【第二章】エメラリアの恋の病

「──ラリア、エメラリア、朝だぞ」

「んん……」

 せっかく気持ちよく寝ていたのに、だれかがエメラリアを起こす。

(まだ寝ていたい……ここ気持ちがいいから……)

 ふわふわとした夢の中で、エメラリアはそれにり寄った。はなされないようしがみつくうでに力を込める。声の主が小さく笑ったような気がした。

「いつまでもそこにいられると俺が起きられないんだが」

 トントンとやさしくかたたたかれる。

 エメラリア──と再び誰かが名前を呼んだ。

 いつしゆん、自分を呼んだのは兄かと思ったが、彼はエメラリアをあいしようで呼ぶ。

(だれ……)

 もぞもぞと頭を動かし、しつこく起こそうとする相手を見上げた。

「おはよう」

「……おはよう、ございます……?」

 反射的にそう返す。

「………………え」

 サー……と音を立てて血の気が引いていく。兄だなんてとんでもなかった。

 はっきりしてきた視界に映ったのは、困り顔のアリステアだった。

 エメラリアは彼の上に乗っかっていたのだ。しかも自分からきついて。

「だ──ッ!? だっ、だだだ、旦那様っっっ! 申し訳ございませんっっっ!!」

 エメラリアは急いで彼の上から飛び退き、じゆうたんいつくばった。しゆくじよとしての落ち着きなどはやない。ずかしくて顔から火が出そうだ。

「うう、なんてことを……私いつから乗っていたのでしょうか!? ああっ、それよりも重かったですよねっ!? 本当に申し訳ございませんっっっ……!」

 エメラリアの横には、る前確かに真ん中へ置いたはずのクッションが、もの悲しげに落ちている。いったいいつからそこにあったのだろう。考えるだけでおそろしかった。

 精霊と愛し子としての生活をなくされ、ある程度の問題はかくしていたはずだったが、まったく予測していなかった方向からなぐられた気分だ。

 エメラリアは、まさか自分がこんなにふいうちに弱いとは知らず、普段の冷静さを欠く由々しき事態にほとほと困り果てる。

 一方で、アリステアはそんなエメラリアの姿に、ふっとみをこぼした。

「お前は朝から青くなったり赤くなったりいそがしいな。そんなに謝らなくてもだいじようだ。お前なんて、ねこくらいの重さしかない。可愛かわいいもんだろう?」

「そんな……!」

 子猫はさすがに大げさだ。子どもだってそんなに軽くはない。

 ところが、アリステアはその台詞せりふを証明するかのように、エメラリアを軽々と持ち上げてみせた。

「ひゃっ!」

「いつまでも下にいるのはうすだし寒いだろう。座るならこっちにしたらどうだ?」

 そうして彼のとなりに座らされる。早くもエメラリアのあつかいを心得たらしいアリステアはゆうの表情だ。

 エメラリアは、再び至近きよからアリステアの顔を拝むことになった。

(旦那様、キラキラしてる……)

 カーテンから差し込んだ日が、アリステアのきんぱつりんかくをほのかに照らす。わずかにかげになった蒼玉色のひとみは、それでもやわらかな色を宿し、こちらを見ていた。

 時間にすればほんのわずかなものだったが、エメラリアをとろけさせるには十分過ぎた。酒にったときのように頭がくらくらする。

 単純におどろきやしゆうからきていたドキドキは、またたく間にちがうものへと姿を変えていった。込み上げる感情は、のどの向こうに行きたくて仕方ないとエメラリアをかす。

「……エメラリア?」

 急に動かなくなったエメラリアを不思議に思ったらしいアリステアが顔をのぞき込んだ。

(ち、近い……!)

 ぶわっと、まばゆいばかりのかがやきがおそい、エメラリアの理性のはかりが一気にり切れた。

(もうまんできない……!)

「旦那様!」

「なん──うわっ!?」

 ボフンッ──エメラリアはアリステアに勢いよく抱きつき、ベッドに押したおした。

「好き、です」

 すりすりとわれを忘れて擦り寄る。

「……そういえば、薬の効果が切れてるんだったな」

 起きる前の体勢にぎやくもどりしたアリステアからは、かわいた笑いがれた。


    ● ● ●


「それで?」

 そうぞうしい朝の出来事から一変、王宮のしつ室はしゆくしゆくとした空気が満ちている。

 アリステアは紙にペンを走らせながら、わざわざここをおとずれた部下に声をかけた。

 じゆうこうな机をはさんだ向かいでさっさときびすを返していた部下は、毛足の長い絨毯の上で軽くターンする。尻尾しつぽのようにったかみが宙をくるりとった。

「それでって?」

「ここに来た理由だ。あいさつだけしに来たわけじゃないんだろう?」

 手を止めて前をえれば、ヴィオがにこりと口のはしを上げた。

 エメラリアのおもかげのある顔に、無意識に今朝のことがのうよぎる。

(……しっかり障害クツシヨンも置いていたはずなんだがな)

