第9話 貴公子


 屋敷の奥のほの暗闇から、静けさの底を、そっと、爪の先でくように、衣擦きぬずれの音がする。

 ああ、さゆりの君。

 わが宝。

 どんなに、この日を、待っていたことか。

 さあ、こちらへ。

 ご自分の意思で、門を出ていらっしゃい。庭に入り、牛車ぎっしゃきざはしに近づけて、もしや、邪魔をする方がおられては、いけませぬ。


 ……本当は怖いのだ。この屋敷に入った男たちの何人が死に、何人が正気を失ったままでいることだろう。麿まろは、そのてつを踏みとうない……。


 さあ。さあ。門を出て……。

 さゆりの君。さゆりの君。

 お手を。

 あなたのその、白魚のようなお手を……。

 さあ。


 ……え? 

 これが、さゆりの君の、手?

 乾いて固い、これが?

 確かに白い、でも、かさりと……。


 骨?


 さゆりの……、

 なんぢゃ。

 煙が。怪しの……。


 おおっ!

 さゆりの君を、妖気が包んでおる。


 ぎゃ、ぎゃ、ぎゃ、

 溶けとる、溶けとる、

 さゆりの君が……。

 女が、溶ける。


 うわあっ。うわあっ。


 肉が溶け、髪がちらばる。

 眉がないっ。目玉が飛び出したっ。


 やめてくれ、歯をひんくのは。ああ、唇が線になり、糸になり……。

 ぷっくりとした水けを含んだ、出盛りの桃のようだった頬は、……しゅーっと妖気を吐きだして、見る間にすぼんで……。


 うわ、うわ、うわあっ。


 どくろじゃあ。


 寄るな。寄るなあっ。

 そのような、汚らわしい身で、麿に近寄るでない。

 妖気の中へ、引きずり込むな。

 あっちへ行け。この、もののけめ。

 者ども、弓じゃ。魔よけの梓弓あづさゆみを打ち鳴らせ。


 わわわっ。

 骨……。妖気の散った後には、骨しか残っとらん。

 骨が、動く?

 うわあ。

 寄・る・なーっ!


 ぎゃっ。

 骨が弾けた!

 ぱあんと。

 頭骨が、背骨が、腰の骨が。

 小さい骨は、とっくに散って、


 うへえ。

 口に入ったぞ。

 骨のかけらが、麿の口に……。


 うわあ。

 うわあ

 うわあぁぁぁぁぁーーーーーっ!

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