日記——泉のほとり

 今年はじめての雪が降る夜だった。

 いつになく眼が冴えて眠れない私は、本棚から適当に一冊をとって眺めながら眠気の訪れを待っていたけれど、いっこうに眠れる気がしない。目は文字の上をすべり続けるばかりで、これじゃあ、明日の授業で居眠りをしてしまう、とため息をつきたくなった頃、いきなりそれは起きた。

 まるで耳元で、小さな銀の鈴を鳴らされたよう。

 けれども、夜はいつもと変わらずに静かだった。私だけが聞いた音。それは予感だった。耳のなかで鳴った、小さな予感。

 それが意味するところはまったくわからなかったけれど、私はいてもたってもいられない気持ちになって寝床から出ると、とにかく厚いものをと上着を着込み、そうっと家を抜け出した。

 玄関の扉を開けるまで、どこへいくのか見当もつかなかったのに、外へ出ると自然に森の方へと足が向いた。

 寝床に入る前までは吹雪くばかりだった雪が、いつの間にか砂糖のような粉雪にかわっている。けれどもしびれるような寒さはそのままで、少し歩いただけで手足はかじかみ、わずかでも風が吹けば、鼻や耳が切り取られるような心地がした。

 ここで生まれ育った者なら、夜の森を、ましてや雪が降る中でまともに歩けるはずがないのは考えるまでもないことだ。そんなことをするのは、死にたい人間だけだろう。

 それなのに、私は歩いていたし、光源はないのに不思議と足元はきちんと見えるのだった。

 ほどなく泉が見えてきた。ふいに木々が途切れて、清く冷たい水がこんこんと湧くその泉には、いつものように近付くことができなかった。

 泉のほとりには、見慣れない人々がいたから。

 泉の手前の木の一本に身を寄せてからそろそろと覗い見てみる。山がちの土地柄でわずかな平地に身を寄せ合うように暮らす人の数は多くない。見慣れない顔などないに等しい。

 それなのに、まわりで暮らす人々よりも多い人数がそこにはいて、笑いさざめいていた。いや、そういうのは間違いかもしれない。確かに彼らはくちびるを動かし、談笑しあっているふうではあったけれど、声というものはいっさい聞こえてこないのだから。

 彼らの声は、まるでこずえの間をふきまわるさわやかな風のよう。ふだん、がやがやと声を出して話しているのが、とても異様でみっともないことだと錯覚してしまいそうだった。

 風変わりなのは、話し方だけではなかった。そこにいる人々は、みんなが若く、すきとおるように美しかった。

 誰かを見て、綺麗だと心打たれるのはうまれてはじめてだった。もちろん、私より顔かたちのいい人くらいなら見たことはある。大人たちが口々に、あの子はべっぴんだね、と目を細めるような同級生の横顔をふと見て、ああやっぱりこの子はかわいい、と思うくらいのことは。

 だけど、これはそんなに生易しいものではなかった。私は、大理石の彫刻というものを教科書の写真でしか見たことがないけれど、あれが目の前にあって、しかも生きて動いて見せたら、こんな感じなのではないかしら、と思った。

 そう、生まれながらに血の通った人間にしては、彼らの姿かたちはあまりにも美しく整いすぎていた。だから、ただただ見惚れるということができなくて、目が離せないのに、見つめているうちに背筋がなんだかぞっとしてくる。

 呼吸するたびに、ほわほわと白い息を吐きだすのは、この森の中で私だけだった。それを見とがめられないように、息をひそめながら、私はこの美しい集団をじっくりとながめた。

 やがて、泉のほとりに座る人々のなかにいて、特に敬われている人物の存在に気が付いた。美男美女が勢ぞろいしたなかでも、ひときわ目立つ。もちろん、そばにいる人々も魅力的で、たとえばその人のすぐ脇でほとんど寝転ぶように座っている少年は、天使のように愛らしい顔立ちで、子犬のような茶色の巻き毛をしていたけれど、その人は特別だった。

 まず、その人は、ひどく中性的で、男か女か、よくわからない。男性というには、身体の線がやわらかでやさしげで、けれども女性というには凛々しく、ひんやりとした鋭さがある。

