第13話 吸血鬼、握手する

 夜雀の羽毛による、夜とは質の違う暗黒がドラガを取り巻く感覚も何故だが懐かしさを感じ初めていた。

 陽ノ華の声が先導する。


「こっちよ」


 ドラガの視界が不明瞭であることは絶好の機会だと柿李は判断し、手枷を付けて檻から出した。ドラガを引きつれるように昼巫女三人も続けてその場を後にし、研究棟を出る運びになった。

 木花咲耶院の情報を危険性を孕むドラガになるべく教えたくないからだ、という理由であるらしい。柿李はそう告げた。

 ドラガにとっては早く出たい気持ちしかなかったので返事をしなかったが、口に霊符を貼られるのは心外であった。おかげで口は効けなくなってしまったが、文句も言えないことにまた歯噛みする。

 他の昼巫女が何かを言う声、床の軋み、反響する足音が耳に入っては抜けていく。何度目かの角を曲がり、手を引かれるままに木花咲耶院を後にした。

 肌に外の風を感じ、鼻で青葉の香りを見つける頃、口の符が外された。


「もう外に出たよ〜。ていうか視えてる?」


 柿李の声が真正面から聞こえる。


「今は夜か?」

「明け方だね、鳥目になってるならまだ見えにくいだろうけど」

 

 暗黒の視界は門らしき場所を通り過ぎる頃には徐々に明るさを取り戻していた。といってもいまだに仄暗く見える。しかし人間の判別には問題がなかった。


「お前たちの顔を覚えたからな。次に会うことがあれば覚悟しろ」

「ちょっとドラガ!」

「おぉ〜悪者っぽい台詞だ。ま、是非頼むよ」

「あん?」

「柿李様っ!……いえ、すみません」

「いいのいいの。さて要観察対象の妖怪ドラガとその観察担当である陽ノ華を研究部総括であるアタシ、柿李が問題なく木花咲耶院を出立するのを見届けましたっと」


 そう言うと柿李は懐から手紙を出し陽ノ華に渡した。


「続けて桜花仙からの代理での通達。君ら二人に向けた特別指令だ」

「特別指令?」

「妖怪を喰らう妖怪の有用性の実証のために鳳凰局や桜花仙が相談したのよ。昼巫女や人間を襲う可能性がある妖怪を上手く使えなければ、お役御免ってことでね。使えるモノは使うけど、危険で使えないなら使わないに限るからさ」

