第18話

 彼女の視線が迷うように揺れる。

 だが、それもほんの僅かな時間で収まった。

「本当の本当に、いいんですか?」

「なにか事情があって帰れないっていうなら」

 縋るような目をした彼女に頷いてみせる。

 繰り返し確かめたくなる気持ちは十分わかるので、それは構わない。

 俺だって逆の立場なら、同じように訊き返してしまうだろうし。

「……なら……だったら、私……」

 突然立ち上がった彼女はテーブルから離れ、フローリングの上に正座をする。

 そして両手を床につけ、

「もう少しだけここに、居候させてください。お願いします」

 律儀に頭を下げた。

「そんなことしなくていいって。勘弁してくれ」

「いえ、これくらいしないと……必要もないのに、お世話になるわけですから」

「わかった。わかったから戻ってくれ。これじゃあ話がしにくい」

「……確かに。じゃあ、失礼して」

 急に畏まられてもこっちが困る。

 まぁ、そうなるのもわからなくはないが……。

「本当にありがとうございます。実はその、どうしようか悩んでいたので」

 対面の席に戻った彼女は、安堵のため息をついて表情を和らげる。

 やっぱりなにかしらの事情があるらしい。

「…………帰る場所なんて、もうないので」

 独り言のような呟きだったが、静かな部屋の中で聞き洩らすには大きすぎた。

 だが俺は特になにも言わず、コップに口を付ける。

 生憎と中身は空になっていたが、気にせず傾けた。

 帰る場所がもうない、か……。

 事情があるのは感じていたが、果たしてそれはどういう意味なのか。

 気にならないと言えば嘘になる。

 もし仮に俺がどういうことかと尋ねたら、彼女はきっと答えてくれるだろうかもしれないが。

 部屋に住まわせる立場として、事情を聴くことは間違いじゃない。

 でも俺としては、説明を求めるつもりはなかった。

 彼女が本当に正義の味方なんてとんでもない存在なら、抱えている事情もとんでもないに違いない。

 正直、そんな相手の事情を聴いても、俺にはどうしようもないだろうし、背負える自信もない。

 そんな強さがあるのなら、咲奈をあんな風に悲しませることもなかった。

 だから俺にできるのは精々、寝床を提供するくらい。

「それじゃあ、決まりだな」

「ありがとうございます、本当に、あの」

「いいって。どうせ大した持て成しができるわけでもないし。気楽に使ってくれ」

「そんなこと……本当に助かります。眠れる場所があるだけでも、十分すぎるくらいですから。それにお風呂も」

 寝床や風呂なら、いくらでもそういう施設があると思うけど。

 そういうことも含めて、なにか事情があるってことだろう。

「でも、どうしてそんなによくしてくれるんです?」

 居候できることが決まって安心しつつも、やはり気になるらしい。

「下心の類はないから、安心してくれ」

「そこはまぁ、それとして」

 もしかして、完全には信用されていないのだろうか?

 彼女が一瞬だけそっと目を逸らした。

 あえて口に出したせいで、逆に意識させてしまったのかもしれない。

「あのですね、経過観察という点で見れば意味はあると思うんです、居候するのは」

「あー、なるほどな。言われてみれば確かに」

 身体のことについて太鼓判は押しつつも、彼女は万が一の場合を考えている。

 そういう意味ではしばらく、ここに居てもらうほうがいいのか。

「でも、大きな理由にはならないって言うか……あなたにはメリットがほとんどないです」

「そうか? 具合が悪くなってないか診てもらえるなら、メリットはあるだろ」

「それくらいなら、週に一回とか二回とか、様子を見に来るだけでもできます」

「ここに住む必要はないか、まぁ」

「はい。なので私、明日からは完全な居候になるわけで……」

「構わないって。最初からそのつもりだし」

 でなければ、ここにいていいなんて言ったりしない。

「でもでも、それだと私のほうがその……」

 正義の味方としては、ただの居候という立場が心苦しいのだろうか?

 まぁ、正義の味方なんてものは、他人のためになにかをする代表みたいなものだし、当然なのかもしれない。

「なら、あれだ。俺が仕事に行ってる間、掃除とか洗濯物とかしてくれないか?」

「お願いされなくても、それくらいはするつもりですけど」

「じゃあ頼む。どうしても一人暮らしだと疎かになるからさ。洗濯物なんて、週末にまとめてやってばかりだし。そういうちょっとした家事みたいなものをしてくれると、かなり助かる」

「わかりました。では、家事全般は私が引き受けます」

 決意をその拳で握り締め、彼女は鼻を鳴らす。

 なんとしてでもやり遂げると、真剣な目が物語っていた。

 その決意は素直に称賛したいし、好意は受け入れたいのだが……。

「ちなみにその家事全般っていうのに料理は……」

「腕によりをかけて作りましょう」

 やっぱりそうか。

 先ほどよりも更に力強く、なぜか俺に挑戦でもするように笑いかけてくる。

「楽しみにしててくださいね。私、やるときはやるタイプなので」

「えっとまぁ、ほどほどに無理せず」

「いえ、やります。必ず美味しいと言わせて見せます。その……いつかは」

「……レシピ大事に、な」

 妙なところで不安を覚えてしまったが、果たしてどうなるか。

 とにかくもう決まったのだ。

 俺と正義の味方の共同生活が、もう少し続くことに。

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