第9話

 もうじき日付が変わる。

 暗い部屋の中、ベッドに入ってあとはもう眠るだけという状況。

 にも関わらず、俺は居心地の悪さに眠れないでいた。

 明日も仕事は休む予定なので、夜更かしをすることになっても構わないのだが。

「早く眠らないと、治りが遅くなりますよ」

「わかってるけどさ……」

「なら早く眠ってください」

 眠れない原因である張本人が、無茶を言う。

「なぁ、どうしても一緒じゃないとダメなのか?」

「何度も説明した通りです。あなたのためなんですから、あと一晩だけ、我慢してください」

 そんな彼女の声は、俺のすぐ傍から聞こえてくる。

 同じ部屋、なんて距離じゃない。

 彼女は今この瞬間、俺と同じベッドの中にいた。

 おまけに身体は密着していて、しっかりと体温を感じられる。

 これが眠れない原因だ。

 同じシャンプーを使ったとは思えない甘ったるい匂いがベッドを満たし、俺を包み込んでいる。

 今更だけど、羞恥に耐えて身体を拭いてもらって良かった。

 あれがなかったら、また別の意味で居心地が悪くなっていたに違いない。

 とは言え、今の状況が受け入れ難いのは変わらないけど。

「本当にこれで最後、なんだよな?」

「はい。明日の朝にはまず間違いなく良くなってますから。少なくとも、日常生活に支障が出ない程度には」

「……だといいけど」

 彼女の言い分は変わらない。

 あと一晩だけ我慢すれば、俺の身体はほぼ回復するそうだ。

 だがそのためにはこの一晩を、彼女と密着してすごさなくてはならない。

 普通なら女性のほうが嫌がりそうなものだが、彼女は積極的だった。

 まぁ、責任や義務感からそうしているんだろうけど。

「そもそも、今更じゃないですか。こうして眠るの、もう三度目ですよ?」

「三度目って言われても、な……」

 彼女にとってはそうかもしれないが、俺にとっては全然違う。

 昨日までは本当にそれどころじゃなかっただけで。

 まさか、身体が回復してきた弊害がこんなところで出るとは、思ってもみなかった。

 彼女がそこにいるから体調が良く、平静でいられる。

 だが、平静でいられるからこそ、彼女という存在を強く意識してしまう。

 にも関わらず彼女はなにも変わらず、俺の看病をしてくれる。

 白状すれば、一人の健康的な男として、変な気分になってしまいそうで困っているのだ。

 幸いというべきか、まだ理性的でいられるが……。

 いや、理性的でいなければいけないんだ。

 今晩だけは。

 そうすればもう、彼女の世話にならずに済むのだから。

「……って言うか、あれだな。明日まで休む必要、なかったんだな」

 気を紛らわすため、ふと気づいたことを口にする。

 実際どれくらいで完治するかはわからなかったので、余裕を持たせるのは妥当だったと思う。

 社会人として、そう間違った判断じゃなかったはずだ。

「私としてはあともう一日くらい、休んで欲しかったですけどね」

「そんなことしたら、一週間休むことになるだろ。さすがに気まずいって」

 出会いは月曜の夜。

 すでに火曜、水曜と休み、明日の木曜も休む。

 そこに金曜まで休んだら、とんでもない連休になってしまう。

「長く休めたら、得した気分になれませんか?」

「どんな顔して月曜に出社したらいいかわかんないよ、それ」

 入院でもしていたらいっそ開き直れるだろうけど。

 風邪をこじらせたという理由で一週間も休むのは、どう考えても無茶だ。

「ちなみに、なんで休ませたいんだ? 明日にはもう大丈夫になるんだろ?」

「そうですけど、念には念を入れておくべきかと思って。完治する前に動きすぎると、変な治り方をするかもしれませんし、神経とかが」

「後遺症がってことか。それは、確かに怖いな……」

 一日を惜しんで、一生モノの傷が残るのは遠慮したい。

 日常生活が送れるようになるとしても、明日は大人しくしていよう。

「わかってもらえました?」

「あぁ、あと一日、我慢するよ」

「そうしてください。明日も私がお手伝いするので」

 暗くて表情は見えないが、なんとなく笑ったような気がする。

「それにしても、な……」

「まだなにか?」

「いや、申し訳ないなって。なんか、おっさんの世話をさせてるみたいでさ」

 この二日とちょっとは、軽い介護を受けている気分だった。

 日常的な動作の補助だけならまだしも、夜は一緒に眠ってくれたりもして。

「申し訳ないのはこっちです。全部、私の責任ですから」

 繋いでいた彼女の手の指に、少しだけ力が入った。

 手のひらから伝わってくる感情は、今更言葉にする必要はない。

「ま、役得って言うのはアレだけど、君みたいな女の子に世話をされるのはさ、正直ラッキーかなって思ってるのも本当だけどな。俺もほら、男だし」

「喜んでるようには、見えませんでしたけどね」

「そこはほら、見せないようにしてたって言うか」

「ムッツリ、というやつですね」

「んー、それは違うかな、うん」

「そうでしょうか」

 俺の発言が軽口だというのは、彼女もわかっているのだろう。

 だからこそ冗談めかして答え、小さく笑う。

 簡単には拭えない彼女の罪悪感がそれで薄まるのならいいのだが。

 ベッドが微かに軋み、衣擦れの音が漏れる。

「お、おい」

 密着する気配が、僅かに動いた。

 身体の向きが変わり、俺の肩に手が添えられる。

 それだけではなく、彼女は腰から太もも、つま先まで密着させてきた。

 それは彼女という存在感が、俺を支配していくようで……。

「……もしかしたら、私もなのかも」

 十センチと進まずに霧散してしまいそうな呟きに、俺は黙り込む。

 聞き間違いかと思ってしまうほどに小さな呟き。

「責任とか義務はもちろんあるけど……でも、なんだか嫌じゃなくて」

 ただ、そのあとに続く言葉はしっかりと聞こえた。

 その言葉はどこか、恥ずかしそうだった。

 実際にどうなのかは、俺の知るところではないけど。

「自分でも不思議で……どうして、なんでしょうね」

「……さぁ、な」

 会話は、そこで途切れた。

 次にどんな言葉を選べばいいのかがわからず、それは彼女も同じだったのかもしれない。

 静まり返る部屋の中に、衣擦れの音はもう聞こえない。

 お互いに動くこともなく、ただ静寂に身を任せる。

 微かに寝息が聞こえてきたのは、それからすぐだった。

 そのことに俺はなぜかホッとした。

 あれだけ眠れないと思っていたのに、魔法でもかけられたみたいに落ち着いている。

 おやすみ、という言葉は喉の奥にしまい込み、その寝息を聞きながら、俺も眠りに落ちて行った。

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