「けっ、モノみたいに俺を言いやがって」

「ちなみに指令を断ったらこう、だよ」


 柿李はにこにこと笑顔で首を手刀で切る動作をした。


「承知しています」

「こちらもむざむざ見捨てる気はないさ。困ってることがあればいつでも言うといい。最大限の援助と研究を約束する」

「ありがとうございます」

「なに、これを難なく達成できれば、君らは両手をあげて歓迎される未来が待ってるからね」


 陽ノ華は菫と柿李に深々と礼をし、真剣な眼差しで二人を見る。菫の心配が隠せていない顔を見て、困ったように笑い優しく抱きしめた。


「菫、心配させてごめんね。大丈夫、無理はしないから」

「……信じるわよ。あんたも無理しないで」

「柿李様。御足労頂き重ね重ねお詫び申し上げます。どうか梅先生にもよろしくお伝えください」

「勿論、むしろ梅チャンが一番ここに来たかった筈だしね」


 ドラガはその様子を遠巻きに眺めていた。

 あれほどまでに感情的に別れを惜しむものなのかと疑問に思う頃、陽ノ華の顔がこちらに向き視線がかち合った。


「では陽ノ華は行って参ります。指令についての報告は一週間以内にはご連絡します」

「健闘を祈ります。天照の加護があらんことを」


 そして陽ノ華は菫と柿李、木花咲耶院の門に背を向け橋に向けて歩き出した。ドラガもまた離れすぎない距離で後に続いた。

 橋の袂にかかる頃まで二人は何も話をしなかった。

 朝に向けて吹き始める軟い風が足元を抜けていく。

 合わせた訳では無いのに同時に足が上がり、ドラガと陽ノ華は橋に一歩踏み出した。

 行きと同じ軋む感触が足元から伝わるも、ドラガは息がしにくくなるほど苦しめた結界が思ったより弱まっているのを感じていた。

 深く息を吸い込めることに内心感動を覚えていると、ふと陽ノ華がこちらを見つめていることに気付いた。


「何だ、じろじろ見るな」

「なんでもないわよ。意外と元気そうだなって思っただけ」


 不思議と皮肉ではなさそうな物言いだった。

 また二人の間に静寂が訪れる。

 橋の真ん中まで来た頃、耐えきれずドラガは声を出した。


「何故あんなことをした」

「あら菫から聞いてるかと思ったけれど、その口ぶりじゃ納得していないみたいね」

「当たり前だ。俺のためにそこまでのことをする必要は……」

「別にあんたのためじゃないわよ」


 は、とドラガは間抜けな声を出した。そんな驚きすぎて呆けた顔が目に映ってしまい陽ノ華も思わず吹き出した。


「私が私のためにやったことよ。研究部送りにならないようにはしたかったけれど、そういう意味ではあんたに貸しを作ったとみていいのかな」

「だが割には合わない気がするが」

「私の心臓ぐらいしか担保に出来るものは持ち合わせてなかったのよ」

「そのくらいやりたいことがあるのか」


 そう言うと陽ノ華はぴたりと立ち止まり、懐から先程柿李から渡された手紙を出した。


「これよ。特別任務、言うなれば『誰もやりたがらない妖怪退治』をして桜花仙様に認められなければならない」

「ハ?お前はただ褒められたいだけにあんなハッタリまでかまして俺を使うなんて……」

「違う!」


 嘲笑しかけたドラガの声を陽ノ華の一喝が抑える。

 順を追って話すわ、と陽ノ華は言った。


「先ず、桜花仙様は昼巫女の最高峰にして指導者なの。その仕事のうちに昼巫女の資質を持つ者の発掘、教育がある。菫から聞いているかもしれないけれど、昼巫女の資質はとても貴重なの」


 そんなことを言っていたな、と思い出しドラガは気のない相槌を打つ。


「その資質は生まれつきのものであり、後天的に得られない。加えて資質がある者の肉は妖怪にとって美味いらしいの。だから襲われる確率が高い。そのおかげか年々と昼巫女になる者、なって生き延びる者は少なくなっているわ」

「それで守るために桜花仙は『薄情』になったのか」

「そう、民を守るために命を賭してその力を駆使するはずの昼巫女なのに、いつの間にか守るべき民よりも優先して逃げるべきだという意向になったの」

「蹴落としてでも生き残る、ということか。生き汚なさは嫌いじゃないがな」


 陽ノ華はドラガの返しに何も言えなかった。


「……実質、それで私と菫は助かったわ。私たち二人が見習いから昇格して初めての任務がそうだった」

 

「私たちの他に先輩の昼巫女もいた。明るくて聡明な人だったわ。今思えば、そんな頼れる先輩と仲のいい友達がいたからかな。楽観的になって油断してしまった。あの時行った先の村で少し手こずったけれど、妖怪を退治出来た。村の人たちにも怪我の被害があって、その治療中に別の妖怪が襲いかかってきた」


 陽ノ華はぐっと眼を閉じた。口にした過去を反芻しているのだろう。ドラガは想像した。妖怪を斃して緊張が解け、傷を所々に負う巫女と村民。そしてそれを眺める別の妖怪。絶好の捕食機会であろう。

 陽ノ華は深刻な顔のまま続けた。


「あの時私たちは疲弊していたことに加え霊符や道具も尽きていた。それでも幾らか抵抗を続けて、結局私たちは逃げたわ」

「三人全員で」

「いいえ……先輩だけが残ったの。私たちはまだ戦える、戦えなくてもここに残ると言ったわ。でも先輩はそうは思わなかったのね。この状況では最悪誰も生き残れない、そう想定して村の裏口から私たち二人を逃した」


 陽ノ華の手が震える。


「死にものぐるいで山道を駆けて増援部隊と合流したわ。菫はその時酷く転んでしまって……あの子の片方の足が悪いのはそれが原因。その後はここに運ばれて治療を受け、先輩があの村で死んだことを知った。数日後弔いの時に桜花仙様にことの次第を話したわ。そうしたらなんと言ったと思う?」


 ドラガは何も答えない。

 

