第12話 吸血鬼、腹が減る

 菫は長い廊下を歩いていた。

 木花咲耶院の研究棟は地下にあり、そこへ辿り着くためにはこの廊下の先にある昇降機を使わなければならない。いつも使う道が今という時に限ってはこの道程が驚くほど長く感じた。

 そう思う原因、妖怪ドラガは大きな蟻型の絡繰に背負われて運ばれていた。側から見れば死体を運搬しているように見える。この光景について何も言及されたくない菫にとっては誰にも会わないことを心から望んでいた。

 そして運良く誰ともすれ違うことなく巨大な昇降機にドラガと絡繰ともども乗ることができた。研究棟直結なのでここまでくればもう誰にも会わないのだ。

 持っていた鍵木を壁に開いた穴に差し込む。すると地鳴りのような音を立てて昇降機は下がっていく。次に扉が開くまで妖怪と二人きりの密室が生まれたことに菫は緊張で腹が痛くなった。


「う、ぐ…」


 しばらくして臓腑を持ち上げられる浮遊感と酷い揺れによるものかドラガが呻く。菫は昇降機の狭い部屋の端まで飛び退くも、寝返りをうっただけの様子を見て安堵の溜息をついた。だが露わになったドラガの身体にまた驚くことになった。


「柿李様の言う通り、怪我一つ残っていないなんて」


 仰向けになったドラガのはだけた服装からは白い肌が見えている。菫の目を釘付けにさせたのは喉、胸元、心臓に付近に開けられた杭の跡が微塵も残っていないことであった。瘡蓋どころか古傷のように色の変わった皮膚もない。まるでそこに何もされてなどいなかったように無防備にそこを曝け出していた。

 胸元に光る首飾りに嵌められた宝石は目の眩むような赤い色をしていた。多面的に削られた宝石は眠るドラガと不安そうな菫の顔を並べて映している。何もしていないのに、けばけばしい赤が責め立ててくるようで菫は目を背けた。

 少しして大きく揺れた昇降機が扉を開く。研究棟へ到着したのだ。

 研究棟と言われているが、実態はほぼ人が最低限住めるように掘った竪穴に近い。暗さと狭さに誰もが快く先を進みたがらないだろう。入ってすぐ鼻をつくのは黴と土の匂いであり、鼻がいい人ならばそこに薬や獣臭さも混じっているのも感じるだろう。

 曲面に掘られた天井からは光苔が垂れて足元を照らし、瓦で敷かれた道の端には地下水が流れている。


「そこにお願い。ありがとう拾号」


 蟻型の絡繰は菫の指示に従い、研究棟を進んだある一つの部屋にドラガを横たえた。牢である。

 床に寝そべるドラガが動かないことを確認してから絡繰を部屋に出して扉を閉め、牢の横の扉に入った。この扉の先が研究室である。岩壁のほぼ全面に薬品と書物、研究の標本が棚にみっちりと収められ、唯一何も無い壁にはドラガの入れられた牢の別側の檻が嵌め込まれている。

 菫は檻に一番近く、だが檻からは手を伸ばしても届かない位置の椅子に座った。側の机には白磁の皿が置かれている。

 この皿にはドラガの血があった。特攻隊長である梅の攻撃により木花咲耶院の門で昏倒したドラガの体へ刺した杭に付着していた血である。この血を研究部総括の柿李伝手に拝領し、研究のために調査していた……筈だった。

 人であれ妖怪であれ、身体から抜き取られた血は長くは持たない。塊になってしまう前にその血がどんなものか調べるものである。しかしドラガから採れた血はどこへともなく消えてしまったのだ。蒸発という言い方が最も正しそうで、梅によって杭が引き抜かれた頃から滴る血が異様に少なかったのだと柿李は言っていた。

 菫の元に届いた頃には掌の窪みに収まるほどに血は少なくなっていた。そして数日経つ頃には保存していた皿の底が綺麗に見えるほどに綺麗さっぱり消えてしまっていた。


「こうなると何も……」


 上司である柿李からは再びのドラガの採血を指示されている。先の問答により彼は研究棟に閉じ込めておけない運びになったことを非常に憂いていた彼女は、今のうちにドラガから取れる限りの情報を搾り取ってしまいたいようだった。だが立場ゆえに帝直属の研究機関、鳳凰局に顔を出さねばならず、呪詛を口遊みながら去っていった。

