日記——氷上の舞

 常人なら、まだ氷も張っていない水面に足を乗せれば、またたくまに沈んでしまうところを、その人は世界の法則から身体の重みを忘れ去られたようなかろやかさで歩いていく。

 一歩水面に踏み出すたび、そこがあわく白く色を変え、花にも似た模様を描きながら、白さが広がっていく。肌に触れる空気の寒さが一段増して、泉が凍っていっているのだと私は気付く。

 その人の足取りはいつの間にか氷を滑るように変化して、その滑り方の頼もしさにはじめて私にはわかった。

 ――青年だ。

 大理石彫刻のように美しい人々の敬愛を一身に受ける、あまりにも高雅な青年。

彼は、泉の中央まで滑りゆくと、まるで祈るように右手をあげ、まず額と胸を結び、次に左右の肩と、腰の左右を結んだ。そして、静かに手を合わせる。

 あんなにも美しい人が、一体なにを祈るのだろう? 私の疑問なぞ知る由もなく、彼は、静かに虚空を見上げる。

 あんな清らかな静謐を、私は知らなかった。彼の瞳はいよいよ夢見がちになりながら、するどい輝きを増していく。

 彼のまつ毛はゆっくりと伏せられ、その瞼が高貴な瞳を覆うと、にわかに背中から透き通りながら虹色に輝く羽が浮かび上がった。光の美しい部分だけを切り取って、虹を縁取りにして仕立て上げたような羽に見惚れていると、私は、冷たい空気を飲み込んだ。

 羽の一部が折れている。背中の生え際のすぐそばのところ。若き王は、いまや観衆となった美しい人々の前に、顔を向けて立っていたから、私だけがその傷に気が付いていた。

 今夜はじめて目にした人。一言だって言葉を交わしたわけではない。それなのに、私にはその傷が、我が事のように痛々しく感じられて、目にはうっすらと涙すら浮かんでくるのだった。それは、冷たい風にすぐ吹き飛ばされてしまったのだけれど。

月の明かりがいよいよ増してくると、羽はいちど、まばゆいまでに輝いてから、その姿が見えなくなった。そして、どこから静寂の音楽が流れてきた。私たちの知っている音ではない、静けさが奏でる旋律。それはきっと、あの彼が望んで呼び起こしたもの。

 それに耳をかたむけて、彼の身体が動いた。

 泉に張ったばかりの氷を蹴ると、その欠片が月光に瞬いて、彼の神々しさを一層際立った。そして、彼のためだけの韻律の中に身を委ねていく。

 彼の腕の一振りは、風花をまとった風の一吹き。

 氷上で大きく振り仰げば、冷え冷えと透き通る空。

 素早く回転すれば巻き起こる、刃のような旋風。

 地球の重力から解き放たれた身体が宙を舞えば、木々にかかる霜がぐっと深くなる。

 彼は、回転し、腕を、脚を振りながら、時に軽やかにステップを踏みながら、見事に舞っていく。息をするのも惜しいほどの思いで、その舞を見つめていくうちに、私は気付いた。

 彼がだんだんと、やわらかさと少女らしさを脱ぎ捨てていって、凛とした直線的な魅力を色濃くしてゆくことに。そして、それに伴って、風が冷たさを増すことに。

それから、彼は何度も跳躍しながらも、どこか寸分の狂いもない、ひどく精巧な動きをしているような印象を見る者に与えた。それがどうしてか、私は彼が泉を何周か回ったときに理解した。

 模様だ。凍り付いた泉に、冬の模様を舞い足で描いている。

 美しい観客たちは、満面の笑みで彼を讃えながら、透明な声援をおくっている。ただ、それだけで成り立つには、彼の舞はあまりにも重い意味を持っているのではないか。

 私はその夜、どうして冬がやってくるのかを知ったのだ。ほんの少しでも水があれば、それがたちまち凍るほどの冷えが、生きるのにあまりに粗忽な者、あるいは弱い者の命さえ奪っていく寒さが、どうして訪れるのか。

 冬という厳しい季節を、たった一人で手繰り寄せ、呼び寄せているのが、彼なのだ。

 彼は、あまりにも軽やかに、美しく舞っている。けれども、その舞が清らかで、燦然とした輝きをまとったものであればあるほど、私はどうしてか涙せずにはいられなかった。

 風は冷たさを増し、こんな野外で無防備に泣いていれば、頬が凍り付きかねないことを私はよく知っている。だけどそんなこと、いまこの場では何の意味も成さなかった。

 私は、彼の傷ついた羽を見てしまった。そして、冬を招き寄せるという大役を担う、特別な存在であることを望まれる人だと知ってしまった。

 あの美しい人々のなかで、彼ほど鮮やかに舞うことのできる人はいないだろう。だから、尊敬を集めずにはいられないのだ。

 でも、それは彼にとって、一体どのような心地のする立場なのだろう? 私は、人々の語りかけの中で、瞑想に入っていったあの瞳を思い出さずにはいられない。ただただ自己の深淵を覗き込み続けているような、あの瞳を。

 あの静かで冷たい瞳は、むしろ人々に応えるときの優しい笑顔よりもずっと、彼の顔に馴染んではいなかっただろうか?