 アリステアも、エメラリアが自分の上で寝ていたときは驚いたものだ。

 気が付いたのはまだ夜明け前のことで、すぐに薬の効果が切れたことは想像できた。

 おそらく、起こして『離れてほしい』と告げれば、エメラリアは従ってくれたに違いない。

 しかし結果的に、アリステアは無理に退かすことはしなかった。

 なんといってもその幸せそうな寝顔ときたら。まるで日向ひなたねむねこのようで、起こしてはかわいそうだと思った。よくり立てられたともいうだろう。朝になって目覚めた当人は、当然その体勢におおあわてだったが。

 アリステアは、エメラリアが飛び起きて平謝りする姿まで思い出してしまい、つい口元がゆるみそうになる。

 だが、今は仕事中の上にそういう姿をさらす相手が悪い。

 アリステアは急いでせきばらいをして場をした。

「エメルから何か聞いた?」

 そんな事情を知らないヴィオは、近くのなが椅子いすこしを下ろす。

「お前たちの先祖について少し話をしたくらいだ」

「そう」

「そっちから話す気はないのか」

「昨日は俺がしやべってばっかりだったし、団長も聞きたいことあるんじゃないかなって」

 仕事場と私用でに呼び方だけ変えてくるヴィオは、長い髪を指にからめて首をかたむけた。

 本当に自分から話す気はないらしい。それ以前に、アリステアが呼び止めなければ、ここにとどまることさえしなかったのでは、とすら思う。

 あのけんしん的な妹に、なぜこんなひねくれた兄がいるのか、正直不思議でならない。

「では聞くが、一族のことがあるとはいえ、昨日の話を聞いた限りでもずいぶんと陛下がお前たちに対してしんしやくしているように思えた」

「一応、秘密を共有する仲だしね」

「だが、国を守るためとはいえ、ウェリタス家にをかけても王国側にメリットがない。ほうきんとされ、せいれいの力はまず必要にならない。お前も言ってたことだ。かえってリスクを背負うことになる。当時は知らんが、今の国王はだれよりも合理的なお方だ。感情で動かれることはないと俺は思ってる」

 たったひとつの家が原因で、国が危険に晒される可能性だってあるのだ。その危険を考えれば、国の歴史そのものからウェリタス家が消されてもおかしくはない。それこそ戦争でも起こす気があるなら特別な戦力になるだろうが、間違っても今、そんなことを考える王族はいない。

「つまり、王国にとって利益になることがウェリタス家にはあるということ。昨日、話を限定したのは、それ以降はエメラリアに聞かせるつもりがなかったからだとかいしやくしたが?」

 昨日の話を聞いて個人的に辿たどり着いた見解を伝える。

 ヴィオは満足気に目を細めた。

「ふふ、さすがだね。わかってるじゃん。エメルには、もともと仕事の話はあんまりしたくなかったんだけど、ある程度は情報がないと逆に危険だからね」

 普段からふざけることが多いヴィオでも、妹のことは大切にしているらしい。わざわざ場所を選んで続きを話そうというのだから、ほど聞かれたくない内容なのだろう。

「仕事の話をする前に、もうひとつ。精霊の性質について先に話すよ」

 ヴィオはそう告げて、猫のような自身の目を指差した。

「人間は少なからず見た目を重視するものでしょ? 自分好みの顔とかもあったりして」

「まぁ、そうだな」

 よく部下たちが、誰が可愛かわいいとか、あの人が美人だとかうわさしているのを耳にする。ひとれという言葉もあるくらいだ。人間が外見を重視しているのは理解できる。

 いつぱん論とは別に、アリステアとしては、顔の良ししで他人を判断するのはいかがなものかと思うが、いつも暗い顔をしている人より明るい人のほうが印象がいいのは確かだ。

「それに対して、精霊は外見に左右される生き物じゃない。その人の外側にあふれてくる心、その人を形成する根本的なものをいつだって〈てる〉。好意のがいねんが違う」

「……難しいな」

 急に飛び出したあいまいな話に、アリステアはそつちよくな感想を述べた。

「まぁ、きよくたんな話、エメルは団長の顔面には毛ほども興味がないってことだね」

「……わかりやすい説明をどうも」

 おのれの容姿を格別気にしたことはないが、そんなふうに言われると少なからずショックである。アリステアは、目元にかかる親ゆずりのきんのような髪を指に挟みもてあそぶ。

「ああ、でも、いとし子の団長は別。すっごいまぶしいくらい輝いてたよ」

「なんだそれは……」

「愛し子の溢れるりよくがそう視せるんだろうねぇ。とりあえず、それは薬で収まるからいいんだけどさ。それより、もっとやつかいなのは人間の感情のほう」

「感情?」

「そう。特にびんかんに感じるのが、いかりとか悲しみとか、苦しみ、きようみたいな負の感情なんだけど、感覚をぎすますと、そういうものをかかえてる人がすぐにわかるんだよ。かたちになって、視える」

