第4話 忘却の彼方へとおちてゆく

  シィンと静まり返ったその場所で、青年の気の抜けたような声は、やけに大きく響いた。


「……ぇーー?」


 その声を耳にしながら、エミディオは伸ばされた手を冷たく払い除ける。力を無くした彼の手、はするりと落ちていった。


「エミディオ……一体、何を言っているんだーー?」


 再び聞こえた己の名に、エミディオはそちらへ振り向く。だが不思議な事に、その者の顔をエミディオは見ることが叶わなかった。

 何故だろうか、その者の顔には身体には、真っ黒い靄がかかっている。その顔も姿も認識する事が出来ない。そのような事など初めてで、目を凝らして見たりするのだが、一向にその姿は見えてこない。そしてふと、ある時これはそういうものなのだと、エミディオは漠然と理解したのだった。

 すると忽ち興味が失せ、エミディオはそちらから目を逸らすと、冷ややかに告げた。


「貴様も私の名を気安く呼ぶでない。その名は主人のものだ、貴様のような人間が呼んで良い名ではない。ーーすぐさま忘れるがよい」

「ッ!」


 再び、示し合わせたかのように一斉に息を呑む声が聞こえた。誰も何も喋る事も出来ず沈黙が走る。エミディオが全く別のモノへと変わってしまった事を目の前に突き付けられ、誰もが言葉を失ってしまったからなのだが。しかし、その当事者であるエミディオは、最早その理由すらも忘れてしまった。


 その時だった。

 突然、エミディオは自分が空腹であることに気が付いた。サタナキアより告げられていた時間よりも、かなり早い段階での空腹にエミディオは少しばかり驚く。余程緊張でもしたのか、それとも感情を露わにする事に疲れたのか。恐らくそれは後者なのであろう。こんなモノのためにこのように力を浪費して、自分は何と無駄な時間を過ごしてしまったのだろう、そんな事をエミディオは思う。


 だが同時に、エミディオは少しだけ焦りを覚えた。サタナキアは人間界に来て直ぐ、神殿で人の血肉を食らうなとエミディオに忠告してきたのだ。もしそのような事になれば、エミディオは神殿に張られた結界によって、そして神官達によって唯の悪魔として屠られてしまうと。

 それを想像してしまうと、エミディオは忽ち心細くなる。そして同時に、サタナキアの元へ、彼の庇護下へと戻りたくなる。そもそもが、余り長い間主人を待たせる訳にもいかない。だからエミディオは、人間達に告げた。これ以上は何もしない。だから見逃せと。


「もう、気も済んだ。遊ぶのは止めだ。お前達にも、もう、二度と会うことはなかろう。私は人間を忘れる」


 ふらり、呟きながら男の上より降りて、エミディオは出口へと向かう。シンと静まり返った中で、その声は良く響いた。その足取りが少しばかりふらついていた事に、どれだけの人が気付いただろうか。最早、彼は空腹で仕方が無かったのだ。早く、サタナキアの元へ戻りたかった。


「っま、待って!」


 そんな状況だと言うのに。立ち去ろうとするエミディオの前に、阻む者が現れた。先程の黒髪の青年だ。彼はエミディオの目の前に立ち塞がり、何処か必死な顔でエミディオを見つめてくる。神力を誰よりも強く纏う、人間。その顔をどうしてだか、エミディオはそれ以上見たくもなかった。


「私は腹が減っとる、早う帰らねば」

「ねぇ、本当に、僕がわからないの?」


 必死そうにそう言って、青年はぐいと顔を近付けてくる。咄嗟にエミディオは退け反ろうとするも、逃さないとばかりに両肩を掴まれそれすらも叶わない。空腹やら焦りやら、香ってくる旨そうな芳香やらで、それに抵抗する力も今のエミディオにはない。


「離せ」

「嫌だ! だって、エミディオ、わすれちゃ嫌だよ、ーーがーー、ーー」


 腹が、減っているのに。拒否を前面に押し出して遠ざけようとするも、その青年は心底諦めなかった。同時にエミディオは、自分の意識が段々と遠のいていくのを感じる。

 空腹で仕方が無かった。目の前の人間から、とても美味しそうな、極上の匂いが香ってくるのだ。このまま欲望に任せて食らってしまいたい。けれど、何処かでそれを警告する声が聞こえるのも事実で。何とか食欲を押し留めるも、段々とそれが難しくなっていく。

 今のエミディオにとっては、食欲を満たす事が最優先。そうしてとうとう、我慢ならなくなったエミディオは、青年の首筋に食らい付かんとして大口を開けるーーーー


「馬鹿野郎、そんな人間の血肉を食らう気か」


 突然、背後より聞こえた声に驚く間も無く、エミディオは伸びて来た手にその口を塞がれた。そうしてぐいと背後に引かれると、その胸元に抱きとめられる。上を向けば、そこにはいつものサタナキアの姿があった。途端、エミディオはその緊張が一気に緩むのを自覚した。そして、幾らか余裕のできたエミディオは、いけしゃあしゃあと言ってのける。


「ーーなーんじゃ、元の姿に戻ってしまったのか……アレはアレで随分と愛らしいのに」

「お前……この俺がわざわざ来てやったのに、その言い草はねぇだろうが。お前の暴走を止めてやったんだよ、ありがたくおーーーー」

「私は腹が減った」

「…………」

「のお、サタナキア、腹が減ったのだ」


 瞬間、大きな溜息が吐かれる。こんな状況下で、そのような事を言うものではないとはエミディオにもわかっている。だがしかし、見境無く襲いそうな程に空腹である事には違いないのだ。誰彼かまわず齧り付いてしまいそうな程に、エミディオは空腹だった。


