【第一章】マタタビになった旦那様②

 油断した。

 そう確信したときにはおそく、アリステアはばく対象の男が投げたそれをけきれなかった。

 薄暗い部屋。い上がったものから何か液体がこぼれ、頭に降りかかった。ガシャン、とガラスが割れたような音が室内にひびく。

 じっとりと肌がれ、髪からしずくしたたる。そしてひどく甘い、まんしないとむせ返りそうなほどきようれつかおりが全身にまとわり付いた。

「く──っ」

 アリステアはその不快感をはらうように、ていこうした男にけんつかいちげきらわせた。

 ろくに声も上げられないままたおれ込んだ男を静かに見下ろし、めていた息をき出す。

 古ぼけた机と椅子いすてんじようまでびたほんだな、散乱した紙束、あやしい光を放つ液体が入った器具。せまい部屋に押し込まれたそれらを順番に目で追っていく。

 どうやら悪あがきに男が投げた物の正体は、ここにある器具のひとつのようだ。

 現状あくしゆう以外に害のないその液体も持続性はないのか、心なしかにおいが薄れ、行動に支障がなくなると、アリステアはすぐさま作業に取りかかった。

 たなに並んだ本の表題をかわぶくろでなぞり、数冊を手に取る。ところどころかすれて読めない部分もあったが、間違いなく通常では手に入りにくいものとかくにんすると、らんとうゆかに散らばった紙も拾い上げ、同様に目視する。

「団長、そっち終わった~?」

 そこへ、ひとりの青年がきんちようかんのない口調とともにとびらから顔を覗かせた。アリステアと同じ、黒を基調としたたけの長い団服を着ている。

 男の名は、ヴィオ・ウェリタス。団の一員であり、気心の知れた友人だ。

 みぎかたに流した白金のちようはつに、めずらしい金緑の瞳と切れ長の目。体格は細身で色白と、一見ぜいじやくそうな見た目とは裏腹に、ヴィオは気絶した男ふたりを軽々と部屋にほうり込んだ。

「よっこらせ。あ~、つかれた」

 相変わらずゆるい口調のままぼやく。アリステアはあきれながらも、いつもと同じヴィオの様子を特に気にとめることなく、目線を紙へもどした。

「団長」

「なんだ」

 しかし、ヴィオの呼び声によりアリステアは再び顔を上げることとなった。

 と、振り返った矢先、ヴィオのに整った顔面が想像より近くにあり、思わずあと退ずさりそうになる。

 ふざけるな。そう口にするよりも早く、アリステアは抱きめられていた。

 だれに? とは、言わずもがなである。

「なっ!? ヴィオ、いきなり何をするんだ!」

「いやいやいやいや! 俺が聞きたいよ! 団長こそ何されたんだよ!」

「意味がわからん! してるのはお前のほうだ!」

「それはわかってる! 俺だって男になんて抱きつきたくないっての! ……でも、あー、駄目だこれ、あらがえない」

 あきらめたように遠くを見つめたヴィオは、離れるどころかさらに力を込めてくる。

 国王の剣としていくも危険な目にい、そのたびに危機をだつしてきたアリステアでもこの展開はさすがに想定外だ。

「いいから! 早く離れろ……!」

 ありったけの力を込めてひたすら押し返した。

「……『離れろ』……ああ、そういうことか」

 ぼそりとつぶやいたヴィオは、今までのきついほうよううそだったかのようにあっさりと腕を解く。

「……ふぅ」

「ふぅ……じゃない! なんなんだ今のは!」

「ちょっと待って団長! いいって言うまでだまってて」

 問い詰めようとしたアリステアの眼前に、ヴィオが手のひらをき出す。そのただごとではない勢いにアリステアは大人しく口をつぐんだ。

 ヴィオは、肩から胸にかけて垂れ下がったひもかざり──しよくしよの先に付いたつつじようの入れ物から、小さなつぶを取り出した。そして、一気にあおぐ。

「うぇ、にが……この薬って、そつこう性あるのかな? そこ聞いとけばよかった」

「おい……」

 舌を出して顔をしかめているヴィオに、おそる恐る声をかける。

「団長さ、この部屋入ったとき、何かされなかった?」

 棚や机の上を物色し始めたヴィオの質問に、今度はアリステアが顔をしかめた。

(まさか、あのときの……)