 その人の髪と瞳の色は黒だった。黒というだけでは足りない、とてもきれいな深い色。眠りがいちばん深いときの夜空の色とでも言い表せばいいのか。しめっているようにつややかで、なめらかで、どこまでも深いけれど、なぜか透明感も兼ね備えた色。

 髪は襟足にかかるくらいの長さで、私は髪のみじかい少女かと思った。その人は、伏し目がちに凍りはじめた泉のふちを見つめている。

 けれども、その姿に陰気なところなど少しもなくて、かたわらの人に話しかけられれば、朝のひかりに花びらをひらく朝顔のように顔をあげて、笑顔を浮かべて応える。

 その笑顔には、この世にある優しさと慈しみのすべてをつめこみ、濃縮したような輝きがあった。語りかけてくる誰に対しても、漆黒の瞳は真摯さをもって向けられる。

 わたしは、あなたを受け入れているし、理解できる。あなたの言葉こそ、わたしが聞きたいことのすべて。

 まるで、そんなふうに語りかけてくるような笑み。私は、その笑顔を受けて、言葉をかけることのほまれを許された、美しい人々に嫉妬した。茶色の巻き毛の少年が、何かを語りかけ、それがその人の笑いをさそって、その上その柔らかな髪がそっと手でなぜられたのを見たときは、息苦しさすら感じるほどだった。

 あの微笑みを前にしたらきっと、私はこの世のすべてにていねいに扱われた、愛されている存在なのだと無条件の自信に満たされることだろう。

 私は、あの笑顔が少しでもこちらに向かないか、でもいちど見つめられたらなにかが粉々に砕け散ってしまいそうで震えながら、ただただ見つめていたのだけれど、そのうちに気が付いた。

 その人は、誰に対しても慈愛に満ちた眼差しをそそぐ。けれども、その心は誰にも触れられないほど遠くにある。

 目が伏せられるとき、さっきまで瞳に移していた人々は彼方へと過ぎ去り、ただただ物思いのなかへと沈んでいく。

 ……物思い? それさえ、その人のなかにあるのかは、誰も知り得ることができない。それまで、他者にむかって心が明け放されていたことの引き換えのように、心は閉じられ、個人の内面へふかくふかく沈み込んでいき、氷のような静けさを身にまとうことだけがわかる。

 あれは、なんだろう? 疑問がようやく、私の胸に浮かんできた。いままで、人であって当然だと決めつけてきたけれど、こんな田舎の真夜中に、美しい若者たちが人知れず集まっていることがそもそも異様だ。まるで、霜柱のひとつひとつが人に化けたような、唐突な現れ方なのだ。

 人では、ないのかもしれない。

 そう思ってもなお、私はあの美しい人から目を離すことができずにいた。

 すると、いままで思い思いに談笑していた人たちが、ひとつの意思をもってまとまりを見せた。私には彼らの言葉を聞き取ることはできないけれど、あの人に何かを乞い願っているのはわかった。

 その人は、はじめこそ人々に笑顔で応えていたけれど、次第にその表情は張り詰め、またあの瞑想のような深い内面世界へ潜水していく。

 しばらくすると、わずかな動作で頷いた。すると、人々は無音のまま笑いさざめき、あの人の傍らにいた巻き毛の少年が、銀色の弓を取り出し、うやうやしく手渡した。

 弓を持ったその人が、宙へと手を指し伸ばすと、天から舞い落ちる粉雪をたぶらかし続けていた風が、ひたりと止む。代わりに、その手のひらにはまっさらな細い白い弦があった。

 その人は、銀色の弓に、雪色の弦を結った。それから透明な矢をつがえると、上空へ向けて矢を放った。

 矢が空を切る鋭い音が、はじめてその人の発した音。矢は、吸い込まれるように厚い雲に向かっていき、やがて見えなくなった。

 まもなく、雲居から豊かな銀月が現れる。身体の熱を切り払い、奥の奥までしみとおるような銀色のひかりのしずくが泉の上へと降り注ぎ、その明るさであたりは満ち満ちる。

 同時に、音もなくその人は立ち上がり、泉のほとりから一歩足を踏み出した。

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