第15話⁂戦争!⁂


 日本があの恐ろしい第二次世界大戦である、敗戦に突き進む事になる前哨戦。

 

 運が味方したのか?元々頭が良い国民性なのか?

 偶然にも勝利を収める事に成功し続けた日本軍は、すっかり思い上がってしまったのだろうか?

 

 青年将校、村上の過去を紐解く上でも、戦争は欠かせない。

 そこで少しつまらないとは思うが、戦争の経緯を紹介しておこう。


 日露戦争に勝った日本は、ロシアが持っていた満州の様々な権益を、ロシアから奪った。


 この時に日本が手に入れたのが、満州にある長春〜旅順までの鉄道の経営権。


 日本は鉄道事業、南満州鉄道株式会社という会社を立ち上げた。


 その後もロシアとの交渉が続き、1910年代に入ると、ロシアが持つモンゴルの一部(内蒙古)の権益も譲り受け、日本は満州・内蒙古に多くの権益を持った。


 ところが1920年代後半から、中国側から脅かされるようになる。


 中華民国が日本に対して満蒙(満洲および内モンゴル自治区)の権益を返すよう圧力をかけ始めた。


 ロシアから権益をもらった、と言っているが、実際は満州も内蒙古(内モンゴル自治区)も中華民国の領地。返還を求めるのは当たり前の事。


 中華民国は、1912年の辛亥革命で滅びた清国に代わって、新しく建国された国。


 日本は、満蒙に権益を持つことを清国に渋々認めさせていたが、清国が滅びたことでこの話は白紙となった。そこで日本は、中華民国に対して、改めて「日本が満蒙の権益を持つこと」を認めさせようとした。


「中華民国が文句を言えないよう強引に満蒙の権益に触れないよう約束させてみせる!」

 こうして、中華民国に対して突きつけた要求が、二十一ヶ条の要求。


 中華民国がこの要求を受け入れたので、日本は中華民国に対しても満蒙の権益を認めさせることに成功。


 日本は中華民国と対等な外交交渉を行わず上から目線で、二十一ヶ条の要求の中には無理難題な内容もあるのだが、強引に要求を受け入れさせた。


 日本のムチャクチャなやり口に、反日感情が加速して、やがて二十一ヶ条の要求への反発が、「満蒙の権益を日本から取り戻せ!」という考えのきっかけとなっていく。


 出来たてホヤホヤの中華民国では国を大きく南北に分けた内紛状態だった。


 当時、中華民国では、北京に政府を置く北京政府と、南方に拠点を置いていた孫文が激しく対立。


 さらに1916年、北京政府をまとめていた(袁世凱、えんせいがい)が亡くなると、北京政府内で軍事派閥同士の争いが激化。



 北京政府VS孫文の争いに、北京政府の軍閥争いも加わり、中華民国の情勢は益々悪化。

 日本は、これは千載一遇のチャンスそう思い、軍閥のどちらかに応援と支援を約束。

 そして『満蒙の権益については一切触れるなよ!』と持ちかけた!


 この日本の目論見は成功。


 北京政府は、いくつかの軍閥が集まって組織されていたが、その政府内で大きな力を持っていたのが奉天派軍閥だった。


 軍閥は日本のことを快く思っていなかったが、内紛に勝ち残るため日本に接近する道を選んだ。


 

 満蒙とは、満州およびモンゴル(主に内蒙古)のこと。

 日露戦争後、この地域の資源確保と、ソ連および中国勢力の排除が、日本の生命線になった。

 ここが怪しくなることが「満蒙の危機」であり、それを打開したのが「満州国建国」だった。


 ◆▽◆

 日本では1923年に関東大震災が発生して日本の金融業界は、支払い不能となった「震災手形」が不良債権となり、経営不振に見舞われ社会不安が増して行き、日本軍は「大陸進出で侵略をすれば不景気から脱却できる」と考えた


