第3話 抗いもせずに

「随分と愛らしい姿だのぉ」


 その日エミディオは、サタナキアと共に人間界へと降り立った。先の話にあったように、エミディオの未練とやらを解消する為だ。二人は予定通り、神殿より少しだけ離れた人の世に音もなく着地する。

 着いて早々、エミディオは笑みさえ浮かべながら、隣にいる相方に向かってそんな事を呟いた。言われた当人はといえば、大層不本意そうに、地団駄を踏むように、甲高い声で叫ぶ。


「う、うるさい! なんせおれは、あくまだいしょうぐんだからな! まりょくもニンゲンなんかとはけたちがいだ……だから、せいげんなんかするともとのすがたをたもてない……っ、わらうなえみでぃお!」


 焦っているような恥ずかしがっているような、そんな目の前の男に、エミディオは素直に笑ってみせる。ここ数日でようやく、エミディオも何の屈託もなく感情を露わに出来る様になって、随分と清々しい気分でいた。


「いやな、普段のお前も悪くはないのだが……悪魔のクセに天使のようなーーブフッ」

「だから、それをやめろといってんだ!おれはあくまだいしょうぐんなんだからな!?」


 今のこの何気無いやり取りでさえ、きっと元のエミディオには出来なかった事だ。だが今や、エミディオは何かを背負う必要も遠慮する必要も無い。咎める者も眉を顰める者も居ない。故にエミディオは、自由だった。

 今のエミディオは、サタナキアの立派な眷属としてその身も心すらも捧げつつある。当人も知らぬ内に、彼は立派な悪魔になりつつあるのだ。

 そしてまた、エミディオは理解している。サタナキアが死ぬ時は、自分も死ぬ時だと言う事。そうでなければならないと。



 二人は手を繋ぎながら、ゆっくりとした足取りで目的地へと向かって歩く。実のところエミディオは、己が何をするつもりなのか、その目的を語ってすら居ない。聞かれなかったから、というのもあるのだが。語る必要も無いと思っている。いっそサタナキアは、エミディオがどんな事をするつもりなのかも全て承知しているのかもしれない。何と言っても、二人は最早離れられない番なのだから。


「ふふふーーああ、すまんすまん、拗ねるな……冗談はこれくらいにしての。サタナキア、お主は神殿に入れるのか?」


 一頻り笑った所で、エミディオはするりと気持ちを切り替え問い掛ける。散々笑われた事で、サタナキアは大層ブー垂れていたが、悪魔大将軍は流石、気持ちを切り替える事にも長けていた。


「……もとのすがたならともかく、いまのすがたではいれるはずねぇだろ」

「ふふっ、そうか。ならば、私一人で出向くとしよう」

「おまえ……まぁ、まだしんりょくのにおいはのこってる、そうつよくきょぜつされることもないだろう。ーーだが、むりはするなよ! ひとのちをのんだらそれこそ、ひとのころのきおくはおそらくきえる。しんでんで、なりたてのあくまのけんぞくなんか、しんかんにはあかごのてをひねるようなものだ。しょうきをうしないでもしたらころされるとおもえ! おれさまをでばらせてくれるなよ」

「ああ、善処しよう……待っておれ我が主人よ。ーーすぐにもどる」


 ひらり、エミディオは着せられた服の裾を翻し、子供の姿のサタナキアに合わせるようにしゃがんでキスを頬に落とす。それでも尚ブスリとした不機嫌な顔に苦笑しながら、エミディオはその小さな手を離した。


「頼りにしておるぞ」


 離れ際、後ろ向きで歩くようにくるりと振り返ってそう言えば、サタナキアは大きな目を真ん丸に広げてエミディオを見上げた。それに気を良くして、エミディオはくすくすと笑いながら、大層機嫌良く神殿への道を歩んで行ったのだった。


