第17話

「寝る前に少し、話せるか?」

 入浴を済ませた彼女が髪を乾かし終えるのを待って、俺は切り出した。

 彼女はそうなることがわかっていたように居住まいを正し、こちらを真っ直ぐに見て頷く。

 その改まった態度に、なんだかこっちが緊張してしまう。

「いやまぁ、なんだ……これからのことについてさ、ちゃんと訊いておこうと思って」

「やっぱり、そうですよね……はい」

 なにが言いたいのかはわかると、彼女は頷く。

 ほんの一瞬だけ目を伏せたが、すぐにまた俺を見た。

「っと、その前にあれだ。俺の身体だけど、本当にもう大丈夫、なんだよな?」

 彼女がどうこうではなく、まずは大前提となるそこを確認しておく。

 もしそうじゃないのなら、話がまったく違ってくる。

「治癒そのものは大丈夫です。もう日常生活を送っても問題ありません」

「そうか。なら良かった」

 これで前提条件はクリアしたことになる。

 となると、あとは彼女がどうするかだが……。

「あの、でも一つだけ」

「ん? なに?」

「治療そのものは終わってますけど、また不意に痛まないという保証はその、実はできなくて」

「そう、なのか?」

「はい。こんな風に治療したのは初めてなので」

「それじゃあ困るんだけど……」

 大前提が崩れてしまう。

「滅多なことはないと思います……たぶん……きっと」

 どうやら彼女にも予想がつかないらしい。

「あ、でも安心してください。傷が開くという感じではないと思うので。ちょっと調子が悪いとか、影響はその程度になるかなって」

「もしかして、この先ずっと……?」

「いえ、さすがにそれはないと思います。たぶん瞬間的なもので、古傷が痛むとか、そういうものに近いんじゃないかと」

「なるほど……まぁ、それくらいなら」

 今だってたまには調子が悪い日くらいある。

 そう考えれば、影響はないに等しい。

 なら、やはり条件はクリアしたことになる。

「じゃあ、もう君の助けがなくても大丈夫ってこと、でいいんだよな?」

 曖昧な訊き方にならないよう、ゆっくりと言葉にして確かめた。

 彼女はその言葉に、小さくもしっかりと頷いた。

 ここで俺の治療や世話をする必要は、もうないのだと。

「だったら、帰ったほうがいい」

 ならば俺が言うべき言葉は、これだ。

 風呂場で考え、彼女の入浴が終わるのを待つ間に決めた、俺の判断。

 彼女は静かに目を伏せ、唇を引き結ぶ。

 この話を切り出した段階でそう言われるのは、おそらく予想していたのだろう。

 普通に考えれば、そうするのが一番自然で、正しいのだから。

「今日まではさ、俺のためだって理由があったし、感謝してる。君のおかげでどうにかならずに済んだ。本当にありがとう」

「それは、私のせいですから当然です」

「だな」

 結局このやり取りをまたしてしまったな、と思い出して苦笑する。

 まぁ、それくらい俺は彼女に感謝していて、同じくらい彼女は申し訳なく思っているということなのだろう。

「それが償いだってのはわかる。でもそれはもう十分だからさ。君はちゃんと帰るべきだ」

 理由も必要もないのなら、帰るべきだろう。

 彼女が本来いるべき場所へ。

「……私は……っ」

 言葉はなぜか続かなかった。

 顔を伏せ、また上げて、唇を閉ざす。

 そこにあるのは迷いか、それとも……。

 どちらにせよ、彼女はすぐにそうですね、と頷きはしなかった。

「……ただ、もし君に事情があるっていうなら、しばらくはいてもいい」

 だから俺は考えていたその先を口にした。

 一番正しいと思った答えを押し退けて。

「…………えっと、いてもいい、とは?」

 あまりにも予想外だったのか、彼女は形の良い目を丸くする。

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔とは、きっとこんな感じだろう。

「そのままの意味だ。居候を続けてくれても、俺は構わないと思ってる」

「でも、あの……いいんですか?」

「事情があって帰れないなら、な」

 彼女は口に手を当て、一瞬目を逸らした。

 どう話すべきかを逡巡しているように、俺には見えた。

 が、俺としては待つつもりはない。

「別に話さなくてもいい。そっちの事情を詮索するつもりとかはないから」

「……普通、聞き出そうとするものじゃないですか?」

「今更だろ。君のことなんて、今でもそんなに知らないし」

「だからこそ、だと思うんですけど」

「とは言ってもな……」

 俺は頭を掻いて、次に顎を掻く。

「正義の味方の事情を訊くのは、さすがに野暮だろ」

「……信じてくれてるんですね」

「疑っても確かめようがないだろ」

「そうですけど……でも」

「だから俺は、看病をしてくれた君の誠意を信じる……それじゃあダメか?」

 俺にわかるのは、この三日間の彼女だけ。

 なら、その三日間で抱いた感情が全てだ。

「もちろん、そっちが出て行く……あーいや、帰るっていうなら、それでいいんだけどな」

 ただ、と俺は少し恥ずかしさを覚えながらも、続ける。

「俺としてはだな、迷惑だから出て行って欲しいなんて思ってないわけで、な」

「……正体不明の正義の味方でも、ですか?」

「ん、まぁ。俺を悪として退治するとか、そんなことしないだろ?」

「あなたが妙な気を起こした場合は、保証できかねますけど」

「いや、そこは大丈夫だけど……」

 目が笑っていなかったように思えて、冗談かどうかを判断できない。

 まぁ、こっちが妙な気を起こさなきゃいいだけの話なので、問題ではない。

「でも本当に、えっと……お世話になっても?」

「倫理的に問題がないとは言わないけど……まぁ、君さえ良ければ」

 伝えるべきことは伝えた。

 だからあとは、彼女次第だ。

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