「それは……すごいというべきなのか……いまいち想像しにくいな」

「そうだな……こう……その人の周囲に黒いモヤモヤ~っとしたのが現れるって言えばいいかなぁ」

 イメージを伝えようとするヴィオが顔あたりに両手を持っていき、もくもくと雲をえがくような動きをする。

「心の中がきたなければ、どんなに見た目が聖人そのものでも、こればっかりはかくせないよ。だからさっき言ったことにつながるけど、エメルも俺も、外見で人を好きになることはまずない。当てにならないからね。もちろん、負の感情を持ってない人なんていないし、その人が実際どんな心情を抱えているかまでは俺たちでも測れないけど。……でも、ヤバいことやろうとする人たちって、それがすごく目立つんだよ。もうほんっとドロッドロ!」

 ヴィオは不味まずいものでも食べたかのように、舌を出してくしゃりと顔をゆがめた。

「俺と父さんがやってるのは、そんなやつらを見つけて上に報告することなんだよ」

 つまり、危険因子のていさつだとヴィオは話す。なんでもないことのように言うが、アリステアはそのみつていとも呼べる役割におどろきを隠せなかった。

「そんなことやってたのか……全然知らなかったぞ」

「だって、こっちもバレたら困るから。それに、言うほど大したこともしてないしね。俺たちは視るだけでわかるから、基本的に任されてるのは遠くから観察して、黒か白か判断するだけ。今は国も安定してるし、危険を感じるヤバい奴なんてめつにいないよ」

 かたすくめるヴィオの説明におそらくうそはないのだろう。

 おおやけにできる能力ではないため、国王が必要としたときに動くのがほとんどらしい。

 しかし、そこでひとつ疑問がく。

「質問なんだが、この仕事にはかんしていないとしても、エメラリアもお前たちと同じように人の感情が感じ取れるのか?」

「もちろん。とはいえ、手放しで喜べるような能力じゃないからね。人の悪いところが視えるなんて。エメルも……今はなんともないけど、小さいころはこの力のせいで人とかかわるのをこわがってた時期もあったくらいだから」

「そうなのか……まぁ、そんなものが見えたら怖いかもしれんな……」

「うん。だからあんまりこの話はしてほしくないかな。心配しなくても、さいな感情の変化ならこっちも集中しないと視えないし、つうに生活してる分にはだいじようだと思う」

「ああ、わかった」

 アリステアは考えるまでもなくうなずく。

 そうした理由はほかでもない。アリステア自身、私生活で感情的になることはほとんどないからだ。しかもそれをあのエメラリアに向けるなど、とうてい想像できなかった。

「……はぁ。でも、今回らいされた件は陛下には悪いけど本当に乗り気しない」

 アリステアの返事を聞いたあと、ヴィオはうなれるようにひざの上にほおづえをついた。今の話で、家の仕事のことを思い出したらしい。

「先日ばくした奴らの件か」

 アリステアが心当たりを口にすると、声を出すのもおつくうらしいヴィオが首を縦にる。

 先日捕縛した奴らとは、アリステアにとっても思い出したくない、あの『精霊のこうすい』を浴びてしまった事件のことである。だが、己の失態を除けばとうそつの取れたたちの行動は、じんそくかつ的確だったと断言できる。

 ただ、問題もあった。

 精霊の香水のひとつが、すでに他人の手にわたったことも発覚したのだ。

 研究所の設備から考えても、指示を出していた人物がいたことはちがいなく、十中八九そのしゆぼうしやに渡ったのであろう。最悪の場合、すでに香水を使用していることも予測がつく。となれば、アリステア同様、愛し子になっている可能性も否定はできなかった。

 そこまでの事情を知っているヴィオは、くされるようになが椅子いすの背もたれにしずむ。

「団長にさえ精霊の血を持て余してるのに、早期解決のために調査に協力しろって言うんだよ。失敗したら絶対おこるのに、割に合わない!」

「あの方も人が悪いからな。だが、本当に無理なことはおっしゃらない。しんらいしてくださっているしようじゃないか。俺もお前もできることをやるしかない」

 アリステアなりにさとしてはみたものの、ヴィオはまだ不服らしい。

「この仕事人間。家庭をおろそかにした罪でエメルからあいでもかされればいい」

「お前な……」

 正直、この先もしばらくは仕事ざんまいの生活を送ることになるのだ。ヴィオに皮肉られなくとも、愛想などとっくに底をくのが目に見えている。

れんあいけつこんしたわけでもないしな。少しでも愛があると考えるだけでがましいか)