 さぁ、決別の時。


 完全に人ではなくなってしまう前に、懐かしの彼等を一目見たいと、エミディオは思っている。もしその気になれば、父母の所へもと。

 それを見て、自分が何を思うのかもどう成ってしまうのかも、正直なところ分からない。それでも、今やらねばとエミディオは思うのだ。

 何せ、彼は少しばかり焦りを覚えているから。これが最後のチャンスだと、理解している。まだあの運命の日から5日程しか経っていない筈であるのに、既にぼんやりとしか彼等の顔を思い出せないのだ。多分、もうすぐ、彼は人間を忘れる。だからその前にせめてと。





* * *





 エミディオは歩きながら、長年過ごした神殿に想いを馳せる。漂う神気の匂いに、以前はあんなにも清々しさを感じていたというのに。今やそれは、エミディオにとっては息苦しいものに変わってしまった。哀しくもあるし、そして清々しくもある。覚えのある廊下を音もなく歩きながら、エミディオは物思いに耽る。


『ーーそんなーー! エミディオ様ッ』


 エミディオが名前を告げ、邪魔をするなと突き飛ばせば、門番達は直ぐに諦めた。衛兵すらも動かない。彼等は皆一様に、真っ黒い服を着たエミディオを見ると、愕然と動きを止めて悲鳴を上げた。そのような人間達の様子に一瞥すらもくれず、エミディオは蔑むような笑顔で堂々と闊歩した。


 現神子に敗北したのちも、針の筵たる神殿に戻ったエミディオにとっては彼の母親の笑顔だけが希望だった。母の為に、父の為に神官長にまで上り詰めた。それだと言うのに。母を一人残し、のうのうと悪魔になって舞い戻ったこの親不孝者。エミディオはそんな人間の頃の自分を蔑み、嗤いながら闊歩した。



 同じく衛兵を突き飛ばし、バタンッと重厚な扉を思い切り開け放てば、途端に怒号が飛んでくる。その声音に焦りが滲むのは、恐らく勘違いではないはず。エミディオは更に一層、笑みを深めて進んだ。


「なっ……こんな時に、貴様ッ何者だ!」

「神聖な儀式の最中だぞ無礼者!」


 遠くからでは、そのような無礼を行うのがエミディオだと気付きもしない。何せ、彼等にとってのエミディオは既に死んでいるのだから。それを嘲笑しながら、エミディオは堂々と長い通路を歩いていった。


 今のエミディオが彼だと気付ける人間はどれほど居るだろう。金色の輝くようだった髪は、今や色素が剥げ落ちサタナキアの如く灰銀の鈍い光を放っている。

 空の色だと彼の人に褒められた目の色ですら、最早その面影もない血のような赤。

 サタナキアに着せられた黒いローブは、以前は決して選ばなかった闇の色だ。その裾や袖を縁取る深紅のラインすら血液を連想させる。

 殊更にひどい(エミディオ談)のは、サタナキアの趣味なのか何なのか、細身のローブの際どい場所までスリットが入っている所だ。おかげで歩くたびに素足が見え、エミディオは非常に不愉快になる。

 だが、これを着なければ外出は許さないなどと命じたのはサタナキアであって。当然、そんな下らない事であってさえ彼の命令には逆らえないエミディオは、着る以外の選択肢はなかったのだ。そもそもこれは明らかに男の履くようなものではない、貴様は変態だ、などとエミディオが面と向かって蔑んだというのはまた別の話で。

 つまり、今のエミディオはエミディオではあっても、元のエミディオではない。彼はすっかり悪魔に成り果ててしまったのだから。


 突然の乱入者に落ち着きを失っている神官達を無視し、エミディオはツカツカとその現場へと躍り出る。今まさに、その男は次代の長を襲名する所なのだ。懐かしい顔触れ、会いたかった顔触れを見ても、最早彼の心は微塵も動かない。

 嘲笑を貼り付けたまま、エミディオはゆっくりと告げた。


「この無礼者! 今日という重要な日にっ、門番は何をしているのだ! 貴様、一体何も、のーー」

「何者と聞かれれば応えよう。……我が名はエミディオーーーー貴様が殺した男よ」

「!?」


 エミディオがそう告げた途端、周囲は一斉にざわつき出した。彼等の表情に宿る感情はどれも、困惑や驚愕、そして恐怖だった。

 そのような周囲に、エミディオはふつふつと苛立ちを覚えていく。この程度の事で苛立っていてはキリがないというのに、もう人間ではないエミディオは、それを抑える事すら出来ないのだ。素直に、彼等が死ぬ程嫌いである事を自覚する。


