再会

 何ページか先をめくってみると、何も書かれていない。祖母の日記は、物語めいたこのエピソードでふつり、と途切れてしまっている。

 代わりに、というべきか、氷上の帝王について書かれた部分だけ、日記の劣化が著しく目立っていた。祖母は、結びに自分で書いていたように、何度も読み返しにページを開いたのだろう。

 日記を閉じてしばし考えこんでいると、いつの間にか父がそばに立っていて、もう遅いから寝なさい、と言われた。

 父と叔母には、家を出る前に使っていた部屋がそのまま残っていたから、そこで休むという。私は、敢えて祖母の寝室で眠ると言った。

 その日に葬儀をあげた人の部屋で寝るなんて、普段の私なら考えるだけで生理的な嫌悪感を抑えきれないところだろう。けれども、身内という以上に、日記を読んだせいか、今夜はもっと祖母と近しくありたかったのだ。死の気配はなく、むしろ生前の祖母からは感じられなかった、かつて少女であった人への親しみだけがあった。

 まだ祖母のにおいが濃く残る布団にもぐり込み、見慣れない天井を見上げる私は、どうにも目が冴えてしかたなかった。

 まだ少女である私は、空想に耽ることがある。たとえば、完結していない物語の先を、想像していくうちに、自分の夢にさまよい込んでしまうとか。祖母のあれも、その延長線上なのだろうか? それにしては、祖母の筆跡にはあまりにも切実さがにじみ出ていたように思える。

 私は眠りに誘う闇のなかに、祖母が書き残そうとした、氷上の帝王の姿を思い描こうと試みる。特に、祖母の心を捕らえた、その深い黒の瞳を。

 雪の森には、魔物が出るからよ。その魔物に出会うと、魂を奪われてしまうの。

 なんの脈絡もなく、叔母の言葉が胸中をよぎった。そう、祖母がよく言い聞かせていたという、その忠告……。

 はっとした私は、思わず上体を起こしていた。

 本当のことだったのかもしれない。その忠告を口伝し始めた人物こそが、祖母なのだとすれば。

 そう思い当たったとき、りん、という音を聞いた。音、というのは正確ではないのかもしれない。それは、あくまで私の耳の奥で、胸をざわつかせながら鳴っただけで、外はあくまで初雪のせいで普段にも増して静かだったから。

 ああ、初雪の夜……!

 私は、だんだんと意識が曖昧になっていくのを感じる。まるで時折訪れる、これから夢を見るのだと自覚しながら、夢の中へ落ちて行くような感覚。私の意識がぼんやりとすればすれほど、祖母の日記の記述が心の内で鮮明になっていく。

 冷たい床に足を下ろしながら、まだ半分残った私の意識が、片付けの途中に眺めた数々の写真を思い出す。若かりし頃の祖父と二人並んだ、結婚式の写真。父が、叔母が、生まれたときのもの。家族団らんの、みんなで寄り添い合って映ったもの。

 写真での証を求めるまでもなく、それらの日々は実際にあったことだ。確かに、祖母が生き抜いてきた日常だ。物事の諸々に、祖母の心は動いただろう。祖父のことを心から愛し、子供たちを慈しんだだろう。そうして、命を全うした。

 けれども、そんな現実の日々と、あの一夜は全くの別物なのだ。いまこそ私は理解した。なぜ祖母は、氷上の帝王を目撃して以来、日記を書き続けられなかったのか。

 祖母の少女時代は、あの夜に終わりを告げたからだ。祖母にとって、無邪気で透明で美しかった真心のすべては、氷上の帝王の瞳をまともに見てしまったとき、既に失われてしまったのだ。それを、魂と言い換えることは、けっして不可能ではないはずだ。

 祖母は生きながらに、その実、本当はずっとあの夜に閉じ込められていたのだ。まるで、帝王が凍らせた泉のなかに封じ込められたかのように。

 そうとなれば、祖母がどうして自らの亡骸を、森の奥の泉へ沈めてほしいなどと言い遺したのかを理解するのは容易い。あの場所こそが、祖母にとって唯一無二の還るところだったからだ。

 置き去りにされた魂と肉体の、長年を経た邂逅。

 目を閉じてみれば、日記を読んでいたときよりも、よりくっきりとした輪郭と手触りをもって、私は祖母のことを感じられる。彼女の、少女の夢のときめきを。

 そっと寝室の扉を開けて、私はダウンコートを着込むと、音をたてないように細心の注意を払って、玄関から身を滑り出した。

 私の身体は、たちまち吹雪かれて真っ白になる。都会育ちの私には耐えがたい寒さだけれど、この雪国の雪の真髄は、こんなものではないのだろう。

 きっともうすぐ、透明な矢が空を翔けて、ほんのいっとき月が顔を出すだろう。そうしたら、氷上の帝王がまた、水面へと滑り出すのだ。一歩進むごとに、凍り付かせてゆきながら。

 身体を取り戻し、少女の魂を取り戻して、時を巻き戻した祖母は、深い泉の底から音もなく浮かび上がっていくだろう。

 氷の向こうの帝王への懐かしさに心震わせながら。そうして氷越しに、冬を招く尊いその足先にそっと口づけを贈るのだ。

 それが、祖母の真実の愛。

 私は、追い立てられるように森の中へと入ってゆく。私とよく似た少女の、積年の思いが成就するその瞬間を、見届けたくて。

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氷上の帝王 和泉瑠璃 @wordworldwork

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