 満州事変が起きた当時は、中華民国内の政治が混乱期にあった。

 1012年~1928年まで北京に存在していた中華民国政府「北京政府」と中国国民党による国軍である国民革命軍が対立。

 この内戦により、満州事変勃発に拍車をかけたと言われている。


 日本の関東軍は、政治家であり奉天派とよばれる満州で力を持つ張作霖(ちょう さくりん)を支援する形で利用して、満州支配を強めようとしていた。

 一方の張作霖は日本に対して協力的ではなかった。


 この軍閥「奉天軍閥」の指導者、張作霖が1928年、国民党の北伐に敗れる。

 力を失った張作霖に利用価値がないと判断した関東軍の参謀、河本大作らは、張作霖が満州に戻る際、現在の奉天駅近くで張作霖が乗った列車を爆破、張作霖を暗殺した。


 当時は、国民党の工作隊の仕業と見せかける偽装工作を行っていたのだが、後に関東軍によるものだと分った。



【関東軍:ロシア帝国から譲渡された南満州鉄道事業の保護や、中華民国からの租借地である遼東半島先端の関東州の利権を守るための大日本帝国の軍隊

 国民党の北伐:国民革命軍が北京政府を倒し、中国国民党による全国の統一を目指した戦争】


 柳条湖(りゅうじょうこ)事件は、1931年に南満州鉄道の線路が爆破された事件。これは9月18日に起きたため、「9.18事件」とも呼ばれている。

 日本の関東軍が 柳条湖と呼ばれる場所付近に爆薬を仕掛けて爆発させ、これを中国軍が行ったものとして、近くの中国軍営を攻撃した。


 関東軍による自作自演の爆発だったのだが、このことや 張作霖爆殺事件がきっかけとなり、満州事変に発展していく。


 張作霖爆殺事件と柳条湖事件によって、突入した満州事変。ここから関東軍が暴走し、満州国が建国された。


 関東軍が張作霖爆殺事件や柳条湖事件を起こしたのは、日本側が満州を占領したかったからなのだが、これらの張作霖爆殺事件や柳条湖事件を起こしたのは中国軍によるものと主張し、軍事行動を起こした。

 要は、日本側が占領するためだけに軍事行動をおこせば、侵略行為となってしまうからだ。

 

 日本政府は平和的に解決しようと努めていたといわれているが、結果として、関東軍の自作自演によって満州を占領した事実が明るみとなり、日本の内閣は総辞職に追い込まれた。

 満州事変を決行したのが、関東軍作戦参謀石原莞爾と板垣征四郎。首謀者の彼らは満州事変を起こし、満州を日本の領土とすることを目的としていた。


 しかし世界からの激しい反対が起こり、形式的には独立しているが実際は他国によって操られる傀儡政権(かいらいせいけん)の「満州国」建国に乗り出した。そして清王朝最後の皇帝・溥儀を満州国の元首にさせ、1932年9月15日、日本は満州国政府との間で日満議定書に調印し、満州国を正式に承認した。



 もともと関東軍は満州国の承認を日本政府に迫っていたのに対し、犬養首相は満州国の承認に反対の姿勢を示していた。


 首相は「満州国の形式的領有権は中国にあるとしつつ、実質的には日本の経済的支配下に満州を置く」外交交渉で解決しようとしていた。

それに反発した海軍将校が暗殺計画を立てた。


 五・一五事件

 1932年5月15日、武装した海軍将校たちが総理大臣官邸に乱入し、犬養毅内閣総理大臣を殺害。

 これが「五・一五事件」


 満州国を承認したのは、犬養内閣の次の斉藤内閣だった。


 軍人達の派閥争いや権力争いと、軍部の青年将校たちによる暴走で日本は破滅へと突き進んで行く事となった。


 ◆▽◆

 話は1920年頃まで遡る。


 1920年頃、陸軍を裏で支配していた人物陸軍出身の元老、山県有朋(やまがたありとも)は、長州出身者を中心に自らの息のかかった軍人・官僚を要職につけ、長州閥を作る。


 だが、陸軍の中には長州閥に反感を持つ者も多かった。

 その代表人物の一人が(ながたてつざん)だった。


 永田鉄山は陸軍随一の秀才で、1920年当時は将来有望な中堅としてヨーロッパに海外赴任をした。


 1921年、永田鉄山は、ドイツで同志たちと会い、長州閥を倒して軍を改革することを密約。


 この密約の内容は、次のようなもの。


 ◆国家を外敵から守るため、既得権益(以前から取得し、維持している利益)だらけの長州閥を陸軍から駆逐して、荒木貞夫あらきさだお・真崎甚三郎まざきじんざぶろうなどの有望な人物を要職に就ける


