第23話

「怒ってないといいんだけど」

 エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。

 駅からマンションまで歩いてきたが、アルコールに酔う感覚はまだ残っていた。

 前半はペースを落として飲めていたが、後半は後れを取り戻すように飲むことになってしまった。

 まぁ、半分以上は自業自得だけど。

「ま、訳ありってのはよーくわかった。一応、無罪ってことで信じてあげる」

 大分絡まれたが、最後には咲奈もそう言って納得してくれた。

 そのためのアルコールだったと思えば、安く済んだほうだろう。

 もし困ったことがあれば、いつでも相談にも乗ってくれると言ってくれたのは驚いたが。

 とは言え、咲奈に相談しなくちゃいけない事態になるのは、正直避けたいところだ。

「さて、どう出るか」

 時間はすでに22時。

 仕事帰りに飲んで帰って来た時間としては、比較的早いほうだと思う。

 俺は覚悟を決めて鍵を開け、帰宅する。

「……ただいま」

 無意識に声が小さくなっていた。

 だからなのか、帰ってくる声はない。

 聞こえなかったのか、それとも答える気がないのか。

 ゴクリと唾を飲みつつ、電気のついた部屋に入る。

「……なるほど、な」

 返事がなかった理由は、どちらでもなかった。

 彼女はソファに横たわり、寝息を立てている。

 静まり返っている部屋では、微かな寝息もはっきりと聞き取ることができた。

「こうして見ると、本当に……」

 改めて見る彼女の無防備な寝顔は、成人しているとは思えないほど幼く見える。

 気が抜けているからそう見えるのだろうけど、不思議なものだ。

 しかし、この展開は予想外だったな。

 さて、どうしたものか……。

「……ん……ぁ」

 と、俺が次の行動を決める前に、ソファから声が漏れてくる。

「えっと、起こしちゃったか」

「…………ぁ……わた、し……」

 目を擦りながら身体を起こした彼女は、部屋をぐるりと見てから、俺に視線を戻す。

「……お帰り、なさい」

「あ、あぁ、ただいま」

 最初に出てくるのがその言葉ということに、思わず笑みがこぼれる。

 鞄からスマホと財布を取り出し、そのまま鞄はいつもの場所に置く。

 スマホと財布はテーブルに置いてから、ベッドに腰かけてネクタイを緩めた。

「時間…………あ、もうこんな時間に……うっかりしてた」

「結構寝てたのか?」

「夕方くらいから、たぶん。買い物に行こうと思ってたんですけど、ついウトウトして……」

 そのつもりがなかったのに、数時間も眠ってしまったらしい。

 疲れていたのか、もしかしたら気が緩んだのかもしれないな。

「帰り、遅かったんですね」

「会社の飲み会が急に決まってな」

「飲み会……あぁ、だからちょっと顔、赤いんだ」

 なるほどと頷きながら、彼女は口元に笑みを浮かべた。

 可愛い、という聞き捨てならない単語が聞こえた気がするけど、聞こえなかったことにする。

「本当にいきなりでさ、その、連絡しようと思ったけど、できなくて」

「いえ、大丈夫です。見ての通り、私も寝ていたので」

「そうかもだけど、ほら、本当なら夕飯の用意とか、しててくれるつもりだっただろ?」

 幸いというのはおかしいが、彼女が寝過ごしてしまったから夕飯が用意されていなかっただけで、本当ならそれを無駄にさせていたはずだ。

 連絡もなく、帰ってくるはずの時間に帰っても来ないで。

 もしそうなっていたらと考えると、やはり申し訳ない。

「だから、ゴメン」

「謝る必要なんて。居候の身ですから、こっちは」

「それはそれ、これはこれだろ、この場合」

「真面目な人ですね」

「一般的な礼儀の話だよ」

 そう答える俺を見て、彼女は先ほどよりもわかりやすい笑みを浮かべた。

 親しみとは少し違うなにかを感じさせる、そんな笑みだった。

「えっと、で、だな。思ったんだけど、連絡手段がないのはいろいろ不便だと思うんだ」

「確かに……これからも飲み会とか残業とか、たぶんありますよね?」

「あぁ。だからさ、明日はスマホも買わないか? 安いやつでもいいからさ」

「ですね。お互いに都合が良さそうですし、買うことにします」

「そうしてくれると助かるけど、やっぱスマホ、持ってなかったんだな」

 彼女の場合、必要なさそうだから教えていなかっただけ、という可能性もあるかと思ったのだが。

「いえ、持ってはいたんです」

「ん? 過去形?」

「はい。あなたを巻き込んだあの日の戦いで壊れてしまって」

「……なるほどな」

 予想の斜め上な答えが返って来たが、これ以上ないほどしっくり来た。

 どんな戦い方なのかは謎だが、正義の味方も大変そうだ。

「個人的にはもういらないかなって思ってて。連絡する相手とか、もういませんし」

 そして不要だと考える理由も、彼女特有のものだった。

 なんと言えばいいかがわからず、俺は頬を掻く。

 別に彼女が深刻な感じで話しているわけじゃないのだが……。

「…………ぁ」

 重くなりかけたように感じた空気が、とある音で緩んだ。

 助け船みたいな音の出所は、彼女のお腹。

「いい音が鳴ったな」

 軽くなった空気に乗って、そう茶化す。

 彼女は頬を赤らめ、次に膨らませ、ジト目になる。

 一瞬にして切り替わっていく表情は、実に面白い。

「で、どうする? 夕飯の準備、まだなんだよな?」

「……えぇ。その、すみません。その気はあったんですけど」

「別にいいって。でも、今から作るっていうのは、さすがに遅いか」

 夕飯を作ろうにも、食材がほとんど残っていなかったはずだ。

 だからこそ彼女は夕方に買い物をして、それから作るつもりだったのだから。

「よし、コンビニ行くか」

「一緒にですか? 別に一人で買いに行けますけど」

「ちょっと物足りなくて。ほとんど飲んでばっかりだったからさ」

「そうですか。なら、そういうことで」

 頷きながら立ち上がった彼女は、部屋着のまま玄関へと向かう。

 季節的に暖かくなってはきたが、夜に出歩くには少し肌寒そうに見える。

 主に、健康的な太ももの露出具合いとかが。

「行くんじゃないんですか?」

「あ、あぁ……」

 指摘すべきかどうかを悩み、やめておいた。

 口にすると俺が変に意識していると誤解されそうだし。

「深夜のコンビニって、ちょっとワクワクしますよね」

「そうか?」

「はい、上手くは言えないですけど」

「まぁ、若いうちだったらあったかもな、そういう感覚」

 高校……いや、中学くらいだったら。

 懐かしむほど遠くなってしまった記憶を探りつつ、玄関へと向かう。

 コンビニへ向かう彼女の足取りは、面白いくらい軽いものだった。

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