 かと言って残された平の研究員である菫に殆どできることはない。いや寝ている隙に針をドラガの指先にでも刺せばいい。しかし菫は皿を手にしてまた置いてを繰り返し、延々と躊躇っていた。ドラガがさっさと起きてしまえばいいと思い始めた頃、檻の方から物音がした。


「ここは……」

「やっと起きたわね、妖怪ドラガ」


 むくりと起き上がったドラガは這いずって檻の鉄柱を掴んだ。歯軋りを立ててぎりぎりとその手に力が込められていく。しかし柱は歪められることなくその形を保ち続けていた。


「逃げようなんて思わないでよ。大丈夫、陽ノ華が戻ればすぐ出すから」

「そうだ、陽ノ華!あいつは何故……」


 弾かれたように檻から離した手で髪を乱しながら、ドラガは悔しさと困惑の滲む顔で俯いた。


「……ああしなければ、あんたはこの研究部で飼われるか、無害化する呪を何重にもかけられる。妖怪を喰らう妖怪が力を貸してくれると預言が来た時、先ず私たちに向けてくる牙を抜くのが最優先事項だと伝えられたわ」

「全部聞いていたのか」


 俯くドラガが背を震わせる。無言で菫は首を縦に振った。

 

「陽ノ華が『代償行使』をしたことであんたへの危害があの子への危害に変わる可能性が出てしまった。『代償行使』は代償にかけたものが命に関わるものであればあるほど代わりに受ける苦痛は大きくなる、途轍もなく解除の難しい術。下手したら術者だけでなく解呪しようとした者まで膨大な被害を受ける。これは桜花仙様にとってかなりの誤算だったわ。……陽ノ華はあんたを守るためにこの術を自らの意志でかけたのよ」

「俺は何も聞いていない!」

「あんたが倒れてからあの子は術をかけたの!私の前で!」


 ドラガの吠えに堪らず菫は叫んだ。菫は顔を真っ赤にし目は潤み、小さい身体を震わせている。突然の勢いに気押されドラガは一瞬怯んだ。


「な、何度も私は止めたわ!だけど昼巫女が傷付く可能性だって減らせるからって。でも嘘も付けないだろうから、嘘にしないことしか出来ないんだって……!」


 鼻水も垂らし涙を流して菫は伝える。しゃくり上げて言葉が続かなくなるのを感じたのか一つ大きく呼吸をすると掌で目元を拭った。


「……桜花仙様はね、昼巫女たちがとても大事なの。それは昼巫女の持つ霊力が本当に貴重だから。その霊力は女性にしか宿らないし、母親から娘に受け継がれるとも限らない。もし備わったとして妖怪退治の前線に出て命を落とす者だって多い。前にある村が妖怪の襲撃にあった時、昼巫女数人と村人全員を天秤にかけたわ。結果として昼巫女助けたわ。ある意味薄情でしょう?」


 菫の声に段々と落ち着きが戻り、ふぅと深呼吸した。


「あんたが陽ノ華を殺せないと聞いてね、桜花仙様は『陽ノ華へ他の昼巫女による解呪を行い、最悪二人以上を失うか』か『解呪させないが、最悪でも陽ノ華一人の被害で終わらせられるか』を選んで、そして後者を取ったの」


 ドラガは片膝を立てて座り、いまだ悩んでいた。陽ノ華の献身が今この状況を作っている。そしてこの状況は思っていたよりまだいい方なのだろう。だがそれでも陽ノ華が責任のほぼ全てを背負い、しかもドラガの預かり知らぬところで手を回したという点が喉の小骨のようにつっかえていた。


