う。

 一瞬だけだが、表情に複雑な感情が入り混じった。

 でもすぐに唇を緩め、小さく頷く。

「それと、あの……いろいろ、ありがとう」

 でも、次の言葉には微かに目を見開いた。

 一つ目と二つ目の言葉は、同じことについてのものだ。

 だけど含まれる意味合いは、まるで違う。

「…………うん」

 時間をかけて呑み込むように、咲奈はもう一度頷いた。

 その表情に、変化はない。

「俺、頑張るからさ、本当に」

 繰り返す決意に、咲奈が嬉しそうな笑みを浮かべた。

 久しく見ることのできなかった、俺が好きだった表情。

「なら、早く仕事に戻りましょう、佐原君」

 咲奈は事務的な言葉を残し、一足先に戻って行った。

 俺はその背中を見送り――いや、すぐに歩き出す。

 示した決意が本当だと、証明するために。

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