 すっかり臭いも消えて忘れかけていたが、アリステアは抵抗した男が投げた容器の液体を浴びた。さきほどしゆの悪いいたずらとしかたとえようのない行動も、それが原因だったというのだろうか。

「すまない。おそらくここにあるひとつを浴びた」

 小棚ラツクさった試験管を手に取り告げると、ヴィオはそれを引ったくった。

 ふたを開けどうするのかと思えば、アリステアの鼻に思いきり押し当てる。

「ぐぅッ!? ごほっ、ごほっ!」

 タイミング悪く吸い込んでしまった臭いは、強烈なげきしゆうだった。全身からいやあせき出し、いっそこのまま気を失ってしまったほうが楽になれそうだ。

 なみだになりながら悪ふざけが過ぎる部下をにらむと、ヴィオは信じられないことに今度はそれを自らの鼻先へ持っていった。まったくちゆうちよのない行動に止める間すらない。

「悪くないな。むしろ好ましいくらいだよ」

 じようだんだろ。のどからはせきしか出なかったが、目は口ほどに物を言う。

 ヴィオが肩をすくめた。

「この液体のかいせきは王宮にある専門の機関に任せるとして、たぶん、この臭いを好ましく思うのは、俺と俺の家族くらいだから安心してよ。団長にきついたのも、十中八九うちの体質によるものだし、ほかの人たちは同じようにならないと思う」

「ごほっ……なんだそれは。もっとわかりやすく説明してくれ」

「う~んと、そうだなぁ……たとえるなら、この薬は人をマタタビに変えるもので、俺たちはそれに飛びつくねこみたいな感じ?」

「つまり……俺は今、マタタビだと?」

「そうそう」

 本気なのかふざけているのか、ヴィオはくつくつと楽しそうに笑う。

 学生時代からの友人同士、変に態度が変わらないのはありがたいが、上司としてのげんがまったく通用しないのも困りものだ。

 だが、その話を信じるなら、見るからに怪しげな液体は効き目が限定的らしい。

 今さらながら、道行く人がみな先程のヴィオのようになるのかと思うと、想像するだけでぞっとした。

「にしても、これって洗い流してどうにかなるものなのかな。もしくは自然に効果がなくなるとか。まずは同行してる王宮ほう使つかいたちに聞くのが一番だろうけど、このままってなるとひとつ問題があるね」

「問題って、俺がお前に注意すれば」

「は? それ本気で言ってる?」

 発言をさえぎり、身を乗り出したヴィオは、こわいくらいのがおり付けて続けた。

「君、誰のけつこんしたんだっけ?」



 ──エメラリア・ウェリタス。

 ヴィオのしようかいで結婚したアリステアの妻の名前である。

 アリステアは友人の妹と結婚したのだ。

 しかし、政略に等しいそのこんいんれんあい感情なんてものはなかったのが現実だ。

 共通の知り合いがいるとはいえ、彼女とは数度会ったことがある程度のあいだがら

 印象は、あの適当そうな兄と比べて、ずいぶんな子だと感心したくらいで好ましくは映ったが、こいに発展したかと問われれば、答えはいなである。

 彼女も同じような認識なのか、結婚式のときですらたんたんと役目をこなしているように見えた。当たり前のように、初めての夜もアリステアの都合で、数回言葉のやり取りをわしただけで終わった。

 もちろん仕事を優先し、彼女をないがしろにしている自覚はある。けれど、残念なことにふうになったからといって、すぐに優先順位を変えられるほどアリステアという人間はばんのうではなかった。今までの二十四年の人生を、学業や仕事にりすぎたせいもあり、しんとしての振るいはかんぺきでも、夫婦に求められるそれとなると、正しい行動がわからなくなってしまうのだ。