 きっと今もしきで勉強にはげんでいるであろうけなな彼女を思う。

 いつしよにいられる時間は少ない。やらねばならないことは山積みで、屋敷に帰れる時間を思えば、次に顔を合わせて話すのはきっと明日あしたになるだろう。

 ならせめて、彼女の努力に見合うだけの仕事を自分もしようと、アリステアは書きかけの報告書にペンを走らせた。



「まだ起きてたのか」

 ところが、深夜帰宅したアリステアを待っていたのは、ジャディスだけではなかった。

 ジャディスのとなりにいたエメラリアが、こちらへやってくる。

だん様、お帰りなさいませ」

「あ、ああ、ただいま」

 意表をかれたアリステアは、たどたどしく返事をする。

「……エメラリア、わざわざ俺の帰りを待っていなくてもいいんだぞ」

 時計の針はとっくに十二時を過ぎている。夜会でもない限り、みんなしずまっているような時間だ。しかも、朝だってアリステアに合わせた生活を送っているため、ぼうができるわけでもない。いそがしい時期は、これが毎日続く。おそ遅起きが通用する普通の貴族とは、こういうところが違う。

 アリステアは慣れない生活を、彼女に強いるつもりはなかった。

「旦那様がいつしようけんめいお勤めに励んでいるのに、私だけ寝るわけにはまいりません」

 しかし、エメラリアは当たり前だといわんばかりに答える。

 その姿は、アリステアにめいわくはかけまいと長椅子で寝ようとしたときと同じだった。

 るぎない彼女の気骨をひしひしと感じる。

「そうか……わざわざありがとうな」

「いえ、私はこれくらいしかできませんから」

 エメラリアは、本当に気にも留めていないようでたんたんと返す。

「…………」

 ここまで尽くしてくれる妻になんの文句があろう。自分を思っての行動だ。うれしいことに変わりはない。

 ……ただ、なぜだか、もうひとり家令を連れている気分になった。

「旦那様?」

「あ、いや、なんでもない。それより──」

 首をかしげたエメラリアに、アリステアは別の話題を振る。


 そばでは、ジャディスだけがその様子を静かに観察していた。


    ● ● ●


 エメラリアの身体からだは、どうしてもアリステアにくっついていないとらしい。

 おかげで翌日の朝も、そうぞうしい朝をむかえる羽目になった。ゆいいつの救いは、使用人たちにこのそうどうがバレていないことだろうか。

 朝食は嘘のようにゆったりとした時間を過ごしていた。

 白いテーブルクロスに温かな料理が並ぶ。

 こんもりと盛られた白パンとポッティド・ビーフは、アリステアの好物だ。彼に精をつけてもらおうと、エメラリアがシェフにたのんで用意してもらったものだった。

 ぱくぱくと次々口に吸い込まれていく様子にエメラリアは嬉しくなる。

 そうして自分もパンを食べていると、先に食事を終えたアリステアが話しかけてきた。

「このあとは何をする予定なんだ?」

「今日は、りんごくのニーレイクについて勉強し直そうかと考えておりました。昨日、書庫でちょうどいい書物を見つけましたので」

「ニーレイクか。あそこは温暖で過ごしやすいのがいいな。それにがらなのか、住人たちもみな明るくて親切だ」

 数回仕事で行ったことがあると、アリステアは話してくれた。

「確か、先日仕事で行かれた街──えっと、リザドールは、ニーレイクとの国境がある街でしたよね」

 エメラリアは頭の中で地図を思いかべる。

 リザドールは、例のせいれいの香水事件があった街の名前だ。王都ほどではないが、にぎやかな場所だと聞いたことがある。

「ああ。リザドールとニーレイクの間は、こうへだてられてるんだ。立派な石橋もあって、景色だけでも楽しめる場所だ。あと、りもできる。俺も、一度はそこでのんびり過ごしてみたいと思ってるんだが、なかなかまとまった時間がとれなくてな」

「釣りをなさるんですか?」

 他の国では、貴族のたしなみとして釣りが挙げられるところもあるが、レシュッドマリーではみがない。アリステアからも想像ができなくて、エメラリアは目を丸くする。

「こう見えて、けっこう得意なんだぞ。……まぁ、俺もやり方を知ったのは学生のときだがな。ヴィオに教わったんだ」

「お兄様が?」

 ヴィオとアリステアが通っていた学校はぜんりようせいの学校だ。あのころは学校が休みに入ってもヴィオはなかなか家に帰って来なかったので、どんな生活を送っていたのか実はあまり知らない。あの兄のことだからそこまで心配はしていなかったが、やはり自由にやっていたらしい。

「おたずねしたことがありませんでしたが、お兄様とはその頃に出会われたのですよね?」

「ああ。あいつはそれまで俺の周囲にいた貴族たちとは明らかにタイプが違ってたな。どこでそんなこと覚えたんだってことをたくさん知っていて、一緒にいてきなかった。自分がどれだけ世間知らずか思い知らされたよ」

