第7話 平民への第一歩

 屋敷から逃げ出す際に手を少し切ってしまった。

明かりの灯る家の窓から聞こえる笑い声。

街灯のないこの世界は夜になると家族の元へと帰る。

外にいるのは酒場にたむろする若人か家がない者ばかり。

うめき声を上げる老人の横を通り過ぎる。

行き場のない人間が集まる掃き溜めのような場所。

ここならちょうどいいだろう。

マディアの部屋にあった果物ナイフを持ってきていてよかった。

朝になると捜索隊が出てしまうかもしれない。

今のうちに髪を切っておくことにした。

マディアの髪の色は派手な髪色の多いこの世界では物珍しい。

長髪のままだと手配書などで身元が割れる恐れがある。

短くして外套を着込めば一見しては気づかれないだろう。

消灯した店先のガラスに映して髪を確認する。

「どうかなぁ」

ざんばらになってしまったけれどまぁこんなものかな。

砂埃の舞う地面に散らばる髪。

「そっか。いいこと思いついた」

治安の悪いこの路地裏に髪を捨てておけば。

もう一度死んだと思い込んでくれるかもしれない。

手に持っていた髪に血がついている。

「さっきの怪我…」

血を垂らせば真実味も増すだろう。

この世界では血一滴からでも照合ができる。

魔法は血に深い関わりがあるから。

個人識別は血液で行われるのだ。

生き返ったと判定されたなら偽証も可能なはず。

証拠は多い方が良い。

冤罪で処刑されたマディアとして生きれば。

きっと小説のように魔物として主人公に斬り殺される。

私はただ生きたいのだ。

物語の中に迷い込んでしまったのだとしても。

王子と聖女の幸せに割って入る異形のものではない。

殺されることのない平穏な日々を。

「ねぇ君いくら?」

突然見知らぬ男性に声をかけられた。

娼婦と間違われているのか。

「いくらなのか聞いてんだけど」

人目を気にして歩いている姿を見ていたようだ。

それが買ってくれる男を探しているのだと勘違いされた。

早くここから立ち去ろう。

「待てって。無視すんなよ!」

強い力で腕を掴まれる。

「顔見せろよ。金なら払うって言ってんだろ」

「やめてくださいっ」

つい叩いてしまった。

そんなに力を入れたつもりはなかったのに。

あらぬ方向に曲がる腕。

骨の砕ける音。

咄嗟に謝ろうとしたが。

「ばっ化け物だ。助けて。殺さないでください」

悲鳴をあげ走り去る男。

「まだ離してなかったのに走るから…」

握りしめた悪漢の腕を見つめる。

「この体。本当に人間辞めてるかもな」

「こんな時間になんだい。全くうるさいったらありゃしない」

物音を聞きつけふくよかな女性が怒鳴りながら詰め寄ってくる。

急いで腕を背後に捨てる。

あんなもの見られたらおしまいだ。

「あんたこんなところで何してんのさ」

「身売りと間違われて」

「あぁ。この辺りは治安が悪いから」

ちょうど店仕舞いの時間だからと。

店に入れてくれた上に食事まで出してくれた。

「大したものは出せないけどこれ食べな」

大皿に乗せた温かな料理。

「あんたここらじゃ見ない顔だね。名前は?」

「名前は…」

マディアの名は有名すぎるから家名を言わなくても気づかれる。

この世界に来る前の名前を名乗ろう。

母に百合のように美しい女性になってほしいと付けられた。

その通りには育たなかったけれど。

「百合と言います」

「ユウリ?聞かない名だね。生まれは遠いのかい」

「ええ。かなり離れたところです」

「それはそれは、首都トレリアにようこそ」

腰に手を当て握手を求める女将。

恐る恐る手を差し出すと千切れそうなほどの歓迎の意。

「男のくせに貧弱な体だね」

私は男に見えるようだ。

確かに胸も小さいし女性らしい曲線も無い。

「そんなんだからあんな連中に絡まれるんだよ」

ちょうどいいのでそのまま男ということにしておこう。

「そうなんですよ。ああいうのが日常茶飯事で」

「ユウリは今日泊まるところはあるのかい」

「ないです」

「全くしょうがないね。ここに泊まっていきな」

「そんな。悪いですよ」

「大丈夫だよ。ここは宿屋だからね」

ここは酒場ではなく宿屋だったのか。

「もちろんタダじゃないさ。出世払いしてもらうからね」

それならば気兼ねなく泊まることができる。

「是非よろしくお願いいたします」

お辞儀をすると丁寧すぎると笑われた。

「そういえば女将さんのことなんてお呼びすれば」

「あたしゃミラルダってんだ。ミラって呼ばれてる」

「これからよろしくお願いします。ミラさん」

平民の男として『愛の終わり』を生き抜いてやる。

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