 ──そして、それはしきに帰ってきても変わらなかった。

「エ、エメラリア……」

 情けないくらいかすれた声が、自分の喉かられる。

 目の色を変えて抱きついてきた妻に、そこはかとなくかんを覚えながら、それでもアリステアはまどいをかくせないでいた。

 もしかしたら家に帰るまでには、あのあやしげな液体の効果はなくなっているかもしれない──そう少なからずいだいていた期待を真正面から打ちくだかれたショックが思いのほか大きい。エメラリアの様子から考えても、例のマタタビ効果は健在だろう。

 ヴィオに聞いた話では、これは本来の意思とは関係なく液体を浴びた人間にかれてしまうしようじようらしい。

 ならば、今の彼女の意思は他にあるかもしれないのだ。そう考えるだけでれることすらはばかられてしまう。ちゆうはんに上げたうでは、きようかいを具現化するように右往左往する他ない。

(やはり手紙を送ったときに先に伝えておくべきだったか……)

 途中立ち寄った村で、アリステアはエメラリアあてに手紙を書いた。あのときは、じようきようを下手に伝えて心配させることもないと判断し、おかしな体質になってしまったことは書かなかった。しかし、今となってはいちの望みなどにすがらず、彼女に知らせておけばよかったとこうかいよぎる。

「だ、だん様、申し訳ありませ……」

 そうこうしているうちに、エメラリアが兄と同じ色のかみかたからすべらせて顔を上げた。見下ろしたその様子に思わず息をむ。

 エメラリアは、アリステアの知るりんとした姿から一変、小動物のようにふるふるとふるえていた。もともとの白磁色のはだは真っ赤に染まり、はくのような目には涙をめ、小さくふっくらとしたくちびるは何かにえるようにめられている。本人も今の状況に理解が追いつかないのだろう。症状の根源が何を隠そう自分なのだから、本当にいたたまれない。

 ともあれ、謝るエメラリアはそれでもせいぎよかないのか、腕の力は強まる一方だ。彼女の兄ヴィオのほうように比べればやさしいものだが。

「いやぁ、そうなるよな」

「……ヴィオ」

 声に振り返れば、ずっと後ろで見物していたらしいくだんの男がかいそうに口角を上げた。

「さぁ、我が妹も交えて、真面目な話をしようじゃないか。アリスくん」


    ● ● ●


「それでねエメル、さつそくこうたのみたいんだけど」

 アリステアの指示でひとばらいがされたあと、向かいのなが椅子いすに座った兄が一枚の小さな紙を差し出した。となりに座るアリステアがいつしゆん身を引いたのは気のせいだろうか。

「あの、お兄様。これが真面目な話なのですか?」

 まだどうは残っているが、ヴィオがくれた薬のおかげで平静を取りもどしたエメラリアは、その手から試香紙を受け取り、いぶかしげにまゆを寄せる。

 ヴィオに目線を送るものの、相変わらず考えの読めない顔でニコニコしているだけだ。

 エメラリアは仕方なく言われた通りにすることにした。

「……ちょっと甘いでしょうか。でも、気持ちが安らぐ感じがして私は好きです」

「だよな」

 これでいったい何がしたいのだろう。

 うなずいたヴィオは、アリステアをチラリと見た。

「アリスはどうだった?」

「……正直、二度とぎたくない」

「うんうん、むせてたもんな」

「それはお前があんな不意打ちしてくるからだろ!」

 腕を組んでけんしわを寄せているアリステアは、心底嫌そうにエメラリアの手元にある小さな紙を睨んだ。

「ヴィオ、お前はこの液体の正体を知ってるんだろ? いい加減教えたらどうなんだ」

「まぁ、そんなにあせらないでよ。先にエメルに状況を説明してあげないとね」

「できれば、そうしていただけると助かります」

 あまりにも訳がわからなすぎる状況にひかえ目だが主張すれば、ヴィオは簡単にこれまであったことを説明してくれた。

 要するに、アリステアがこの紙に付いた液体を頭からかぶってしまったがために、エメラリアはああなってしまったらしい。となると、エメラリアとしても液体の正体が気になってくる。

