氷上の帝王

和泉瑠璃

遺言

羽生結弦へ捧ぐ


 亡くなった祖母が住んでいたのは、寒さがきびしい北国の田舎だった。

 ここでは、雪と氷がすべてを支配する。火から始まった文明によって、人は自然を支配したと錯覚してしまいがちではあるけれど、ここでの暮らしをみれば、それはあまりに都合のいい幻想にすぎないと思い知らされる。

 ながいながい冬は、もっとも冥界に近付く季節だ。ゆたかだった実りの秋は、あっという間に遠のき、植物は実る力を失い、冬将軍の吐く息によって凍り付く。人々は、冬の前に支度しておいたたくわえを気にしながら春を待つほかなく、ひとたび寒波が襲ってくれば、弱いものからその命を削られていくのだ。家畜はもちろん、人であっても。

 雪と氷に閉ざされる、冬の国。

 祖母はその国の住人だった。


 祖母は奇妙な遺言をしていた。それによると、彼女の遺骨はとある森の中の泉へ沈めてほしい、とのことだった。どういうことだろう、と父は困惑したものの、それが祖母の望んでいたことなら、とささやかな葬儀のあと、遺言通り祖母の遺骨は泉へと沈められた。

 日増しにきつくなる寒さによって、もう水際が凍り始めた泉のなかへ、しずかに沈んでいく白い祖母の骨を見送ったあと、私は、形見分けをしながらの遺品の整理のために、祖母の家にいた。

 長く連れ合っていた祖父は、とうのむかしにこの世を去っていたので、祖母の死によって、この家は住む人をすべてうしなってしまったことになる。

 住む人のいない家は、冬の雪に耐えられない。延々と屋根へ降り積もる雪を掻いてくれる誰かの手がなければ、家はやがて雪の重みに押しつぶされてしまうのだ。

 はやくこの家をつぶしてしまわなければならないな、とつぶやいた父は、その義務的な口調ににじみ出る悲哀を隠しきれていなかった。この家は、父の育った唯一の場所であるけれど、都会での仕事を求め、そこで生活を築いてしまった父には、どうすることもできない。私だって、こんなに雪深い場所での暮らしは想像もつかない。

 そうなれば、残された道はひとつだ。ここでの冬は、感傷など許してはくれない。


 祖母の家の整理は、おもいがけない楽しみを私に与えてくれた。この家には、地層のように思い出が積み重なっていたのだ。長く手をつけられていなかった戸棚や物置の奥の方には、セピア色に色あせた品々が眠っており、そのひとつひとつにこの家の歴史が刻まれていた。

 私は、父の、祖父の、そして祖母の、若い姿を初めて見た。祖父が撮り、祖母がていねいにアルバムに収めたアルバムの中の写真に映る若き日の父は、ずいぶん前に家を出てしまった私の兄にそっくりだった。

 そういえばあなた、お母さんの若い頃に似ているわ、と叔母が言ったのは、そんなふうに私がはしゃぎながらアルバムを眺めているときだった。深くしわを刻んだやわらかな祖母の顔しか知らない私がきょとんとしていると、叔母は笑いながら私の顔の隣に、ありし日の祖母の写真をかざす。

 ほらね、そっくりと言われて写真をのぞきこめば、たしかに言われたとおり、写真のなかの少女は私によく似ていた。

 最初は気乗りしなかった整理の手伝いは、こんなふうな楽しみのおかげで、ずいぶん愉快な作業となった。私は積極的にあちこちに触れてまわり、てきぱきと働いた。すると、祖母がいつも腰かけていた揺り椅子にいちばん近い引き出しの中に、ふるぼけた手帳を見つけた。表紙の布がすりきれて、中の厚紙が見えてしまっているし、紙の端は茶色くなっている。ずいぶん年月を経たものであるのはたしからしいのに、不思議とほこりは被っていない。

 好奇心をくすぐられて開いてみると、まっさきに日付が目に入り、どうやら祖母の日記らしいことがわかった。それも、日付の年から数えてみるに、祖母がちょうど私の年だった頃のものだ。

