第10話

「どうです?」

「いやー、驚いた。君が言った通りだよ」

「違和感とかは?」

「今のところは特に。むしろ、前より調子がいいかも」

「気のせいですね、それは」

「ま、不自由がなくなったからか」

 準備運動の要領で身体の調子を窺いつつ、肌の様子も確かめる。

 薄っすらと残っていた痣や傷痕も、完全になくなっているみたいだ。

 まさか、本当にここまではっきりと実感できるくらい回復するとは。

 彼女の言葉を信じて、耐えた甲斐があった。

 これなら日常生活にももう支障はないだろう。

「忘れないでくださいね? 今日一日は大人しくしてるって」

「あぁ、わかってるよ。後遺症は遠慮したいからな」

 ここまで彼女の言う通りなのだから、その助言に従うのは当然だ。

 昨日までの苦痛や違和感が錯覚だったんじゃないかと思えてくる。

 それにしても、一体どういう力なんだろうか?

 蘇生させることも驚きだが、触れ合っているだけで傷が癒えていくなんて。

 もしかしたら、病気なんかも治療できたりするのだろうか?

 気になるところではあるけど、そこについて踏み込むのは野暮か。

 彼女もそのあたりの、いわゆる正義の味方という部分についてはあまり話したくなさそうだし。

 彼女に助けられたということさえわかっていれば、それでいいか。

「それで、これからどうします? 朝食とか、大丈夫そうですか?」

「あー、そうだな。たぶん食べられる」

 昨日目覚めたときとは雲泥の差だ。

 今ならいつも通りに食べられるだろう。

「でもちょっと待ってもらっていいか? その、先にシャワーをさ」

 一人で浴びても大丈夫か、と彼女にお伺いを立てる。

 ある意味、彼女は俺の主治医みたいなものだ。

 一応、確認しておくべきだろう。

「えぇ、大丈夫かと。でも、もし辛くなったら――」

「やせ我慢はしない。約束するよ」

 降参するように手を上げる俺を見て、彼女は口元を緩めた。

 よし、これでようやく思いきりシャワーを浴びられる。

 こんなにもシャワーに心を躍らせるのは、生まれて初めてだ。

「じゃあ、私は朝食の用意、しておきますね」

「……少し待ってくれれば俺がやるけど」

「任せるのは不安ですか?」

 思わず頷きかけたが、ギリギリで踏み止まる。

 どう考えてもそれは悪手だ。

 もし頷いたらどうなるか、目を細めている彼女を見れば想像がつく。

「大丈夫ですよ。昨日と同じく、トーストにするので」

「あー、それなら……えっと、じゃあ頼みます」

 言い淀んだ言葉をほじくり返すような彼女の視線が突き刺さる。

 なので俺は浴室へと、逃げるように駆け込んだ。

 二日ぶりのシャワーを浴び、まるで生まれ変わったような気分を味わう。

 一回のシャンプーでは物足りず、もう一度洗髪する。

 身体も入念に洗い、髭も剃ってから浴室を後にした。

「雰囲気、変わりますね」

「そうか?」

「若返った感じです」

「髭のせいかな」

 そんなに濃いわけではないが、二日も剃らなければ多少は目立つ。

 一番の要因は髪を洗ったことだと思うけど。

「すぐ食べますか?」

「あぁ、うん」

 いつもの場所に座り、用意されていたトーストを齧る。

「ちょっと足りないな」

「いい傾向ですね。すぐ用意します」

「ありがとう」

 食欲があるということは、エネルギーを欲しているということだろう。

 確かに彼女の言う通り、いい傾向だ。

 食事を済ませたあとは、特にやることもなく、二人でテレビを見ていた。

 出かけたいところではあるが、今日は大人しくしている約束だ。

 彼女も特にやりたいことはないようで、さして面白くもない昼の番組を眺めていた。

「昼、デリバリーにしようと思うけど、リクエストある?」

「なんでもいいですよ」

「……なるほど、こういう気持ちだったか」

「うん?」

「いや、うん」

 似たような会話をしたときのことを思い出し、苦笑する。

 立場は逆だったが、相手はこういう気持ちだったのかと理解できた。

 選択肢をいくつか提示し、彼女に決めてもらう。

 彼女が選んだのは意外というべきか、ピザだった。

 一人暮らしではあまり頼まないので、俺としてもありがたい。

 そして午後も変わらず、テレビを眺めながら穏やかな時間がすぎて行った。

 午後は映画の放送があったおかげで、会話もそれなりに弾んだと思う。

 そういった娯楽には縁がなかったか興味がなかったらしく、彼女も楽しんでいるように見えた。

「目分量でもいいけど、慣れないうちはレシピ通りにちゃんと軽量するべきだろうな」

「みたいですね。次からはそうします」

 普段よりも少し早い時間に、俺はキッチンで料理をしていた。

 隣には彼女がいて、俺が調理する様子を覗き込んでいる。

 話は簡単だ。

 夕飯をどうするかという話題になり、昨日の材料が余っているので、俺が作ることにした。

 メニューは昨日と同じ、野菜炒め。

 材料的には生姜焼きも作れるだろう。

 料理が不慣れな彼女は、材料も余分に買い込んでいたのだ。

「慣れてる感じですね」

「学生のときに飲食系でバイトしてたからな」

「なるほど」

 それだけじゃなく、一人暮らしを始めてから料理をすることもあった。

 普段はやらないだけで、やろうと思えば多少はやれる。

 彼女に簡単なことを説明しながら、久しぶりの料理を俺は楽しんでいた。

 自分でも不思議だ。

 三日も仕事を休み、こんな時間に料理をしているなんて。

 本当に奇妙で、日常なのに非日常みたいな時間だった。

「……なんだろ」

 不意にチャイムがなったのは、夕飯の用意が終わる直前だった。

「通販は、ないと思うんだけど」

 基本的には週末に届くよう、日時を指定しているし。

「あ、私が出ますよ」

「インターホンでな」

「えーっと、あぁ、これですね」

 一応言っておいて良かったな。

 あの様子だと、普通に玄関を開けそうだ。

 覚えのないチャイムなんて、ほとんどが勧誘の類。

 わざわざ玄関を開けて顔を突き合わせる必要はない。

「はい……え? あーいえ、その……えーっと、はい」

「勧誘ならそのまま切っていいぞ」

 なにやら話し込んでいるようなので、フライパンを片手にそうアドバイスする。

 彼女の性格的に難しいかもしれないが、そのときは俺が代わればいい。

 幸い、料理はもう出来上がった。

「あの、お知り合いの方みたいですよ」

「なんて?」

「えっと、お名前は…………滝川たきがわ、だそうです」

「…………なんて?」

 まさかという思いから、バカみたいに訊き返してしまった。

 だが、答えは変わらない。

 来訪者の名前は滝川。

 それは俺にとって色んな意味を持つ名前であり、わかりやすく言えば彼女は、そう――元カノだ。

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