「お兄様はこれが何かご存じなんですか?」

「まあね。結論から言うと、これは『せいれいこうすい』と呼ばれるいにしえの魔法使いの道具だ」


 ──精霊。


 その単語を聞いて、エメラリアは一気に血の気が引いた。

「あ、あのっ、お兄様……!」

 のうかんだのは、幼いころから父にいやというほど教え込まれた自分の家に関する話だ。

「さすがエメル、かんするどいね。でも心配しなくても、陛下と父さんの許可はもらってるからだいじよう。アリスになら話していいってさ」

「そうなのですか? でしたら、いいのですけれど……」

 ヴィオの話に、胸をで下ろすエメラリアの横で、アリステアが険しい顔つきになる。

 それもそうだろう。急に国のトップが話に出てきたのだから。

「……陛下?」

 案の定、アリステアの口からその言葉が飛び出す。

「今回は特例。本来であれば『ウェリタス』の血をいでるか、陛下くらい特別な立場じゃないと知らないくらいの機密こうだから、心して聞くよーに!」

 おどけるヴィオにいまだに落ちないところがあるのか、アリステアは複雑な表情を浮かべるが、彼も伊達だてに国王に仕える団の長ではない。

「わかった」

 少しの間のあと、そう答えたアリステアは居住まいを正した。

「じゃあ、まずは質問。ここレシュッドマリー王国では身分に関係なく必要最低限のほうしか使用が許可されていません。その理由は? はい、エメル!」

「え!? えっと……昔、大陸全土で大規模な戦争があったからです。魔法が原因でがいが拡大したとわれております。そのため、周辺諸国と和解の協定を結んだ際に、いつしよに魔法の使用を制限する法が制定されました。他者を物理的もしくは精神的にしんがいする魔法の使用はもちろん、魔法に関する研究も国の許可がなければしよばつの対象となります。魔法をともなう案件は、規模に関係なく国の代表者を集めて行われる大陸裁判で厳格なしんぱんのもとばつせられます」

 あの流れでまさか自分に質問がくるとは思わず、答え終わったエメラリアはふぅとあんの息をついた。あわててしぼり出した回答だが、ちがってはいないはずだ。

「すごいな」

 気が付けば、アリステアがこれ以上ないくらい目を丸くしてこちらを見ていた。

 まだあのなぞの症状が残っているのか、胸が脈打つ状況で、もう少しやわらかい表現にすればよかったと後悔した。頭でっかちな女だと思われただろうか。

「うちの教育は男も女も関係なくスパルタだからね。答えられて当然」

 だが、妹の心情など知らない兄は、自分が答えたわけでもないのに得意げに胸を張る。

 そもそも、説明こそ簡単ではあるが、元来魔法はだれかれ構わず使えるものではない。

 知識はもとより、魔力の量や想像力、制御などもろもろの条件を達成して初めて使できる力なのだ。高等魔法になればなるほど条件は厳しくなり、その分リスクも大きくなる。

 法の成立から三百年。そうしたとくしゆ性が高いこともあり、今では生活を便利にする魔法道具や、らくせつで見かける弱小魔法くらいしか、いつぱん人にはえんがなくなった。

 それでも使いこなせば便利な力は悪用される。魔法事件は、案件自体そう多くはないものの、つうとは異なる危険が伴うため対応が難しい。

 この国では主に、アリステアたちが所属する騎士団と、王宮魔法使いと呼ばれる難関試験をとつした人たちが魔法関連の事件を担当しており、今回の特派もそれが目的だった。

「さて、話を戻すけど、つまり魔法とは世界のきんこうるがす可能性をめた、いわばきんなわけ。やっと平和な世の中になったのに、また争いなんてしたくないでしょ? だからどこの国も好き好んで危険なんておかしたくないんだけど、ここで登場してくるのが『ウェリタスうち』」

 ヴィオは、自身とエメラリアを指差す。

「じゃあ、今度はアリスに質問。魔力に反応するげんそう生物の名前をそうしようして何て言う?」

「精霊」

「正解」

 そくとうしたアリステアだったが、じよじよろんな目つきになる。

「その顔はそこはかとなく理解したかな。きっとご想像通りだよ。俺たちは人間だけじゃなくて精霊の子孫でもある。王国はそれをかくしたいのさ」

 許可があるとはいえ、一族の秘密をさらりと言って退けたヴィオは、指にはさんだ香水のついた紙をひらひらと揺らす。

「俺たちが精霊の子孫でもあるしようはこの香水。ほら、学生の頃に教わったじゃん。戦争時代に魔法使いたちがいろいろヤバいもの作ってたって話。これは人工的に精霊のいとし子を作り出す薬と見て間違いないね。だから精霊の血を引く俺もエメルも、普通だったらけんするかおりに真逆の反応を示したし、意思とは関係ない行動にも出た」