「あいつが俺にそこまで命をかける意味が分からない。俺の首に縄が付いているとだけ言えばよかっただろうに。俺がそこまで弱く見えたのか?」

「あんたにとっては慈悲にも近いわよ。それに……」

「それに?」

「いや、これは私の推測ね。この先は陽ノ華とちゃんと話し合って頂戴」


 そう言うと菫は立ち上がった。そして少し離れた机に近寄るとある書物と小さな巾着を手にしてまた戻ってきた。


「話はこれくらいにしないと陽ノ華の前に柿李様が戻って来ちゃう。それとこれは陽ノ華からの頼まれ物。この外へ出たら懐から出していいわ」

「おう……あと、スミレ」


 ドラガの声に菫は目を丸くして見つめた。


「名前覚えてたのね……!」

「まぁな。それにお前が友人思いだとも分かった。命を懸けたことを泣いてくれるほどのな」

「そうね。……ありがと」

「腑に落ちない点はまだあるがここで俺が暴れたといって、状況がうまく運ぶ保証はない。憶測で動いて首を絞めるよりは待つことも一つの策なんだろうよ。だからお前の言うとおり、まずここを出たら陽ノ華に聞くことにする」


 頭をがしがしと掻くドラガは頭の内が少しずつ冷めていくのを感じた。眉間を細い指でこねくり回して考える。

 ドラガがかっとなってしでかした結果、牛を背負われ無理矢理寝かされ水に落とされるなど、いい目に遭ったことは殆ど無い。それを執念深く引き摺ってはいないが衝動的なドラガの対極に居るような鈍臭く臆病で理屈っぽく見えた陽ノ華が、ここまですることの価値と意味をまず知りたかった。

 菫との合流後に術をかけたとはいえ、この牢に入れられるまでの全てが陽ノ華の仕組んだ罠なのかもしれない。菫だって一枚噛んでいる可能性だってあった。だが陽ノ華の桜花仙の前での告白と菫の涙がそれを裏打ちさせない。加えてもっといい方法があっただろう、命を懸ける何かが俺にあるのか、そんな思いが邪魔をして恨みに恨めなかった。

 ドラガの収拾のつかない気持ちのやりようは一つの結論に落ち着いた。本人に聞くしかない、と。

 菫から聞いた情報を疑わず飲み込めば、未だ危険視されていてもすぐに殺す判断をしなかったのだ。首の皮一枚繋がって生存を許されている。あんな仕打ちをしておいて、と込み上げる怒りもあるがそれは一旦置いておこう。

 座り直して大きく息を吸って吐く。ここに来てからずっと早鐘を打つ鼓動が少しずつ落ち着いていくのを感じた。


「そうした方がいいと思うわ」

「あと気になってたんだが、その変な目から耳に掛けたやつは何だ?邪魔ではないのか?」

「これは眼鏡っていうの!ねぇ、それよりもあんた大丈夫?」


 途端ドラガの頭が支えを無くしたようにがくりと揺れた。視界もそれに合わせて上下がぶれる。完全にとはいかないまでも命の危機を脱した状況を理解した途端、ドラガの身体に異変が起こった。とてつもない空腹である。

 岩の牢に腹の虫の鳴く音が響き、菫が唖然とした顔でドラガを見た。しかしその反応に対して怒ることも誤魔化すことも出来なかった。


「今の音は何?もしかしてお腹空いてるの?」

「あんな場所でずっと気を張ってりゃ、体力も無くなるだろ……」

「確かに三日四日飲まず食わずなのに健康なのも不思議よね。血しかり調べたいことに事欠かないわ」

「そこで考え込むな、なんとかしろ!お前を食っても、いやそれは出来ないのか……」


 腹を押さえ込んでドラガは床に伏せた。二言三言声をかけてもうぅ、や、ぐぅとしか返さなくなったドラガに菫は危機感を覚え始めた。空腹の他人を見殺しにする善に背いた行動である。加えて陽ノ華との約束の反故、上司である柿李の命令違反にもなる。また腹の痛みがぶり返してきた。


「ち、ちょっと待ってて!何か食べ物があればいいのよね?」


 菫は椅子から跳ね上がり壁の棚という棚を見回した。研究棟で飲み食いすることは許されておらず、茶も菓子も一旦地上まで戻らないと手に入らない。いつもは鬱々しいだけの決まりがまさか命を左右するまでになるとは思わなかった。かといって昇降機に今から乗れば時間は足らないだろう。そうなると、今ここでドラガの食い物を探さなければならなかった。