「そうだったのですか」

 アリステアが、ヴィオのことをそんなふうに思っていたなんて少し意外だった。

「絶対調子にのるから、本人には言わんがな」

 アリステアは軽く笑い、かたすくめた。

「釣りは、そのときに教えてもらったことのひとつだ。よく学校近くの池に行って、どちらが多く釣れるかなんて勝負もしていた」

 気まぐれな素行が目立つ困った兄ではあるが、アリステアにとっては良い友人だったらしい。妹のエメラリアにとってもそれは嬉しいことだった。

「楽しそうですね……」

「釣りに興味があるのか?」

「あ、えっと……」

 うっかりこぼれたつぶやきを拾われてしまい、エメラリアはもごもごと口ごもった。

 エメラリアはヴィオとはちがい、王都から外に出たこともなければ、はくしやく家の屋敷からもあまり出たことがない。その生活を不満に感じたことはないが、どんなことにもいつぱん的なこうしんは常にあった。特に今は、アリステアが楽しそうに話すからなおさらだ。

「何をそんなにちゆうちよしているんだ? あるならなおにそう言えばいい」

 不思議そうにエメラリアを見るアリステアが、カップをソーサーに置く。

「そういうわけにはまいりません。しゆくじよが釣りに興味があるだなんて……そんなことつうは言いませんから」

 貴族が釣りを嗜む国があっても、主にそれは男性の話だ。

「エメラリアの言い分はわからないでもないが、俺は難しく考える必要はないと思うぞ」

「私は難しく考えているつもりはないのですが……」

 アリステアの言うことのほうが難しい。

 エメラリアがするべきことは、自分の意思とは関係なく、すでにかたち作られている。美徳とされる女性像を手本とすることが、自分の──いてはアリステアのためになるのだ。そこから外れてしまったとき、後ろ指を指されるのは自分だけではないのだから。

 エメラリアが困っていると、アリステアの後ろでひかえていたジャディスが口を開いた。

「旦那様、奥様にもお立場がございますから、押し付けるようなことはお控えになったほうがよろしいかと」

「俺はそんなつもりはないんだが……いや、まぁそうか……エメラリア、すまなかった」

「い、いえ……! 私はだいじようですので、謝らないでください」

 申し訳なさそうにまゆを下げたアリステアに、エメラリアは急いで首をる。

「それと、旦那様。そろそろ出仕のお時間です」

 ジャディスが時計を指した。

「もうそんな時間か」

 どうやら話に夢中になっているうちに、アリステアの出る時間がせまっていたらしい。

 彼が立ち上がるのといつしよにエメラリアも席を立った。

「エメラリアはまだ食べ終わってないだろう。ゆっくり食べていて構わない」

「いいえ、お見送りも私の大事な役目です。こんなちゆうはんな場所ではなく、ちゃんとした場所でお見送りさせてください」

「……わかった。お前がそう言うなら」

 エメラリアの申し出に、アリステアは少しだけしぶるように言葉をまらせた。エメラリアはそんな彼のに気が付く。だが、それがいったいなんなのか、正体がわからない。


 そうのいき届いたごうしやなエントランスホールは、しんとしていた。

 アリステアがとびらの前で、エメラリアとジャディスに向き直る。

「今日も帰りはおそくなる」

「では、お夕食は先にいただいておりますね」

「ああ。そうしてくれ。それから、俺が帰るまで起きていてくれるのは嬉しいんだが、それだとお前がつらいだろう。昨日も言った通り、先にていても構わないんだぞ?」

「いいえ。さきほども申し上げましたが、私は自分の役目をほうてきするつもりはございませんので。それに本を読んでいると、あっという間に時間は過ぎてしまいますから」

 平気です、と意気込んでアリステアを見上げる。

 アリステアは──うつすらとだが、やはり何か言いたげな表情を浮かべる。

「まぁ……ジャディスにも言われたからな。今日はお前の意見を尊重する。それでも、無理はするなよ。……事情もあるんだ」

 声量を落としてアリステアは最後の台詞せりふを付け足す。ジャディスに聞かれないようにするためだろう。精霊といとし子のことを気にかけてくれているのだ。

「……では、いってくる」

「はい。お気を付けて。いってらっしゃいませ」

 がおを作り、アリステアを見送る。

 そうして扉が閉まったあと、エメラリアはそのそうごんな扉を見つめたまま後ろにいる家令に尋ねた。

「……ジャディス、私は正しいことができているのかしら」

 自分は、手本通りのことをしている。間違っていないはずなのに、不安になる。

 エメラリアがアリステアのためを思って行動しても、彼は困ったように返事をする。今も意地で自分の意見を通してしまった。

「奥様。出過ぎたことを申し上げますが、どうかお許しください。わたくしは、だん様がおっしゃることも正しいことだと思っております。……価値観の違い、というものでございますね」

「そうね。私と旦那様では大切に思っていることが違うみたい」

「育ったかんきよう、性別、世情……えいきようを受けるものはごまんと存在します。違うことが多くて当たり前なのです」

「……私だって全然理解できないわけじゃないの」

「ええ、奥様は大変そうめいでいらっしゃいます。ですが、わたくしの目から見ても、少々ご自身をないがしろにする部分がございますので……きっと、旦那様はそういうところを気にされているのだと思います」