「『何故抵抗なんてしないで三人で帰ってこなかったのか』労いの言葉の中の最後にそう言ったわ。私は混乱したよ」


 陽ノ華の歩みが止まる。額の髪をかきあげて上を向いた。


「今の昼巫女の少なさを考えたら桜花仙様の言っていることはわかる。でもそうしたら村のみんなは妖怪に襲われ無惨に死んでいったでしょう。だからあの時の先輩の判断が全く間違っていたとも思わない。もし私が同じ立場ならそうするでしょう。でも実際は死んでしまったわ。だから何度もあの時三人残っていれば何か変わったんじゃないか、逆に三人とも逃げれば今も先輩はここにいたんじゃないか、もっと別の判断ができたんじゃないか、そう思えて仕方ないの」

「三人残る、はまず悪手だな」


 ドラガの回答に陽ノ華は顔を上げた。銀の髪はゆらりと闇に浮かび夜風に踊っている。


「怪我してて武器もなかった。戦いに慣れていないお前らがいた。勝てる想像が全くできなかったんだろう。だのに抵抗したせいで状況は悪くなるばかり。最後の最後に下したその先輩の意見、そも抵抗なんてすべきでなかった桜花仙の意見も真っ当に見える」

「……」

「あぁ……だがなんとなくお前の言いたいこと、やりたいことが見えてきた。俺を利用して妖怪退治はこの俺や俺みたいな妖怪に任せればいい、という結果を出して桜花仙の考えを改めさせたい。『勝機がなくとも死ぬまでその場で戦え』と言わせたいんだな?」

「それは違うわ!」


 叫ぶ陽ノ華の黒髪が乱れ闇に溶ける。


「妖怪をもって妖怪を倒す、これを進めたいのは合っているわ。でも昼巫女も昼巫女じゃない人でも命を捨てるような戦い方はしてはいけない、それだけは切に願うの。だからと言ってどうすればいいのか、今は言葉にできないけれど……」

「そこはまだ何も決まってないのか。杜撰な計画だな」

「……未熟が過ぎると私でも思うわ。それに加えて」


 陽ノ華はドラガに向き直る。その眼は真剣そのものだった。


「あんたとここまで旅をして、妖怪は本当に悪いものしかいないのか。退治に値するものばかりなのか、それを確認したくなったの。全ての妖怪を無碍に切り捨てていいのか、話し合える余地はあるのか。もしそうであれば昼巫女は妖怪とひっきりなしに戦う必要なんて本当は無いんじゃないかって」


 唇を噛み、息を吐く。

 陽ノ華は言葉を続けた。

 

「全部理想論よ、分かってる。もっと広い視点から見たらこんな意見は空想の域を出ないかもしれない。だからといってここで手をこまねいて悶々と任務をこなすのは、もう嫌なの。だからあんたと出会って賭けてみたくなったわ」

「俺が人間に仇なす存在かもしれんのにか」

「あら?ここに来るまでにあんたは誰かを無差別に襲ったり殺したりした?」

「殊勝なこった。お前のその破れかぶれの案だが、聞くだけなら面白そうだ。何よりこの俺が妖怪退治を為せない場合、こうなるからな」


 そう言ってドラガは手で首を切る真似をした。

 陽ノ華はふふ、と不敵に笑う。


「だが、まだ納得いかねぇことがある」

「え?」

「心臓を賭ける意味だ。お前がお前のためにやったとしても、もっといい方法があったんじゃねぇのか」

「なかったわ。方便ならいくらでもあったけれど、口先だけならすぐばれてしまう。あの場で嘘がつけないなら嘘にしなければいいだけよ」

「お前の負担は?」

「あんたが下手しなければいい、それに


 そう言って陽ノ華は不適な笑みを浮かべ、ドラガを指差した。途端、ドラガは菫から渡されたものを思い出し、懐から取り出した。

 陽ノ華は受け取りぱらぱらとめくる。


「これは先達の昼巫女が遺した術書なの。数多の術を開発したとも言われていて、掛け方から解き方まで事細かに記されている。菫に頼んで写を作って貰ったし、ここから読み解けば解呪できる。多分」

「転んでもただでは起きんというわけか」

「転んだつもりもないわよ。それに桜花仙様だって負担を減らす方向で私の術を解除しに調査は入るでしょう。私がやるもやらないも時間の問題よ」

「成程な、全くの無策ではないわけか。スミレはともかく、カキリだったか、あの女はお前らの企みを知っているのか」

「柿李様も私達の協力者よ。柿李様曰く、桜花仙様の昼巫女の生存優先の施策によって被害を受けている側でもある。確か、昼巫女の生存が少しでも危ぶまれる作戦の実行時、生存優先のために鳳凰局や歳刑衆さいきょうしゅうへ手回しする分を幾らか研究部から出しているらしくて……つまり研究のためのお金が足りなくなってるのよね」

