第4話

「ご馳走さま」

 たった二枚のトーストを食べるのに、一時間もかかってしまった。

 久しぶりの食事としては物足りないし、空腹感もあるにはあるが、今はこれが精一杯だ。

「それじゃあ、ベッドに戻りますか?」

「……そう、だな。あぁ、そうする」

「では」

 彼女に促されるまま肩を借り、テーブルからベッドに戻る。

 まさかこの歳で介護される気分を味わうことになるとは、数日前までは考えたこともなかった。

 それと、こうして肩を借りて実感するのは、華奢な体型に見合わない彼女の力強さだ。

 体格差、体重差というものを全く感じさせない安定感で、俺を支えてくれる。

 もしかしたら抱き上げることもできるんじゃないだろうか。

「……いや、もうされたあとか」

「なにがです?」

「なんでもない。とにかく、ありがとう」

 意識を失っている俺をここまで運んできたのは彼女だ。

 どんな風に運んできたのかは、ある程度絞られる。

 どの選択肢が正解だったとしても、恥ずかしくなるのは明白。

 なら知らないままのほうが、まだ気楽というものだ。

「じゃあ私、後片付けをしてきます」

「別にあとでまとめてやるから、そのままでもいいけど」

「さすがにそれはどうかと。もし痛み出したら、遠慮せずすぐ言ってください」

「……あぁ、そうさせてもらうよ」

 二人分の皿を手に、キッチンへと戻る彼女の姿をベッドで眺める。

 その背中に別の姿を重ねてしまいそうになり、視線をそらした。

 手持ち無沙汰になった俺はスマホを手に取り、連絡事項などを確認する。

 普段ならもう出社している時間だ。

「ま、特にはないか」

 会社を休んで二日目。

 とりあえず俺がいなくても、大きな問題はないようだ。

 俺の分の仕事はきっと他の誰かが、上手に回してくれているのだろう。

 連絡がないっていうのは、そういうこと。

「わかってたこと、だけどな」

 会社には風邪をこじらせてしまったということにしてある。

 普通なら診断書が必要になりそうなものだけど、特には言われなかった。

 忙しい時期だったら小言の一つもあったのかもしれない。

「時期は、良かったんだよな、本当に」

 休むことであまり会社に迷惑をかけずに済んだと思えば。

 ただ、なんとも言えない感情はあった。

 入社して以来、病欠で二日も続けて休んだことはなかった。

 学生時代も高校までは無遅刻無欠席だったし。

 大学の頃はまぁ、サボったことはあるけど、きちんと卒業までした。

 だから、なのかもしれないな。

 本来なら自分がやるべきことを、他の誰かが当たり前のようにやってくれる。

 28歳になっても役職なんてないし、俺にしかできない仕事なんてものは、たぶんない。

 そう、どこにでもいる会社員で、代わりなんていくらでもいる。

 特別なことなんて、なにもない。

「俺だって、誰かが休んだときはそうしてたんだし、な」

 病欠で仕事を代わってもらう。

 その立場が逆転しただけだ。

 なのにどうしてこんなに落ち着かない気持ちになるのか。

 理由はまぁ、したくはないが自覚できている。

 本当、イヤになる。

 こんなんだから俺は――。

「気分が優れませんか?」

「……いや、大丈夫」

 どうやら考えすぎて視界が狭まっていたみたいだ。

 洗い物を終えた彼女がいつの間にか戻って来て、すぐ傍にいた。

 俺は自嘲するように小さく鼻を鳴らして、スマホを枕もとに置く。

 そして彼女はそんな俺の手を、当たり前のように握ってくれた。

「……なんか、楽になったかも」

「そうじゃないと困ります」

 少し困ったように肩を竦める彼女の笑みに、沈みかけていた気分が軽くなる。

 身体の痛みだけじゃなく、気分まで和らげてもらったみたいだ。

 本当に彼女は、不思議な娘だな。

「少し、触りますね」

「え? あ、あぁ……」

 俺の手を握ったまま、もう片方の手をシャツの下へと潜り込ませて、直接胸元に触れてきた。

 丁度心臓のある位置に添えられた手が、体温以上に温かく感じる。

 同時に俺の体温も、情けない話だが上昇してしまった。

 いくら治療の一環とは言え、これはまだ恥ずかしい。

 彼女にも他意はないことは重々承知しているからこそ、申し訳なくもある。

「…………」

 そのまま祈るように目を閉じている彼女を、つい見てしまう。

 改めて理解するまでもないことだが、彼女は綺麗だ。

 正義の味方なんて肩書よりも、アイドルか女優のほうがしっくりくるほどに。

 もしくは、天使か女神か。

 なんてバカげた言葉が頭をよぎってしまうくらい、彼女は特別に見えた。

 でも、ただ綺麗なだけではなくて。

 彼女の表情にはいつもどこか、儚さや憂いを感じる。

 最初に見た表情がそうだったからなのかもしれないけど。

「少し、熱がありますね」

「そ、そうか?」

「はい。でも、いい傾向だと思います。身体の治癒が進んでいる、ということだと思うので」

「あ、あぁ、そ、そうかもな」

「なんです?」

「いや、なんでもない」

「遠慮はなし、ですよ?」

「本当に。本当になんでもないから、うん」

「そうですか」

 彼女は納得したように頷くと、そのまま突っ伏すようにしてベッドに寄りかかる。

 どうやらしばらくの間、このままでいなくちゃいけないらしい。

 意識をどこに向けていればいいのかわからないまま、俺はとりあえず見慣れた天井を見つめ続けた。

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