「私、自分をそんなふうにあつかってるつもりはないのに」

 振り返ったエメラリアに、おんな家令は顔をほころばせた。

「旦那様はおやさしい方ですから……。奥様はその優しさに少し甘えるくらいがちょうどいいのではないでしょうか?」

「甘える……」

 ジャディスの言葉の意味を確かめるように、エメラリアは呟く。

 ふと、けつこんが決まったときに母が言っていた忠告を思い出した。

「……お母様も、似たようなことをおっしゃっていたわ」

「ウェリタス伯爵夫人でございますか?」

「ええ。『あなたは私がおどろくほどきよくたんなところがあるから、侯爵家あちらでちゃんと甘えることを覚えなさい。アルジェント侯爵様なら受け入れてくれるでしょう』って。あのときは意味がよくわからなかったのだけれど……」

(旦那様に……甘える……)

 エメラリアはもう一度心の中でり返すが、どうしても想像ができない。

(そもそも甘えるって、どうすればできるの……?)

 自分には必要ない──考えたこともない要求だった。

 しかも結婚してから求められるとは、夢にも思わなかった。

(いったい、どうしたらいいのかしら……)

 エメラリアはエントランスホールの高いてんじようを見上げ、め息をついた。


    ● ● ●


 この日の夜からふたりの間のクッションはなくなり、普通に並んで寝ることになった。

 相変わらず、次の日になると薬の効果が切れたエメラリアが、アリステアにきついているという問題を除き、ふたりはそれなりにへいおんな日々を過ごしていた。

 異変が起きたのは、そんな矢先のことだ。

身体からだが重い……)

 エメラリアは数日前から続く不調になやまされていた。

 最初は慣れない生活でつかれが出たのかと思ったが、すぐに普通のとは違うことに気が付いた。

 体調をくずすのは、決まってアリステアのいない日中なのだ。しかも、彼がしきにいるときはうそのようになんともない。この体調変化を考えれば、原因はおのずとせいれいと愛し子が関係しているとしか思えなかった。

「やっぱりお兄様たちに相談したほうがいいかしら……」

 自分以外だれもいない私室で、エメラリアはふぅと深呼吸を繰り返す。

(最初のころよりしようじようも重くなってるみたい。今日は特に……)

 動くのがおつくうなほどだるい身体をなが椅子いすのクッションに預ける。

 いそがしいアリステアたちに心配はかけまいと、ひとりでなんとかしようとがんってきたが、先に限界のほうが近付いていた。

 かかえている秘密の大きさのこともある。何か起きてからでは、それこそめいわくになってしまうだろう。

 エメラリアは迷った末、机の抽斗ひきだしから便びんせんを取り出した。

『今日の夜、ご相談したいことがあります。お兄様も一緒だと助かります』

 少し考えてから、そうしたためてふうをする。

 椅子から立ち上がったときに軽くめまいを覚えたが、振り切るようにエメラリアはジャディスのもとへ急いだ。


 そして、次に意識がじようしたとき、エメラリアの視界には見慣れた天井が映った。

 ほどなくして、それがベッドのてんがいだと気付く。じようきようが飲み込めず、数度目をまたたいた。

「目が覚めたか?」

 ぼんやりしていると左側から声がかかる。

 首をかたむければ、あんの表情をかべたアリステアが、椅子にこしかけていた。

「旦那、さま……? どうして……」

 まだはっきりしない頭で、なぜ彼がここにいるのか考える。窓の向こうは、やっと日が傾き始めたくらいで、まだ彼が屋敷にいるような時間ではない。

「ジャディスから、エメラリアがたおれたと知らせが届いて帰ってきたんだ」

「えっ」

 倒れた。その言葉を聞いて起き上がろうとしたエメラリアをアリステアがたしなめる。

「まだ寝ていたほうがいい」

 再びベッドにもどされたエメラリアの頭を大きな手のひらが優しくでた。彼の手のほうが温度が低いのか、額にれるとひんやりとしていて気持ちがいい。

 体調も彼が近くにいるおかげでずっと楽になった。同時に、何があったかもはっきりしてくる。どうやら、ジャディスに使いをたのんだ以降のおくがないことから、そこで気を失ってしまったらしい。

 問題が起きる前に相談しようとしたのに、完全にそのタイミングを見誤ってしまった結果だ。目の前で倒れるなど、ジャディスにも悪いことをしてしまった。

「ご心配をおかけして申し訳ありません」

「謝らなくてもいい。具合が悪いときはおたがい様だからな」

 安心させるように表情をやわらげたアリステアは、自分の部屋にも戻らずにずっとていてくれたのだろう。見上げた姿は、コートはいでいたが、よく見れば団服のままだ。

「こっちでの慣れない生活で、疲れが出たんじゃないかと医者は言っていたが……」

 気になることがあるのか、話を中断したアリステアは、サイドテーブルに置いてあった紙を広げて見せてくれる。

 うすべにいろの便箋に、必要最低限の内容が書かれた簡素なそれは、自分が彼にてて書いたものだった。ジャディスが無事に届けてくれていたらしい。

「手紙は読んだ。ヴィオはエメラリアの容態のこともあったから今日は連れてきていないが、あいつもこの手紙を読んで気をんでいた。倒れた原因は、俺たちに話そうとしていたことと関係あるのか?」