 ヴィオの言う精霊とは、自然界に存在する聖なる生き物のことだ。人間の魔力と彼らの力を合わせることで、魔法のりよくを底上げしたり、応用がくようになる。

 そして精霊の愛し子とは、その名の通り彼らに愛された存在のことを指す。様々なおんけいを受けられるが、その出生は大変まれで、一部の地域では聖者としてあがめられることもあるらしい。

 そんなな人間を、昔の魔法使いたちは人工的に作ろうと──実際に作っていたのだ。

 まったくあくしゆだよねとこぼすヴィオの向かいで、エメラリアは自分の行動理由になつとくした反面、まったくあらがえなかったことにきようを覚え、顔をせた。

「人工物だからかわからないけど、精霊をりようする力も従わせる力もかなり強いんじゃないかな。それに運がいいやら悪いやら、アリスはこの香水とあいしようがいいみたいで、よく身体からだんでるようだし……俺がエメルみたいになっちゃったとき、アリスが『はなれろ』って口にしたから、たぶん離れられたんだよね」

「あのタイミングで離れたのはそういう理由があったのか」

「そういうこと。でもうちだってそれなりに歴史があるから、対愛し子用の特効薬がちゃんとある」

「私が飲んだ薬ですね」

「一時的に愛し子にかれるしようじようよくせいしてくれるしろものだよ」

 さっきは急を要したため兄から貰うことになったが、自分も父から受け取ったものを抽斗ひきだしにしまっていたはずだ。まさか、対夫に使うことになるとは思ってもみなかったが。

ふうと言っても行動に限度はつきものだし、そばにいたくなるだけの症状ならいいけど、言葉によるせいふく力が強力な以上、油断はしないほうがいい。一応、アリスのほうから王宮の機関に解除薬の作製はお願いしてもらったけど、それもいつになるかわからないしね。エメルは定期的に飲むようにするといいよ」

「わかりました」

「それから、父さんと陛下には全部説明してあるから。困ったことがあったら力になってくれると思う」

「陛下が?」

 アリステアが意外そうな声を上げる。

「そう。父さんも陛下もちゃんとわかってくれてるよ。アリスに精霊のことを話す許可をくれたときだって、おたがいの事情を知っておいたほうがいいだろうって、理解を示してくれたし。……ああ、もちろん俺ががんって説得したからなんだけどね?」

 なんときようしゆくなことに、父と陛下は国家機密より、エメラリアたち夫婦のことを優先してくださったらしい。

 物静かな父から「決してだれにも話してはいけないよ」と、幼い頃から言い聞かせられた台詞せりふを思い出す。やさしい口調の裏に、えも言われぬふんを感じていたのは確かだった。

 エメラリアは、その約束を守っていくつもりでいただけに、どう返事をしたものかと迷ってしまう。

「そうか。ウェリタスはくしやくと陛下には後日礼を言わねばならんな」

 ややあって先に口を開いたのはアリステアだった。

 なんとなく彼のまとう雰囲気が変わったような気がして、エメラリアは首をかしげる。

「本当に。けつこん早々、隠し事が原因でギスギスしてます! なんてことにならないようにしてあげたんだから、ちゃんと仲良くしてよ?」

「ああ、善処する」

 何を考えているのか、少しかたい表情のままアリステアは答えた。

「エメルもね?」

「は、はい。最善をくします」

 返事をしつつ、様子が気になるアリステアをうかがうが、かんじんの話がそこで終わってしまい、エメラリアはたずねる時機を完全にのがしてしまった。


    ● ● ●


「……エメラリア、これは?」

 ちょうどる準備ができたころおくれてやってきたアリステアが開口一番にそう尋ねてきた。目線はきれいに整ったベッドと、エメラリアのいるなが椅子いすを行ったり来たりしている。