 最上級のたからものを見つけた気分だった。祖母の日記。祖母の娘時代の記録のなかには、ひょっとしたらすばらしい秘密が眠っているのかもしれないのだから。

 父は、故人である母の思い出を探るような真似はどうかと眉をひそめたものの、叔母はこれもなにかの縁だと言って、私が読んでもいいのでは、と口添えをしてくれた。

 しぶしぶ頷いた父は、ただし、と条件をつけた。家の整理を終えるまで読まないでおくこと。このいそがしいのに、日記を読むのに夢中になって、手伝いをされなくなったら困るから、と。

 私は言いつけをしっかりと守って、きちんと働いた。家の中のものがすっかり片付いて、なんだか寂しくなってしまったその夜に、今年はじめての雪が降った。父は窓越しに空を見上げて、やれやれとため息をつく。夜の雪の中を帰るわけにはいかない。今夜はここに泊まるしかなさそうだ。

 なにもなくなってしまった家で、それでも叔母は知恵をしぼり、粗末ながらあたたまる食事をととのえてくれた。私は、食後にと叔母が入れてくれた紅茶を飲みながら、祖母の日記を読むことにした。そうだ、どうせなら祖母の揺り椅子に座って読もう、と思いついた。

 揺り椅子は壁際に置かれてあって、カーテンをめくってみると、絶え間なく雪が降っているのが見えた。

 すごい雪、とつぶやいた私に、思い出したように父が忠告した。

 夜はもちろんのことだが、雪が降ったからには、森へ入ってはいけないよ。

 どうして、と私は窓から振り向いた。どうして、雪が降ったら森に行ってはいけないの?

 ただでさえ森は迷いやすいのに、雪で視界が悪くなればとても危険なんだ、とごくまっとうなことを言う父とは裏腹に、紅茶を啜っていた叔母はそれだけじゃないわよ、と笑顔を浮かべた。

 雪の森には、魔物が出るからよ。その魔物に出会うと、魂を奪われてしまうの。

 魔物? と目を輝かせる私に、父はあきれたような声で言う。ここらではそんなふうに言って、子供に言い聞かせるんだよ。

 あら、そんなことないわよ。お母さんは毎年、初雪を見るたびに言っていたじゃない。


 主を失い、まもなくなくなることになる家であっても、その死は遠いものではなく、故人の面影はまだまだ色濃い。そして、窓の外には雪だ。降り積もる雪は、だんだんとこの家を閉じた場所にしていくようだった。

 そんな家のなかで、祖母のお気に入りの椅子に腰かけているのだから、祖母の記録がまるで自分のことのように思えてしまうのは、もしかしたら必然だったのかもしれない。

 ゆらゆらと心地の良い揺れに身を任せながら日記を読んでいると、不思議と日記のなかの日々が鮮やかに私に迫ってきた。

 私の知る祖母の字は、年を重ねてきた人特有の落ち着きのあるものだったのだけれど、日記のなかの字はまだまだ若く、一目で少女のものだとわかるのが妙だった。

 日記の内容は、他愛のないものだった。けれども、いま同い年の私にとっては、いくつか切実に感じられるものもあった。たとえば、親友といざこざを起こして心を痛めたこと、母親に言われた何気ない一言にひどく憤慨してしまったこと、物語を読んだあとの感嘆と、こんなことが、特にすてきな恋が、自分の身にもいつか訪れればいいのに、という期待。

 私は急に、祖母の死が惜しくなった。遠方に住んでいるせいで、年に何度かずつしか会わなかった祖母には最期まで親しみを抱くことができなかった。けれども、彼女の日記を読んではじめてその存在がいきいきとした個人の姿をともなって感じられることができたのだ。

 もっとはやくこの思い出を知りたかった、と心から思った。そうしたら、学校で女友達とおしゃべりするみたいに、祖母とも話をすることができただろうに。祖母の感じ方は、私のそれととても近いものがあったから、きっと何かにつけ深く共感しあえるいい話し相手になれたはずだと思う。

 日記のなかの出来事とその感想のひとつひとつに深く頷きながら、私は私で日々のことを思い出し、それをこの日記の書き手である少女に語ってみれば、どんな反応があるのだろうかと想像を膨らませた。

 夜が深まっていくのも忘れて夢中で読みふけっていると、ふと日記の文体がいままでのものと様変わりしていることに気付いた。

 どこまでも夢見心地で、まるで小説のよう。もしかして、祖母はひそかに小説を書こうとしていたのかと思ったくらい。

 それほどに幻想的な、その思い出は……。

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