 心配そうにくもひとみが、エメラリアを見つめる。

 こうなってしまったら、アリステアだけでも先に事情を説明したほうがいいだろう。

「実は──」

 エメラリアはここ数日あったことを説明した。

 一通り話し終えたあと、アリステアは溜め息をつき視線をらす。

「そんなに前から体調がよくなかったのか……」

「すぐにご相談せず、だまっていて申し訳ございません」

「いや……気が付かなかった俺が悪い……」

「…………」

「…………」

 重い空気をまとったちんもくが続く。なんとなくそれがよくないことのような気がして、エメラリアは急いでかける言葉を探した。

「で、ですが、だん様が屋敷にいる間は全然平気だったんです。だから余計に起こっていることを軽視してしまって……私が迷わず、きちんと初めから相談していればよかったんです。旦那様は悪く──」


ちがう。そういうことを言わせたいんじゃない」


 誰の発言かわからないほど、その声は冷ややかでするどかった。

 ふうになってから初めてはっきりと聞いたふくんだ声に、エメラリアは、旦那様は悪くないという言葉をみ込むしかなくなった。

 さらにその直後、アリステアの周囲の空気が変わる。

 彼の身体から次々とき上がってきたのは──黒くうごめもや

(これ、は……)

 エメラリアはこれ以上ないほどそうぼうを見開いた。

 こくえんのように生れ出るそれは、アリステアの感情が表に現れた姿だった。

 自分の中に流れる精霊の血がせている、人間の負の深層だ。

 ぐわん、とアリステアの纏う黒い靄がれ、エメラリアのはだを撫でる。引きった声が出そうになって、エメラリアはくちびるんだ。きんちようしたまなしがくぎけになる。

 この靄にきよういだいていたのは昔の話だ。冷静に、客観的に、物事をとらえる努力をして、恐怖をふつしよくしてきた。どんなことがあっても動じない自信もあった。

(もうだいじようだと思ってたのに……)

 エメラリアはこわいという感情を、自分の夫に向けていることにがくぜんとした。

 どうしてこんなことになってしまったのかが、わからない。

 エメラリアがおのれを律してきたのも、相手に不必要な感情を生ませないためだったはずなのに。

 今、アリステアはエメラリアにおこっている。

 シーツがしわくちゃになるほど、きつくにぎりしめた手のひらが痛い。

 まぶたを閉じたしゆんかん、星がこぼれ落ちるように黄金こがねいろの瞳からしずくが流れ出た。

 アリステアが息を吞んだのもそのときだった。

「……っ、すまない……」

 押し殺すようにつぶやき、アリステアは顔をそらす。

(また、旦那様を困らせてしまったわ……)

 これっぽっちも理想のようにいかないことばかりだ。自分の感情も、夫婦生活も。

 調子の悪い日が続いたせいか、一度弱くなった気持ちはどんどん深みに落ちていく。

 だからだろうか。たずねるつもりもなかった思いが口をいた。

「…………わたし……、旦那様の、お役に立てていますか……?」

 弱々しくつむがれた問いかけに、アリステアがはじかれたように顔を上げた。

「そんなの、当たり前だ……!」

 アリステアはひざに置いていたこぶしを握りしめる。

「俺が安心して仕事に行けるのは、エメラリアが留守の間もしっかり屋敷を守ってくれているからだ。そのためにいつしようけんめい勉強してくれていることも知っている。まだ慣れないことも多いだろうに、それこそ自分の身体からだより他人を優先するくらい頑張ってくれているんだぞ。それがどうして役に立たないだなんて言うことができるんだ!」

 周囲の空気が揺れ、あらわになった感情が複雑にからみ合った。

 声をあららげるなど、またもやアリステアらしくない態度に、エメラリアはシーツにい付けられたかのように動けなくなった。しかし、怖いというよりはおどろきのほうが大きい。

 彼自身もそんなエメラリアの反応でわれに返ったのか、わずかにほおを染め、視線を彷徨さまよわせた。

「なんだ、その……つまり、俺が伝えたいことはだな。お前は平然としていることが多くて、俺が感謝しているようなことは、もしかしたらお前にとっては大したことじゃないのかもしれない。だが、それは違う。どんなに朝が早くても、どんなに帰りがおそくなっても、そこにいて声を聞かせてくれる。それだけで俺は、エメラリアとけつこんしてよかったと思っている」

 少しずつ本音を語るアリステアの周囲からは、じよじよに靄がうすれていった。

 うそいつわりもない気持ちに、エメラリアはふわふわとした、むずがゆい感覚を覚える。

 うれしい……そう思った。ちゃんとエメラリアを見ていてくれたことも。がんりを認めてくれたことも。いつしよになってよかったと言ってくれたことも。ついさっきまで感じていた不安をぬぐい去ってしまうほどに。