「バッ、バカなっ、そんな筈っーー死者が蘇るなど……いや! そもそも私は殺していない! あれは事故だったのだ!」

「……ほぅ、それはまっこと……私が勝手に、あの亀裂の中に吸い込まれていったとでも、お主は言うのか?」

「ッ!」


 段々と静まり行く空間の中、エミディオの冷ややかな声はやけに大きく響いた。その場に居た誰もが、耳も目も疑う。本当に、この人は本当エミディオなのだろうかと。冷ややかに嗤うこの男は、彼の姿をした別の何かなのではないかと。

 だが、そんな人々の思いも虚しく彼等の目の前で、エミディオは嗤うのだ。


 空いた右手で男の顎を捕まえ、エミディオはグイと己の方へと顔を向かせる。男はそんな彼の一挙一動に酷く怯え、ダラダラと汗を垂れ流していた。


「お前の捨て台詞、私は忘れておらんぞ? 邪気に呑まれていく私のの姿を見ながらお前は言ったな? 『こうなるならば一度貴様を犯しておくべきだった』とーーこの、汚らわしい人間めが」

「ーーッぎあぁ!」


 エミディオがそう言い放つのと同時に、男の首を手で突き飛ばした。そうしてよろけた所で、彼は思い切りその股間を蹴飛ばす。すると男は、悲鳴をあげて床に這い蹲り、どうにか這いずりながらも逃げようともがいたのだった。

 エミディオは、そんな男の些細な行動全てが癪に触って、逃すものかと男の上に飛び乗った。男の頭を脚で踏んだ途端、聞こえた悲鳴に形容し難い不快感を覚える。その時にエミディオが思わず口を開いたのは、それをどうにか解消する為の手段でしかなかった。相手の気持ちだの思いやりだの、そんな心は最早、エミディオには無い。


「全くもって堪え性の無い、チンケな男よ。内蔵から何から邪気に焼かれて尚、小一時間も悪魔の襲撃に耐え忍んだこの私を愚弄する気か? それで私を蹴落としたつもりか? 救い様のない畜生めが」

「っよ、寄るなバケモノォ!」

「……よく、分かったのぉ。そうだ、最早私は人ではない。悪魔に心臓を食われてしまったぞ、お前の所為で。最早私の意思で死ぬことも許されん。最早私に人の心はありなん。ーーーー貴様の所為よ」

「ひぃぃっ!」


 言いながら徐々に脚に力を加えていけば、そこから悲鳴が上がる。思った以上の不快感に、このまま頭を潰してしまおうかと、エミディオはそこまで考えていた。

 だが不幸な事に、そこで邪魔が入る事になった。


「ッエミディオ、ダメだよ!」


 その不幸は、エミディオにとってなのか、それとも彼の人間にとってなのか。その両方なのかもしれない。

 その瞬間に、エミディオの腕は誰かに掴まれる事になった。思いがけない横槍に驚きエミディオが顔を上げれば、そこには黒髪の青年が居た。自分と然程変わらない年齢であろうその青年は、男の上に乗りあげた彼を真っ直ぐに見上げていた。その薄茶色の目の中には、青年をギロリと睨み付ける化け物の姿が映し出されていた。


「ねぇエミディオ、僕、君が亡くなったと聞いて、本当に、どうしようもなく悲しかったんだーー」


 その、目の前でしゃべってくる青年を、エミディオは何の感情籠らない目で見つめる。に何を言われても、エミディオには何の感情も浮かばない。


「ーー僕も、××××も、そんな君が大好きだったんだよ……君が大切だったんだよ……、だから、元の優しいエミディオにーー」

「お前は誰だ」


 それ以上の時間を何の関係もない男の為に無駄にするつもりもなく、エミディオは一言、そう告げた。途端、周囲がーーエミディオに踏まれ悲鳴を上げていた男でさえもが、息を呑んだ。

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