「私は長椅子で寝るので、だん様はベッドをお使いください」

 ぱふっとエメラリアは長椅子に移動させた自分のまくらたたいた。ひざの上には、別室から持ってきたうわけがっている。

 そうどうけいはどうあれ、エメラリアにとって重要なのはアリステアにめいわくをかけてしまったことだった。

 そう考える理由は、ウェリタス家という秘密ある一族の出身であることが関係している。

 エメラリアは、物心つく前から普通のれいじようより多くのことを学び、さらに母からは女性のあり方をてつてい的に教わっていた。貴族社会の男性と女性では知識の使い方が違うということ、求められていることとひかえるべきこと、女としての役割、妻としての役割──それらはいわば、おのれを守るための処世術だった。

 ちようがつくほどだったエメラリアは、少々いき過ぎなくらいその教えをしっかりと胸に刻んでいたのである。

 ゆえにエメラリアにとってみれば、さきほどのように妻が夫のわずらわしい存在になるなど言語道断であり、これはめいばんかいのための行動だった。

「……念のため聞くが、理由を説明してくれるか?」

 ただならぬはくを感じ取ったのか、とびらの前に棒立ちのままのアリステアがほおく。

「説明不足でご気分を害されたなら、申し訳ございません。決して旦那様をけているわけではなく……例の薬なのですが、兄に聞いたところ効き目に個人差があるらしく、私はまだ効果が切れる時間があくできておりません。ですので、万が一にでも旦那様のねむりをさまたげることがないようにきよをとろうと思ったのです」

 人とはちがせいれいの本能というものを今日ほど感じたことはない。

 眠って意識がなくなろうとも、同じベッドで寝ていれば、彼にすり寄ってしまうくらい容易に想像がつく。長椅子で寝ること自体、エメラリアはえんりよしたいくらいなのだ。

「別の部屋で寝ることも考えたのですが、それですとあのようなことを仕出かしてしまった手前、逆にあやしく見えるかと思いまして」

 あの騒動現場に居合わせた使用人たちには、それとなく秘密がバレないように事情を説明したが、寝る部屋を別々にすれば余計な心配をかけてしまうだろう。

「くっついて寝ることをかくしていたが、そう来たか……」

「旦那様? ……あっ」

 頭をかかえたアリステアは、しかしすぐに長椅子の近くまでやってくると、エメラリアから上掛けをぎ取った。

「こうなったのは俺の失態だ。エメラリアがまんすることじゃない。俺が長椅子で寝る」

「そういうわけにはまいりません! 旦那様は長旅でつかれていらっしゃいます。明日あしたもお仕事がおありなのに、ちゃんとしたベッドで休まないとお身体にさわります」

 一日のほとんどを家の中で過ごしていたエメラリアと、二十日も仕事で遠方におもむいていたアリステアとでは、まっている疲れも違うというものだ。

 休息のじやにはなりたくないし、しっかり休んでもらいたい。

 エメラリアはうばわれたすいみんのお供をだつかんすべく、上掛けにしがみついた。

「意外にがんだな」

「だ、旦那様がなおにベッドで寝てくださればこんなことには……!」

「だが、俺も自分はベッドで寝て、女性を長椅子で寝かすのは主義に反する」

「ごきようより、今はご自身のお身体を大切にしてください」

「そういう問題じゃない」

 ではどういう問題だと言うのだろうか。

 ただ安心して休んでもらいたい。たったそれだけなのにうまくいかない。

(お母様、夫に尽くすというのは難しいことなのですね)

 もうすでになつかしさすら覚える自分の両親のやり取りに、エメラリアは思いをせる。

 まだそれほど遠くない日、父と母のやり取りはどうだっただろう。口論などめつにしてなかったのではないだろうか。そもそも冷静に考えてみれば、今このな時間がアリステアから貴重な睡眠時間を奪っている、そんな気さえしてきた。

(うぅ……この未熟者!)

