【第一章】マタタビになった旦那様①

「神のまえで例外などございません。私にえんりよは不要です。──キス、してください」


 エメラリアは、もうまもなく自身の夫となる男性にそう告げた。

 そこに私情などはなかった。単純に神へのちかいを言葉と行動で示すのが、この国の式例だったからだ。

 ……だが、彼はせいひつな空気の満ちた大聖堂でエメラリアにひざまずくと、手のこうへキスを落とした。本来ならくちびるへの口付けが正しいにもかかわらず。

 おどろくエメラリアと、立ち上がった彼の視線がぶつかれば、やさしく微笑ほほえまれる。

 いったい、どうして。

 正面を向いたあと横顔をぬすみ見ても、考えは読めないまま。

 ただ、その行動が花束の下にかくしていた手のふるえを、ぴたりと止めてしまったのは確かで。


 きっと、このときが初めてだったと思う。

 彼の心根をかいた〉のは──


   〇 〇 〇


 エメラリアのけつこんは、政略に等しい、愛そっちのけの結婚だった。

 はくしやく家のむすめに産まれたからには自分もいつかは──そう幼少期からかくを決めていたせいか、に分別のある性格だったせいか、そのときをむかえても存外驚きはなかった。

 夫となった人の名前は、アリステア・ロイズ=グレンハーク。

 正直、エメラリアにはもったいないくらいの相手である。

 というのも、彼は若くしてとくぎ、アルジェントこうしやくとも名乗っているが、侯爵家は代々ゆうしゆうはいしゆつしてきた名門で、世間でも知名度のある一族なのだ。むろん騎士としての才能は、アリステアもしかり。ここレシュッドマリー王国には国王直属の騎士団が存在し、その団長を務めるのが彼だ。誠実なひとがらで陛下からのしんらいも厚いと聞く。さらに絵にいたようなきんぱつへきがんの持ち主でもあり、女性からの人気も高かった。

 エメラリアもアリステアとはとう会で何度かいつしよになり、おそれ多くもおどったことがある。

 運動神経はもとより、相手へのづかいやきよかん、何をとってもさすがとしか言いようがなかった。非の打ちどころがない人物とは、まさに彼のことを指すのだろう。

 ……と。いわば、だれもがあこがれる男性とえんあって結婚したのがおおよそ二十日前のことだ。

 しかし、ふうとしての時間を過ごしたのは一日にも満たない。

 それは、式を挙げた夜にさかのぼる。


「エメラリア」

「何でしょうか? 旦那様」

「結婚早々申し訳ないが、明日あしたから仕事でしばらく留守にする」

「はい。うかがいました」

「早朝につから見送りは必要ない。留守中、困ったことがあれば家令のジャディスをたよってくれ。たいていのことは解決できると思う」

「はい。そういたします」

「お前もつかれてるだろう。今日はもう休むといい」

「はい。お気遣いありがとうございます。おやすみなさいませ」

「ああ、おやすみ」


 このいささかたんぱくな会話が、新婚夫婦であるふたりの初夜のぜんぼうだ。

 ともあれ結婚した以上は、彼のような立派な人の妻らしく、自分の役目をしっかりと果たすつもりでいた。万が一にでも、自分が原因で彼がけいべつされるようなことがあってはならないと。

 アリステアが出立する日も、早朝だろうが真夜中だろうが本当は起きて見送るつもりだった。夫の出仕時には、ちゃんと見送るものだと母が言っていたから。

 しかし、理想と現実は別物。彼の気遣いは正しかった。

 結局その日、エメラリアは太陽がさんさんかがやく時間までぐっすりとねむりこけてしまったのである。当然、アリステアの姿はうになく。

 結果、今日までの二十日間ほどの時間を、エメラリアは当主不在の侯爵ていで過ごしていた。自分のうっかりを𠮟しかりつけた朝、もとい昼がなつかしい。

 今は、しんしつとなりにある自室で届いたばかりの手紙を読んでいた。アリステアから送られてきたものだ。

「この手紙によると、明日にはもどられるみたい」

「だいたい発たれた日におっしゃっていた通りですから、無事に終わったようですね。ようございました」

「ええ」

 やわらかい表情をかべるジャディスにうなずき、大きな窓に視線を向ける。ここは前夫人も使用していた部屋で、日当たりが良く、バルコニーからは庭園が一望できた。

(雨に降られることもなさそう。よかった)

 外のおだやかな景色にエメラリアは安心し、再び手紙に視線を落とす。

 手紙に書かれている内容はそう多くはなかった。定型的な文章から始まり、特筆すべき内容が記されているだけだ。けれど、中にはエメラリアにはいりよする文面も自然とえられている。

(本当にりちな方)