 ◆将来の戦争に備え、軍の近代化を進め、国家が総動員して敵と戦える体制作り。

 ◆満蒙の危機を早期に解決する。


 荒木貞夫・真崎甚三郎はのちに皇道派。

 永田鉄山はのちに統制派に属することになる重要人物。


 1920年代の頃はまだ、日本のため軍や国を変えようとしていた同志だった。


 皇道派・統制派が登場した経過

 だが残念な事に1922年、山県有朋が亡くなると、田中義一が受け継ぎ、1925年になると、次は(うがきかずしげ)という人物が長州閥を受け継ぐ。


 宇垣一成は、陸軍の主要ポストを自らの派閥(宇垣閥)で固め、体制を盤石なものに整える。


 永田鉄山ら軍部改革を目指す同志たちが、最初の標的にしたのが、宇垣閥。



 三月事件は、陸軍のはしもときんごろうを中心とした一部グループ(桜会さくらかい)によるクーデター未遂事件。


 1929年、軍の改革を目指す永田鉄山ら同志たちは一夕会(いっせきかい)という会を結成し、宇垣閥に抵抗する。


 一夕会は、人事への圧力でジワリジワリと同志を要職に就けることに成功していたが、1931年3月、大きな事件が起こる。


 それが三月事件。

 三月事件は、陸軍の橋本欣五郎を中心とした一部グループ(桜会さくらかい)によるクーデター未遂事件。

 この、「桜会」のメンバーは、1925年、関東大震災の影響を受けて「軍縮」を実行した「宇垣一成」という当時の陸軍大臣を担ぎ出す作戦。

 事件そのものは未遂に終わったが、そのクーデター計画によれば、クーデター成功の暁には当時陸軍大臣だった宇垣一成が首相となり、軍事政権を樹立する予定とされていた。



 三月事件・十月事件【橋本欣五郎・大川周明によるクーデター未遂事件】


 宇垣は、クーデターへの関与を疑われたことで大臣としての信用を失い、1931年4月、浜口内閣の解散に合わせて陸軍大臣を辞任する。


 一夕会はこのチャンスを利用して、陸軍の宇垣閥を一掃。


 満州事変前夜の1931年9月には、陸軍の主要ポストのほとんどを一夕会で占めた。


 永田鉄山らが1921年に掲げた密約のうち、長州閥(1931年当時は宇垣閥)の排除がようやく成功した。

 だが皇道派VS統制統制派に分裂する。


 要するに上層部、主要人物による権力争い。



 ◆▽◆


 皇道派

 既存の国家体制を破壊し、天皇親政による軍事政権樹立を目指す

 主要人物:荒木貞夫・真崎甚三郎


 統制派

 既存の国家体制を活かしながら、合法的な軍事政権樹立を目指す。

 主要人物:永田鉄山・東條英機


 皇道派VS統制派のまとめ

 1921年*永田鉄山、同志と軍・国家の改革を決意

 1929年3月*同士メンバーが一夕会の結成

 当時は、永田・荒木・真崎・東條たちは同じ目標を目指す同志だった。


 1931年3月*三月事件で陸軍大臣の宇垣一成が失脚


 1931年12月*荒木貞夫が陸軍大臣に就任

 一夕会メンバーの中で意見対立が起こる。


 1933年6月*永田鉄山、皇道派に異論を唱え、皇道派VS統制派の争いが色濃くなる。

 1934年1月*皇道派の荒木貞夫が、陸軍大臣から失脚する

 1935年7月*皇道派のエースだった真崎甚三郎が、統制派の策略で要職を失う

 この時点で、陸軍内の要職は統制派で占められ、皇道派は力を失う。


 1935年8月*真崎の失脚に激怒した皇道派の青年によって、統制派の主導者だった永田が殺害される(相沢事件)

 1936年2月*二・二六事件

 追い詰められた皇道派が国家改革を実行。要人数名を殺害するも、4日で鎮圧され失敗。

 皇道派は総崩れとなり、二・二六事件以後、陸軍は統制派が支配することになる。


 いつの時代も強い志を胸に突き進むのだろうが、いつの間にか、正義という名の暴走と己の権力欲に目が眩んで、暴走してしまうのだろうか………?





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