 エメラリアは心の中で自分を𠮟しつした。ゆるゆると手から上掛けがすべり落ちていく。

「申し訳ありません……私がせんりよでした……いつしよに、ベッドで寝ます」

「なんだ、とうとつだな。まぁいい、とりあえず理解してくれてよかった」

「はい。あ、でも、少々お願いが……」

 そう続けたエメラリアは、ベッドの真ん中──より少し自分側にクッションを縦に並べた。

「ベッドがせまくなって申し訳ありませんが、やはり薬のことを考えると仕切りがあったほうが安心できるので……こちらでじようしていただけませんか?」

「ああ、それくらい構わない。もともとふたりで寝てもあり余る広さだ。クッションがとなりで寝てたところでほど気にならないだろう」

「ありがとうございます」

 次は問題なく丸く納まったことに胸をで下ろし、エメラリアはベッドに入る。

「ああ、そうだ」

 ところが、ふと思い出したようにアリステアがベッドわきにある魔法灯あかりを消す手を止めた。

「俺は寝相が悪かったか?」

「え? いえ、そのようなことはない、かと……?」

 まだ結婚初日の夜しか一緒に寝てはいないが、ちゆうで起こされたおくもなければ、自分は昼まで眠りこけていたのだからとやかく言える立場ではない。

 確信はないがあいまいに否定すれば、アリステアは口元にみをかべた。

「それは何よりだ。じゃあ、これは真ん中に置くぞ」

「あ……」

 エメラリアはそこでやっと質問の意図がわかりクッションをつかもうとしたが、先にびていた別の手がそれをはばむ。

「俺は寝相、悪くないんだろう?」

 しんのアリステアからは想像できない意地の悪いひとみがエメラリアをとらえる。さりげなく、こちら側のスペースを狭くしていたことに気が付いていたらしい。

 もし、ここでエメラリアがクッションを引き寄せれば、アリステアの寝相が悪いことをこうていすることになってしまう。彼はそれがわかっていてやっているのだ。

 本当に彼にはかなわない。

 エメラリアは、得意げなアリステアの表情を前に、今度こそ無駄なていこうあきらめた。



(……いろいろあったからかしら……眠れない……)

 あの寝る前のやり取りからだいぶ時間が過ぎたように思う。

 エメラリアは何度目かわからない寝返りを打った。

「眠れないのか?」

「旦那様……」

 後ろからきぬれの音がした。

「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」

「いや、ずっと起きていたから問題ない。それよりあの薬、初めて使ったんだろう? どこか体調が悪いから、眠れないとかではないよな?」

 顔は見えないが、いたわるようなやさしさをふくんだ声だった。

「薬は……おそらく、ちゃんと効いています。痛いところもおかしなところもありません。ただ、少し目がえてしまって眠れなかっただけです」

「……なら、少し話さないか?」

「え?」

「俺も眠れないんだ。それにこうやってふたりきりで話すことなんてほとんどなかったからな。いい機会だと思って付き合ってくれないか?」

 彼のことだ。自分も眠れないというのは方便だろう。

 る前のことといい、この短時間にアリステアという人間がまた少しだけ理解できた気がする。

「わかりました。何をお話ししましょうか?」

 ここで断るのもきっと彼の意にそわないだろう。エメラリアはそう判断し、寝返りを打つ。くらやみに慣れた瞳には、きれいに整列したクッションが映った。

「話題か……そうだな。エメラリアさえよければ、聞きたいことがあるんだが」

「私に答えられるはんであれば構いません」

 エメラリアがりようしようすると、アリステアはわずかの間のあと、言葉を選ぶようにたずねてきた。

「……なら、ヴィオが言っていた精霊について教えてくれないだろうか?」

「精霊、ですか?」

「あ、いや……精霊と言ってもウェリタス家のことだ。こうすいのことはなんとなく理解しているつもりなんだが、お前たちが精霊という話は、実はあまり実感がかない。言われてみれば、どこかうきばなれしたふんはあるが、見た目は俺たちと然程変わらないからな」

 なるほど。彼が遠慮するようなりを見せたのは、ウェリタス家の込み入った事情にみ込んでもいいか、考えてくれた結果らしい。

「言いづらいことなら無理にとは言わん。知りたいのは半分こうしんみたいなものだからな」

「いえ、その件でしたらお兄様が許可をいただいているので、お話ししてもよろしいかと」

「そうか? ならいいんだが……」

「何からお話ししましょうか?」

「本当にいさぎよいな……だが、それなら『精霊の子孫でもある』とはどういう意味なんだ? 俺もごとがら、魔法にみがないほかやつらよりせいれいの知識には明るいが、つまりお前の先祖は精霊と結ばれたということか?」