「ケッ!俺の血や何やらを取ろうとするところなんざぶっ潰れて問題ない」

「そんなこと言わないでよ、あんた妖怪を食わせて貰ったんでしょ」


 ドラガは陽ノ華の言葉に夜雀の食感を思い出し何もない口をもごもご動かした。


「でも、私が知る限りそれだけだわ。桜花仙様の考えを変えるべきだ、と思う昼巫女は。うち一人は幹部相当だとしても、たった三人で何も動けなかった。でもドラガ。あなたがいたことでまたとない機会が生まれたわ。渡りに船と言うには危なっかしいやり方でしかないけれど、この好機を逃したら次に動ける機会は訪れないと思ってる」

「俺はお前にも桜花仙にも転機を齎したわけか」


 陽ノ華は無言で頷いた。

 ドラガはそれを見ると、夜明けの空に響く大きな笑い声をあげた。


「な、なによいきなり」

「お前そもそも、

「えっ」


 陽ノ華の顔色がさっと青くなる。

 そう、やぶれかぶれの作戦であっても先ずはドラガが特別指令を仇なす事なくこなしてくれることが前提である。

 もしドラガがここで裏切り、自分の命も顧みず陽ノ華に襲い掛かれば全て水の泡である。何も始まらない。

 何より優先すべき前提であるのに、陽ノ華はドラガが何の代償もなく受け入れてくれると過信してしまっていたのだ。

 それはドラガのことを善く見すぎている証左にもなっている。

 その思いを知ってか知らずかドラガにとっても思うところが出てきていた。

 ドラガの思っていた以上に陽ノ華という女は強かに芯が通っていた。かといって理屈っぽいと思えば、意志に従って後先考えない道を進みかけている。その様をドラガはうざったい、小賢しい、愚かだと思うところはあれど、どこか元気付けられるところがあった。

 何よりドラガにとっては己の醜態を見せてしまった桜花仙の思うままにさせられることの方が屈辱であった。そも言われるままに犬のようにこき使われることへの大きな抵抗がある。しかしその道の先に陽ノ華による桜花仙の考えの改めがあるのなら、鼻っ柱を折るいい機会ではなかろうか。

 それに胸の宝石のことを知る機会でもある。

 笑う口を手で蓋をし、一つ息を吸う。

 陽ノ華は何か言葉を引き出さんとあぁ、とかうぅ、と言葉にならない声を出していた。


「偶然来た俺を勝手に信じて賭けられて、挙げ句の果てには最終目標が曖昧。仲間も片手で数えて足りる程。こんなの進退窮まれりじゃねぇか。馬鹿馬鹿しいと投げ捨ててやりたいところだ」


 不安そうな眼で陽ノ華がドラガを見ているのを感じる。

 仔犬のようなその様にくく、と笑い声を漏らした。

 

「だがしかし、興味が湧いた。首輪は甘んじて受けてやろう。それより桜花仙、あいつの掌の上で踊ることには癪に触る」

「それじゃあ、受け入れてくれっ……」


 ぱっと明るい顔をした陽ノ華は突然手を突き出され、ぐっと息を呑む。

 当のドラガはそこでだ、と陽ノ華に一つ声をかけた。


「桜花仙へ報復する機会を俺のために作れ。それでお前のやろうとしていることに協力してやる」

「なっ!」


 陽ノ華はなんて不敬なことを、と口をぱくぱくさせる。

 だがドラガは笑みを消してじっと陽ノ華の回答を待っている。

 陽ノ華はあの部屋で気を失う寸前までにドラガと桜花仙が何をやりとりしていたのか全く知らない。しかしこの真剣な眼差しから、桜花仙の強大な力によって彼の自尊心が傷つけられる何かが起こったのだろう。故にそれを回復させる機会か手段を求めている。

 ここまでの旅路で分かったことは、ドラガは己の矜持を踏みつける者には飢えた犬のように噛み付く性根であることだ。そして命を捨てようとする者には、それが敵であっても、叩きつけても否定する性質を何故か持っている。

 ドラガにとって陽ノ華の心臓を『代償行使』する行いは後者にあたるのかもしれない。だが実際に命を失ってはいないことと、桜花仙への雪辱を果たさんとする思いの方が強いのだろう。