「旦那様」

 エメラリアは、自分の奥底からあふれそうになる感情にられるまま、身体を起こした。

 ふらついたところをかさずアリステアが支えてくれる。

「あの、ありがとうございます……嬉しいです。旦那様にそうおっしゃっていただけて」

 うかがうように見上げ、つたないながらに思いを伝える。

 アリステアは一瞬目を見開いたあと、緊張を解くように顔をほころばせた。

「そうか。それを聞けて安心した。……実は、お前に聞いてほしい話がある」

「なんでしょうか?」

「これは俺の希望でもあるんだが……エメラリアとは主従のような一方的な関係ではなく、もっとお互いをおもい合う夫婦になりたいと思っている」

「想い合う……?」

「ああ。エメラリアが俺のことをづかってくれるように、俺もエメラリアのためにできることはやりたい。この際だからはっきり言ってしまうが」

 向かい合うように座り直したアリステアの手が、かたからはなれ両手を握った。

「さっき俺は、夜遅くに帰っても待っていてくれることが嬉しいと言った。その気持ちに嘘はない……だが、無理に俺と生活を合わせる必要はない。それにほかにも。食台に並ぶ料理が以前と変わらないこともそうだ」

 アリステアは、エメラリアがシェフにたのんで彼の好物を用意してもらっていたことに気付いていた。

「新しい家族が増えたのに、その家族の好きなものが食事に出ないなんてさびしいだろう? そんなところまで俺を優先して、自分をすることはしなくていい。お前は使用人ではなく、俺の妻としているんだから」

 アリステアはやさしく説くが、その話にエメラリアはりゆうを寄せた。

「私は……自分をそんなふうにあつかっているつもりは…………いえ、違いますね。きっと、こういう考え方が間違っているのですね……」

『奥様はご自身をないがしろにする部分がございますので』──ふと、エメラリアは先日のジャディスとの会話を思い出し、うつむいた。同時に母の台詞せりふが頭の中をめぐる。

「すべてを否定するわけじゃない。お前も、大変な家に産まれたんだ。役目と立場を守ることは、それだけめ事も起きにくいだろう。きっと正しいと言うやつも多くいる」

「……でも、旦那様はそうではないのですね」

「……ああ。それだけではあまりにも無機質だ。俺は、エメラリアの努力が、自分も他人もかえりみない独り善がりであってほしくはない。その向こう側に立っているのは意思のある人間なんだ。本当にその人のことを想うなら、自分の行動の意味を考えてみてほしい」

 アリステアはこれ以上ないくらい、優しく、そして強く、握る手に力をこめた。

「私、旦那様がおっしゃったことはすべてではないかもしれませんが、わかるような気がするのです。……わかりたい、です。……でも」

 握られた場所は違うのに、のどの奥がツンと痛む。

 唇を噛みめると、アリステアがそっとエメラリアをきしめた。

「時間はたくさんある。ゆっくりでいい」

 幼子をあやすように背中をでられる。

「だ、だん様……」

 包み込まれるような熱にずかしさを覚え、しりすぼみに彼を呼んだ。

 だんはエメラリアから抱きしめているせいか、れている部分を余計に意識してしまう。

 ドキドキと鳴る心臓の音は自分のものなのか。はたまた彼のものなのか。

 ただ、その音を心地ここちよく感じているのも確かだった。


(──私……この方を好きになりたい……)


 気が付けば、ふっとそんな思いが胸の中にかび上がった。

 それは、尊敬でもあこがれでもない──こい

 あの、いつか見た彼に恋するれいじようたちのように。

 こんなに自分のことを想ってくれる、アリステアに恋をしたい。

(ああ……でもそんなこと、今の私にできるの……?)

 しかし、同時にさとる。

 エメラリアは自分自身の意思で、アリステアのことを好きになりたかった。

 でも現実は無情だ。エメラリアがせいれいで、アリステアがいとし子という関係はこれからも続く。いつ終わるかもわからない。

 だとしたら、自分がアリステアにかれる気持ちと、精霊が愛し子に惹かれる気持ちの境界は、果たしてどこにあるというのだろう。

 精霊の血は、どこまで心を食っているのだろう。

 薬は、どこまで自分を自分で居させてくれるのだろう。

 頭の中を、答えのない不安が駆けめぐる。

 エメラリアは、アリステアに見えないところでほろりと一筋のなみだを零した。

(それでも……私は私の心でこの方を愛せるようになりたい……)

 ──自由な心を手に入れたい。

 このげんそうを求めるかのような願いは、いったいどこに向かおうとしているのだろうか。

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マタタビ侯爵の愛し方 政略結婚の旦那様なのに、不本意ながら「好き」が止まりません! 染椛あやる/角川ビーンズ文庫 @beans

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