「はい。私も父から聞いた話なのですが、まだ戦争でこの国がれていた時代に、先祖が出会ったひとりの女性。その方が精霊でした。月のようにんだ白金のかみに、ほしくずをちりばめたようなかがやく瞳を持ったとても美しい人だったそうです」

「精霊を目視できるとは……当時の当主はゆうしゆうな魔法使いだったんだな」

「それは……少々ちがいます」

 感心するアリステアに、どう説明すべきかエメラリアは考えをめぐらす。

 精霊が『げんそう生物』と呼ばれる由来。それは大半の人がその姿を捉えられないことにもとづく。魔力の多い魔法使いやいとし子など、限られた人間にしか見ることがかなわないのだ。彼らは精霊と同調する波長を、生まれながらにして持っているといわれている。

 しかし、残念ながら精霊と出会った先祖は、魔法とはえんの、くらいが取りの男性だったらしい。

「だったら、なおさら不思議な話だな」

「ええ……ですが、答えは簡単です。人間に見えるほど強い力を宿していたのは彼女のほうだったのです。代を重ねるごとに必然的にうすくなるはずの精霊の血が、いまだにいろく私たちに残っているのがそのあかしです」

 エメラリアに至っては内面的なものだけでなく、外見も口承されている彼女の容姿と同じ、白金の髪に金色の瞳を持っている。

だん様は銀提樹テイリスというをご存じですか?」

「……すまない。聞いたことはあるが、あまり植物にはくわしくないんだ」

「暖かい地域で育つ、とても大きな樹です。幹は白っぽいのですが、外見はだいじゆに似ていて、夏が近くなると赤色の小さな花がきます。彼女はそんな銀提樹テイリスに宿っていた古代精霊だと聞きました。彼女の宿っていた樹は少し特別で、金色の花が咲いたそうです」

 古代精霊とは、いつぱん的な精霊よりもずっと長生きで力の強い、いわば精霊たちの王様のような存在だ。深い森の奥、あらうみの底、きようこく狭間はざま。古代精霊が住む場所は秘境が多く、基本的に他の生物と、特に人間とあいれることはまずない。

「お前の先祖はよくそんな相手と結ばれたな。精霊を題材にした書物はけっこう読んできたが、初めて聞くぞ」

「私たちも詳しいけいは知らないのです。精霊に関することは口承だけで、文字として残しておりませんから、語られたすべてが伝わっていないのかもしれません」

「そうか。確かに可能性としては、あり得なくないな……」

 聞きのがしてしまいそうな声でうなるアリステアに、エメラリアははたと気が付く。

 ねむくなるまでの雑談だというのに、クッションしでもわかるくらいアリステアが考え込んでいる。

「旦那様、考えるのもいいですがちゃんと休んでくださいね?」

 やんわりといさめるつもりが、思ったよりこわいろにトゲが混ざってしまったらしい。

 ふっ、とアリステアがおかしそうに笑う。

「お前は本当に真面目だな。心配しなくても、もう寝る。お前が俺のことを心配して寝られないようじゃ困るからな」

「わ、私はいいのです。旦那様のあんみんの手助けができれば、それで満足なんですから」

「エメラリアの話は楽しかったぞ。それに、お前のことも少しは知れたからな。やっぱり聞いてよかった」

 室内に再び衣擦れの音がひびいた。寝返りを打ったらしく、言葉通りこのまま寝るようだ。

「お前も……俺のせいで生活が大変になりそうなんだから、しっかり休むんだぞ」

「はい……」

 少しだけ遠くなった声に、エメラリアは返事をする。

 彼が言うように、自分たちは明日あしたからふうとしてだけではなく、精霊と愛し子としても生活していかなければならない。

(旦那様のためにもがんらないと)

 エメラリアは改めて決意すると、きゅっとまぶたを閉じた。

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