 そもそもドラガは何を食うのか、と一瞬考えたが、しかし既に判明している「妖怪を食う」という事実が菫を研究棟の棚へ走らせた。

 妖怪は此処にはいないが、研究のための材料や資料として保管している妖怪由来のものは大量にあった。それこそ菫の預かり知らぬくらいまで。どれも貴重なものであるのは確かだがドラガの生存のためだと言えばまだ言い訳になるだろう。

 棚を一望する。物が多すぎて視覚からの情報ではどれが何なのか皆目見当がつかない。そも誰がどういう決まりで棚の構成を決めているのかは知らないが、手当たり次第に素早く探すしかなかった。

 菫は古びた桐箱、曇った硝子の大瓶、干された草花、積まれた本など棚に積まれたあらゆるものをひっくり返した。掠れた文字や印の跡の判読をこれほど早くできたのは過去にもない経験であった。

 ドラガにとってはやけに長く感じる時間が過ぎた後、檻に近寄る足音で閉じていた目を開けた。


「起きて!これくらいしか見つからなかったけど」


 檻の中へ入れられた菫の手を見る。掌には色褪せた雀のような生き物がいた。いや生きてはいない。乾涸びた死体である。その死体の羽は茶色と黒を混ぜた色をしており、ところどころ形容し難い肌色の模様が入っている。だがよく見ると違っていた。模様だと思っていた部分は透けて向こうが見えるようになっており、菫の掌を映している。

 普通なら鳥の羽は向こうを透かすことはない。つまりこれは虫なのだとドラガは一瞬思い込んだ。しかし羽が幾重にも重なり拡がる翼のような構造をしていることと、この翼を動かす本体の形が虫にも鳥にも見えないことが理解を阻んだ。

 あえて例えるならば鼠や蜥蜴の大きさまで縮めた猿であった。枝のように細い足は六本でも二本でもなく四本飛び出しており、背中であろう部分から翼が生えていた。飛び出した頭は丸く指先ほどしかない。目であろう部分は落ち窪んでおり、生きていた頃の面影を残していない。

 鼠も蜥蜴も食ったことのあるドラガであるが、面妖すぎるこの生き物の死体においそれと口を付けることが出来なかった。だが躊躇う間にも空腹がじりじりと命を削る。もっと良い食物は無いのか、と突っ返して待つ間に餓死するのも時間の問題であった。

 意を決してそれを引っ掴み口に放り込む。殻とも骨ともつかない硬さを噛み砕く。そして粉っぽい身と喉に張り付く羽も粉々にして一息に飲み込んだ。味を感じる暇はなかった。

 胃に入った何かの正体を聞く前に、体に満ちる力と高揚感に食ったそれが妖怪の類であることをドラガは察した。妖怪でないものを食らった時は腹こそ膨れるがそれまでである。

 礒撫を食らった時に初めて感じた指の先まで新鮮な空気と栄養を送り込まれたような力の漲りを感じ、ドラガは確信し力のままに立ち上がった。

 菫は突然息を吹き返したような溌剌としたドラガに驚き目を丸くした。


「悪くない、礼を言うぞ。ところでこれは何だ?」

夜雀よすずめ木乃伊ミイラ

「よすずめ?みいら?」

「夜雀は夜に現れる小さな妖怪。木乃伊は異国の技術で死体を乾燥させたものを言うわ」

「んん……何を研究しているのかは聞かないでおこう。だが二度と食いたくはないな」

「よかった、もっと食べたいと言われたらどうしようかと思ってたわ」


 菫はそう言い背を向けて棚に向かって歩き出す。片付けにかかろうとしてあまりの惨状に頭を抱えた。

 ふとドラガは自分の手の側面が淡い光を放っているのに気付いた。さらさらとした粉が付着しており部屋の灯りを反射している。よく見ようと目の高さまで掌を上げたその時だった。


「突然灯りを消すな!何も見えないだろうが」

「きゃっ!」


 突然の叫びに菫は飛び上がって振り向くと、檻の中で彷徨うドラガが目に入ってきた。

 動きは先程より機敏であるが、顔を四方に向け声を張り上げている。腕を何もないところに突き出しては引っ込め、壁に当たると不可解そうにぺたぺたと触り首を傾げている。


「おいどこだ!声は聞こえるから近いだろうに」

「何やってるのよ。まるで目が見えなくなったみたいに……あっ」


 菫は夜雀という妖怪の特徴を思い出した。奴等には直接人に怪我を負わせる牙や爪を持っていない。しかし夜道で羽音を立てて人を脅えさせる。加えて奴等の振り撒く羽毛または鱗粉のようなものが眼に入ると一時的に鳥目になってしまうという。