 彼のこういうかりないところを発見するたびに、自分もがんって役に立たないとという思いが強くなる。

「私、旦那様のためにも努力するわ」

 すべて読み終えたエメラリアはそう意気込み、手紙を机にある箱へしまう。

「だから、ジャディス、今日もよろしくお願いね」

「はい。もちろんです。奥様」

 エメラリアがそう言うと、ジャディスは数冊の本をわたした。歴史書、特にアルジェント侯爵家のことがっている本だ。

 侯爵家は名家なだけあって、相応の記録が書物として残っている。それらを勉強するのがエメラリアの日課となっていた。長年侯爵家に仕えているジャディスは良き先生だ。

 かしこすぎる女性というものは好かれるものではないけれど、知識は使い方だい──そう唱える母によって、エメラリアは幼いころから勉強がそばにあった。

 結婚してもその姿勢が変わらないエメラリアは、ジャディスの教えることをどんどん吸収した。

 すべてよかれと判断してやったことで、他意などない。

 だから、その勤勉さがあらぬ誤解を生むとは、想像もしていなかった……。


「奥様は旦那様が大好きで、こいのためなら努力はしまない、けな可愛かわいらしい方!」


 使用人たちが熱心にそううわさしていたのは、エメラリアが書庫に向かっていたときのこと。

 ぐうぜん居合わせたときは、驚きでかかえていた本をうっかり落としそうになってしまった。

(噂にはひれが付くものだと言うけれど……どうしてそうなったのかしら……)

 ちゆうの人物だけにものかげに息をひそめるしかなくなったエメラリアは、なやましげに首をかしげた。

 彼らからすれば、エメラリアはおのが主人が選んだ女性だ。興味が自分に向いていることはわかっていた。噂のひとつやふたつも立つだろうと考えていた。しかし。

(私が旦那様を、好き……?)

 心の中でつぶやくが、それは絶対にありえないと否定する。

 確かにアリステアは尊敬できる人であることにちがいない。だが、それとこれとは話が別だ。アリステアに憧れをいだく女性たちとエメラリアは違う。

 思い出すのは、彼に向かうキラキラと輝きに満ちたひとみ。ときにはもっと強く、燃えるような情熱を宿して彼を見つめている女性もいた。

 それを恋だと呼ぶのなら、どうかくしても自分が同じ気持ちを持っているとは思えなかった。いつしようけんめい勉強にはげんでいるのも、一番は役目だからという理由が大きい。

 浮き立つ使用人たちには申し訳ないが、アリステアが帰ってきたところで、期待にそえるような展開にはならないだろう。



 ──そう、思っていた。いや、間違いなく断言できたはずだ。

 エメラリアは、ぎゅうとアリステアの背へ回したうでに力を込めた。

「エ、エメラリア……」

 頭上から彼のまどう声がする。

はなれないと)

 ぼんやりとした頭のかたすみで、冷静な自分がうながす。

 けれど、なぜかさきほどから身体からだは全然いうことを聞いてくれない。アリステアの胸に顔をめ、これみよがしにひっついたままである。

(彼を……エントランスホールでむかえたまではよかった、はず……)

 それでも、どうにか理性を総動員し、この理解しがたいじようきようを生んだ原因をさぐった。

 かんしたアリステアを迎えるために、エントランスホールに来たところまでは覚えている。

 しかし彼に目を留めたたん、考えていたことはすべてさんし、あいさつもすっ飛ばし、勢いよくきついたのである。そう、まぎれもなく自分から。

 とつぜんの出来事に取り乱したじよたちは黄色いかんせいを上げ、家令のジャディスはきようがくのあまり絶句していた。

 抱きつかれたアリステアはといえば、エメラリアの名前を呼んでから無言をつらぬいており、かといって抱き返してもくれないのだから、顔を見なくてもこんわくしていることがわかる。

「だ、だん様、申し訳ありませ……」

 このままではだと、意を決して顔を上げたエメラリアだったが、そのしゆんかん、今まで無視していた心臓の音がひときわ大きく波打った。

 指通りの良さそうなにごりのない金色のかみ

 そこからのぞく、そうぎよくいろをした力強くもすずし気なそうぼう

 うすくて形のいいくちびる

 余計なものをぎ取ったすらりとしたりんかく

 エメラリアの瞳いっぱいに映った彼のすべてが輝き、目が離せなくなった。

 心臓はもう無視できないほど音を立てて、どうにかなってしまいそうだ。

 けれど同時に、不思議と心地ごこちよくも感じる。

 エメラリアは、無意識にすりっとアリステアにり寄った。

(離れたくない……私、この方が好き…………………………、え?)

 どこからともなく自然とあふれたおもいに、エメラリアはこうちよくした。

 言葉の意味を理解した途端、混乱は最高潮に達する。

(すッ──好き!? ど、どうして!?)

 これではまるで侍女たちが噂するように、彼に恋をしているようではないか。

 なぞだらけの状況についていけない。完全に理解のはんちゆうえていた。

(で、でも、ほんとうに、彼のそばにいたくて、たまらなくて……、うぅ……そんな、突然……どうしてなの……)

 エメラリアは半泣きになりながら、ただただ気絶しないよう気を保つので精いっぱいで、まさかその原因がアリステアのほうにあるとは、知るよしもなかった。

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