 ドラガの目に燈る赤が燃え上がる炎の様に見えた。


「それは流石に確約できないわ」

「ではこの話はナシだ。お前の術を振り切ってでも俺だけで桜花仙にこの爪を喰らわせてやろう」

「そんな……わかったわ、か、考えるわよ。それでいいんでしょう?」

「おう、そうしろ。本当はカキリとウメにも一発食らわせてやりたいところだ。だがカキリはお前の仲間だというし、ウメはお前をやけに気にする。これでも譲歩してやってるんだぞ」

「譲歩なの?梅先生はとてもお優しい人よ。私の見習い時代から世話になっていて親代わりのようなもの。あの時だって私の保護を優先に動いていたから仕方なかった」

「まぁいい。お前が約束を反故にしたときは分かっているな?」


 ドラガは満足気に鼻を鳴らし、じろりと睨んだ。

 陽ノ華は溜息混じりに無言で頷いた。


「ええ。私は桜花仙様のお目通りが叶うまであなたと共に妖怪退治をする。ドラガはその誇りを取り戻すために桜花仙様に挑み、私がそのお膳立てをする。これでいいかしら?」

「応よ」

「よし!そしたら」


 陽ノ華はドラガに向き合い、右手を差し出す。

 ドラガはそれを見て首を傾げた。


「知らない?これは握手よ。少なくとも桜花仙様に会うという目的までは私たちは一心同体。術のおかげで文字通りね。だから互いに敵じゃない、仲間であることの証明」

「仲間、ねぇ……ちなみに聞くが、お前桜花仙の前で話したことは覚えてるか?」

「え?あぁ、尋問の術ね。あの時私は自白術を掛けられてたけれど、その時の記憶は無いわ。何か変なこと言ってた?」

「そうか、覚えていないのか……まぁいい」


 ドラガの脳裏に柿李の術式で話すことを強要された陽ノ華が思い起こされた。『人と共に歩める妖怪』。あの時、陽ノ華は嘘はつけない状況で記憶がなかった。つまりは心から思ったことなのか。

 言いようのない思いが漲り、熱い血が心臓を中心に広がっていく。

 血の滾る勢いのまま、ドラガも右手を陽ノ華に合わせるように添えた。

 首を傾げていた陽ノ華が驚き、目を上げる。


「応えてやろう。このドラガ、目的のためにお前と手を組んでやると」

「助かるわ。いえ……ここで言うなら、ありがとうよね」


 硬く握られた右手同士を朝日が照らしていた。

 陽ノ華の手に生白いドラガの手から伝わる熱が伝わる。

 ふと橋の向こう、都の門に近い方から声が聞こえた。

 見たことのある姿が飛び跳ね、こちらに向けて声を上げている。


「あれは、詠月さん?」

「ゴロー、つむじもいる。……そういや俺があの門で倒れてから何日くらい経っている?」

「ええと、六日くらい」

「なっ!そんなに!?」


 ドラガは驚き飛び跳ねた。その間飲まず食わずならば腹が減って目が回るのも当然だ。太陽も月も見ないと、ここまで認識できないものかと慄いた。

 そしてそれまでの間に五郎、つむじ、詠月は何をしているのか、全く考えていなかった。

 無事であろうか、というドラガの懸念を先回りしたように陽ノ華は言葉を続けた。


「大丈夫よ、ここに来る前に数日は戻らないかもしれないとは伝えてあるから。でもあそこまで待っててくれるとは思ってなかった」


 陽ノ華もまた驚き、顔を綻ばせた。たった数日なのにこれほど懐かしいと感じることもなかった。


「さて、行くか。その特別指令とやらはまた後で聞かせろ」


 そう言い放ち、ドラガは黒い袴を揺らめかせて走る。軽やかに橋上を駆ける様は行きに立つのもやっとだった頃とは似ても似つかない。


「はいはい、あんたが見ても分からないだろうしね」


 とは言うも陽ノ華もあの輪の中へ飛び込みたい気持ちがあり、早歩きで橋を進み始めた。

 既に橋を渡り終わったドラガは二人と一匹に何やら言われもみくちゃにされている。その様がまた微笑ましくて笑みを浮かべる。

 だがドラガの言う通り、特別指令のことも気にかかり、そっと懐から特別指令を取り出して封を開けた。

 手紙の中には便箋と地図がある。まだ薄暗い視界の中、手紙の文章は細かく読むことはできなかった。

 しかしある言葉に目が留まり、口に出した。


「『天狗』」


 その声は誰の耳にも入らなかった。

 

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