 その粉は妖怪にも効くと言われていたがまさかこんな形で確認することになろうとは。ドラガはよたよたとおぼつかない足取りで檻の中を歩き回り、時に蹴躓いている。その様子を見るに目が全く見えていないのであろう。そのうちに頭を檻に打ち付け呻きながら座り込んでしまった。

 菫は滑稽な様子にしばし気を取られていたが、研究室の扉を叩く音で正気に戻った。訪問者である。


「開けるよ〜。菫チャン」

「は、はい!」


 開かれた扉の向こうには柿李と陽ノ華が立っていた。


「陽ノ華!良かった……何ともないわよね?」

「菫、ごめんね。心配させて。私は大丈夫だよ」

「感動の再会は後だよ〜。それにしてもドラガチャンは何をしてるの?」

「えーと……どう話すべきでしょうか」


 菫は二人を部屋の中へ促し、事の詳細を話した。勿論、陽ノ華の企みは伏せてドラガが空腹を訴えたので夜雀の木乃伊を与えたというくだりだけだが。

 柿李ははぁ、とかへぇ、と心此処にない返事であった。一方の陽ノ華は呆れたと言わんばかりの表情でドラガを一瞥した。その顔はどこか悪戯の報いを受けた弟を見る姉のような、殺伐からは程遠い感情があった。

 

「多分、少しすれば治るとは思います。怪我してもすぐ治る体質のようなので」

「それで少し困る部分もあるんだけどね。菫チャン、血は採れた?」

「あっ!申し訳ありません。まだです……」


 菫の回答に陽ノ華はふと考えるそぶりを見せた。


「柿李様。ドラガの血がご入用なんですね?」

「うん。捉えた時の血は何処かへ行っちゃったからね」

「そうでしたら、私がやってみてもよろしいですか」

「いいけど。どうやって?」


 菫が問うと陽ノ華は袖から小さな小刀を出した。小刀というには刀身は中指ほどの長さしかなく、柄を含めてもぎりぎり両手に収まる大きさであった。目を引くのは磨かれた刀身に刻まれたうねる紋様である。


「梅チャンから貰ったの?過保護だねぇ〜」

「あはは……ともかくこの小刀ならいけるかと」


 そう言って陽ノ華は蹲るドラガに近付いた。

 菫は止めるべきか迷ったが柿李の眼鏡越しの目が見守れと言っており、出した手を引っ込める。

 檻の前で陽ノ華が何か声をかけるとドラガは顔を上げた。

 

「……陽ノ華か」

「腹減ってるだろうとは思ったけど何やってるのよ。目が見えなくなってるなんて予想外だわ」

「なりたくてなった訳じゃない!俺のことを言う前にお前だって……」

「ドラガ、手を出して」


 陽ノ華は檻の中に手を伸ばし、ドラガの手を取る。

 そして静かに指先に小刀を当てた。

 抵抗もなく刃先は僅かに指に埋まり赤い血の玉が現れる。刃に触れると輪郭をなぞるように赤い線が伝い、そして染み込んで刃の紋様が赤く染まっていった。


「何かしているのか?」

「大したことじゃないわ。血を貰ってる。菫へのお礼みたいなものだから、我慢して」

「何だそりゃ。研究の材料になるのか」

「そんなところよ」


 陽ノ華は小刀の紋様の隅々まで赤く染まったのを確認すると指先から刃先を離した。

 指先に小刀による傷はない。流れる血もない。


「……今は静かに。橋の上で全部話すわ」


 ドラガの手を陽ノ華は強く握り、ドラガにしか聞こえない声量で呟いた。だがその声に不安や怯えはない。

 ドラガは視えずとも真摯な眼差しでこちらを見ている陽ノ華の様子が手に取るように分かった。そして静かに笑みを浮かべ頷いた。

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