 けれどもこんなことを考えるのはきっと、吐く息すらどうしようもなく白くなってしまう、熱の宿った身体を持つ私だからなのだというのも、直感的に理解していた。こんな考えこそ、この場では異端なのだ。

 だって彼はいま、笑顔すら湛えて、あんなにもまばゆく舞っているのだから。

 彼は天空へと手を差し伸べながら、優雅に素早く回転をした。すると、彼が氷上に刻んだ軌跡が一つの模様となって、輝きが閃いた。と、同時に、すべてを氷の世界へと塗り替える冷たさを孕んだ風が、轟々と吹き降りてきた。

 その風が地上に吹き渡り、すべてを覆いに出かけたのを見送ると、彼は舞を終えた。

 私は、ひりひりとする肌で本格的な冬が訪れたことを悟った。明日から、私たちはあまりにも厳しい寒さに、俯きながら歩くことを余儀なくさせられるのだ。大人たちは、口にするものが日に日に乏しくなっていくのを、成す術なく眺めながら、日々を憂う。家畜で生計を立てる人達は、春を迎えることのできる個体が、いったいどれだけいるのかを、睨むような目で判別しなければならないだろう。

 そんな冬が、また巡りやってくるのだ。

 美しい人々は、みな一様に立ち上がって彼を讃えていた。ゆっくりと四方にそれぞれ応える彼は、まさに際立った存在。

 氷上の帝王。

 彼はふと膝をつくと、自分でいま張ったばかりの氷の面にそっと手を乗せた。そのとき、さっきまであんなにも輝かしく、誇らかに人々からの祝福に応えていた彼の眼に、あの物憂げな静謐が戻ってきた。

 私の胸はざわざわとした。いまは見えない傷ついた羽は、あの綺麗な舞のなかで痛みはしなかっただろうか。そればかりが気にかかる。

 胸騒ぎは自然と身体へと伝わっていたらしい。私の足が、霜をのせた葉を踏んでしまう。わずかな音だったけれども、あんな静寂の中で暮らしている人々を、しかもその王を気付かせるには十分すぎた。

 氷上の帝王は、はっとした表情で私を見とめた。その目に見つめられたとき、私は魂の吸い込まれるような気がした。

 夜空。太陽がいちばん遠い時間の闇。そこに星と月だけがあって、かろうじて光がある。そんな夜空のような瞳。

 私の心はその瞳に惹かれて、ゆうらりと一歩、王に向かって足を踏み出した。瞬間、王は立ち上がると、二本の指をたてた手で、さっと横ざまに空気を薙いだ。

 次に目にしたものは、見慣れた私の部屋の天井。どうやって家まで帰り着いたのか、まったく覚えていない。あわてて寝床を離れて、上着に触ってみたけれども、そこにはひとかけらの雪も、その名残の水もなかった。昨夜と同じ、乾ききった上着だった。

 夢だろうかと思う。だけど、夢にしてはあまりにも鮮明だった。私はいままで、あんなにも五感に訴えかけてきた夢を見たことがない。

 それに……あの氷上の帝王を、夢の産物にしてしまいたくないと、強く望む私がいる。

 だから私はいま、これを日記に書きつけている。そうでもしないと、記憶が薄らいでしまいそうだから。こうして書いているいまでも、王によって大切な何かを既に忘れさせられてしまったのではないかと、ひどく心もとない。

 そうでなかったとしても、きっとこの記憶は月日が経つにつれて、段々と薄らいでいってしまうことだろう。どうしてかはわからない。ただ、そうなのだという直感があるだけだ。

 書いているうちに夜が明けてきてしまった。でも、夜明け前に書き終えられそうで一安心。あの夜の出来事を思い出したくなったら、この日記を読めばいいから。

 最後に一つ。未来の私にむかっての忠告を。

 この思い出は、永遠に私だけの秘密。それがせめて、あの美しい氷上の帝王に示せる、たった一つの私の敬意なのだろうから。

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