「っ悪魔! 上級悪魔だ!」

「皆の者落ち着くのだ! 臨戦態勢にーーーー!」


 俄かに騒ぎ出した周囲を不快に思いつつ、エミディオはひたすら食事の要求を続けた。最早外野が何を言おうとも、エミディオにはサタナキアの姿しか、目に映ってはいない。主人しかその目で見ないよう、サタナキアによって造り替えられてしまった。


「囲め囲め!」

「ーーッエミディオォ!」

「神子様ッ、陛下も、お下がりください!」

「待ってろ、先ずはこの場をどうにかーー」

「のおサタナキア、腹が減ったというに聞こえておらんのかーー」

「……分かった分かった! 全くこんな時だというのに……オラ、手をやるから少し待ってろこの小悪魔めが」


 とうとう観念したサタナキアはそう言って、自らの人差し指を牙で引っ掻くように噛む。すると途端に、その指からは真っ赤な血が、ドクドクと流れ落ちた。甘い芳香香りたつ、生命の躍動溢れる魅惑の液体。エミディオはそれを目にした瞬間、目が離せなくなった。早く早く、それが欲しくて堪らない。そんなような切ない表情で、エミディオは主人の許しを待つ。


 かくしてその指は、主人のサタナキアによってエミディオへと差しだされた。待ちに待った欲望の満たされる瞬間に、エミディオはいやらしく笑う。そしてその指を、彼は喜んで口に咥えた。その口から伸びる舌が、艶かしく悪魔の指へと伸びる。その様を見せ付けられた何人かが、ゴクリと生唾を呑み込んだ。


「ったく、こんなとこでよ……おい、人間共よ」

「っ!」

「てめぇらには感謝しねぇとな。こんな極上の人間を、あの世界に落としてくれて。しかも神官長だったなんてよ、普通なら考えられなーーううわ……てめぇ、帰ったら覚えとけよ…………ゴホンッ、最早コイツは俺様ーー悪魔大将軍サタナキアのモノだ。触れる事も見る事も許さねぇ。しかと見届けておけ?エミディオの最期の姿、貴様らによって悪魔の眷属にされた神子の末路だ」


 言いながら、サタナキアは嘲笑を浮かべ食事中のエミディオの頬を舐め上げた。今やこれは自分のものだと見せ付けるかのように。自分達の犯した過ちが、一体どれ程の損失を与えたのかを彼等に思い知らせるかのように。悪魔大将軍サタナキアは、人間達に示して見せる。


 サタナキアの腕の中にいるエミディオはといえば、そのような中でも欲望のまま、食事に夢中になっている。時折角度を変えながら、恍惚とサタナキアから流れ落ちる血液をひたすらに貪っている。頬を赤らめ血を啜るその様は、時折チラチラと見える舌と相まって、全く別のモノを連想させる。実際、サタナキアはエミディオと繋がりながらもその身に流れる血液やらナニやらを飲ませる事もあったのだからあながち間違いではなかったりするのだが。

 こんな状況下だと言うのに、敵の眼前だと言うのに、連れ去られるエミディオのそんな姿に目が逸らせなくなった人間が、一体何人居た事だろう。


「じゃあな、クソ共。俺様に犯されるコイツの姿を想像してマスでも掻いてろ」


 そうしてサタナキアは、フワリと宙に浮き上がった。徐々に高度を上げながら、眼下の人間達を見下ろす。そして、呆然と騒がしくも立ち尽くす人間達の表情を見ながら、歓喜に震えた。あのような絶望感、困惑、嫉妬、そして情欲すらもが、サタナキアに力を与えるのだから。


 喉の奥でクツクツと笑いながら、サタナキアはエミディオに言う。


「お前エロすぎだからよ、またメシやりながらヤッてやるかんな」

「この変態めが」

「…………」


 サタナキアは、唐突に繰り出されるエミディオの暴言に一瞬言葉を失う。だがしかし、サタナキアは彼が悦んでその行為を享受しているのを知っている。エミディオが口ではどんな事を言おうとも、欲望には逆らえないのだ。悪魔とは得てしてそう言うものである。


「ーーほら見てみろ、てめぇの世界だった人間達だ。後悔と恐怖と絶望に歪んだあの顔よ。無様、そして愉快」

「あれらが私の生前の?……もう欠片も思い出せんわ」

「そりゃそうだ。そんなモノお前には必要ねぇんだからよ。……さて帰るぞ、抱えているとは言えつかまっとけよ」

「お手柔らかに」


 サタナキアの声と共に、二人はその場から姿を消した。完全に消えるその直前、エミディオは誰かの叫び声を聞いた気もしたが、サタナキアの手に再び口をつけた彼が気にする事は無かった。とうとう忘れてしまったエミディオには、父母の事も王の事も何も分からない。人間に対する感情の一切を、エミディオは無くしてしまったのだった。




 以降、神殿には深い悲しみと絶望が訪れ、その男を惜しむ者達が大勢、どうか彼をお救い下さいと天に祈ったのだという。その願いは決して叶う事はないというのに。


 既にサタナキアと同じものになったエミディオにとって、人間達は唯の生き物でしかない。時折呼び出される事になった人の世で、見知らぬ人間に名前を叫ばれる事にも、エミディオは何の感情も浮かべる事はなかった。


 ただ一つ不思議なことに。靄に覆われたその男の姿だけは、エミディオが再び目に出来る事は二度となかった。

 エミディオにとってそれが、人を思い出してしまう唯一無二の存在だったなんて、サタナキアは決してそれを教えなかったし、関わる事すら許しはしなかった。その人間達が短いその生を終えるまで、それらはずっと続いたのだった。

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【BL】嬲り者が謂うには @tatsum111001

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