#6:君死にたまうことなかれ

 樺太紛争の展示エリアを抜けると、従来展示してあった第二次大戦のエリアに移る。ここは、前に来たとき一度目にしている。内容に大きな変化はない。

 道中、ちらりと後ろを見る。ホテルから尾行してきている男はまだ張り付いている。人が少ないから目立つのだが……。連中、本当に尾行は素人のようだな。

 樺太紛争の展示エリアでは、純粋にどのような戦闘があったのかを紹介する内容が多かった。そこに自国の兵士の勇猛さを持ち上げ、敵国兵士の愚かさをあげつらうような側面はあったものの、まあ戦争直後の展示なんてそんなものだろうという気もする。靖国じゃなくても、樺太紛争について展示すれば似たようなニュアンスになりそうなものだ。

 だが第二次大戦――特に太平洋戦争の内容を紹介するエリアに展示されているのは、多くが戦争の悲惨さを物語る資料だった。大半は特攻兵器と、それに乗ることになった若者たちについての展示である。

 神風特攻隊。桜花、伏龍……。太平洋戦争末期の日本は、人を使い捨てにする戦術の運用が当然のようになされてきた。資源に乏しく、国民が一番の資源と表現されることも稀でない日本らしいと言えば、らしいと表現できるのかもしれない。やっていることは八十年近く経った今でも、大して変わらないことだし。

 こうした特攻戦術の、純粋な戦術的価値がどの程度なのか俺には分からないが、それを議論するだけ意味がないだろう。人を使い捨てにしている時点で戦略としては下の下なのだから、それの純粋な戦略的価値など図りようもない。演者への暴力を働いて撮影された映像作品の「純粋な作品としての評価」を議論するくらい無意味なものだ。

「こんなことがあって、まだ百年経ってないんだね」

「そうだな。そして平和は百年持たなかったともいえる」

 第二次大戦以降に戦争が起きていないという発想は、それこそ欧米史観というやつだ。バルカン半島を火薬庫なんて表現するが、それを言い出したら地球上で戦争が起きていない地域などあるだろうか。アフリカでも中東でも戦争しているくせに、いざ東欧で戦争が起きれば「平和が破られた」と考えるのは欺瞞だ。

 とはいえ、遠くの戦場に想いを馳せるのが難しいのも事実。太平洋戦争後から樺太紛争まで、日本でも近くで朝鮮戦争はあったし中東派遣もあったが「平和だなあ」と俺たちは考えていた。樺太紛争が起きて初めて、戦後の平和が破られたような気分になっていた。そんなもんといえばそんなもんで、それ自体はしょうがない気もするのだ。

 でもその「しょうがない」は、マチルダみたいな人間を切り捨てた先にある安穏とした虚脱感だ。少なくとも彼女を引き取った俺には、呑気にそう感じる暇はもうない。

 他人事ではいられなくなってしまった。俺はそれを、自分で選んだのだから。

「本当に、すごいね」

 青柳は呟く。

「命を懸けて国を守ろうとした人がいるんだ。想像できないよ。でも……鈴郎も同じように思っていたのかな」

「姉として心配になるか?」

「うーん。ちょっと誇らしい?」

「そんなもんかな」

 俺には兄二人がいるが分からない感覚だ。どっちも戦場に赴くような勇猛さとは無縁だ。俺はむしろさっさと死ねと思っているので戦場にでも行ってくれれば清々するが。しかし結局、銃を握っているのは俺の方だ。

 弟ってのは常に、兄の割を食わされる生き物だからな。

 そのとき、ポケットのスマホが振動する。

 着信があったのだ。

 青柳は先に進んでいく。俺はそれを横目に見ながら、スマホを取り出した。着信は赤貝からのメッセージで、どうやら件の、鈴郎の置手紙を写真に撮って送ってくれたらしい。役に立つ男だ。

 青柳を呼んで彼女にも見てもらおうとかと思ったが、なんとなくまず自分で確認してみることにした。メッセージを開き、そこに投稿された写真をタップして拡大する。

 手紙は便箋に手書きで書かれていた。男の、しかも兵士となれば粗野なイメージがあるものだが、鈴郎の字は読みやすかった。けっして綺麗と評価できるほどに形は整っていないが、読むのに苦労はないはっきりとした字で書かれている。

 手紙を読んでいく。まず書かれていたのは、自分が脱柵するという旨のことだった。これ以上軍隊にいることができず、一刻も早く逃げ出したくなったということがきちんと記されていた。なるほどこれは脱柵で間違いなく、事件や事故に巻き込まれたための行方不明でないというのは事実のようだ。

 次には軍に迷惑をかけて申し訳ないと謝罪が書かれている。探さないでくれとも書かれていたが、それは無理な相談なわけで今こうして大勢が動く羽目になったのだが……。鈴郎もそれは理解しているようだ。

 ここまではいい。想定された内容に過ぎない。問題は脱柵の動機だ。それ次第ではこちらの動きも変えざるをえないのだが……。

「なるほどな」

 思わず呟く。鈴郎の脱柵の動機は、その一端が明白に言語化されていた。

 すなわち「これ以上、敵であろうと幼い人の未来を奪うことはできない」。

 ただ、言語化されていることは理解できることを意味しない。そりゃあ、大雑把には把握できるが……。完全に理解できたとも言い難い。

 幼い人の未来……。ひょっとすると、そういうことか?

 だとすれば、鈴郎がどういう志で軍に入ったにせよ、心が折れて戦うことを諦めるのも分かるというものだ。かなりポピュラーな理由でむしろ安心した。これでそれこそ「政治や軍の弱腰が見てられなくて抗議する!」とか書かれていたら困惑していたところだ。

 しかし……動機が見えてもそれは鈴郎の居場所を特定する手掛かりにはならない。政治的な動機ならそこからつるんでいるだろう連中をあぶりだすこともできた――そういう意味では困惑するよりむしろ助かる――が、きわめて個人的な理由による出奔となると難しい。強固な意志に基づく計画的逃亡なのか、限界を超えたために衝動的に飛び出したのかの区別もつかない。置手紙を残していることは、行為の衝動性を推察する要素にはならない。自殺者だってどういう心境であれ遺書は残すのだからな。

 もし計画的に逃亡を企てていたのなら、探すのは困難だ。一か月を逃げ切れると鈴郎が一定程度の自信を持って行動しているわけだからな。強固な意志を持っているやつは、目的を達成するために何でもする。それこそ下水に隠れていても驚かない。だが逆に突発的な出奔だとすると、計画性がないために逃亡には限界がある。「一か月間逃げ切る」という脱柵における目標すら共有できていない可能性すらあるのだ。そうなると国防軍の素人捜査でも発見は容易だろう。急ぐ必要が出てくる。

 それにしても……。どうして鈴郎は正規の手続きを踏んで軍を辞めるのではなく、脱柵を選んだのか。限界を迎えての逃亡ならまあ、手続きを踏む余裕すらなかったということで納得できるが……。計画性があるのなら、普通に辞めるのではなく脱柵した方が都合がいいと考える何かがあったはずだ。

 まさかブラック企業みたいに辞められなかった……ということは、ないと思うが……。特に樺太紛争にまで参加した兵士が辞するのを強制的に留め置くのは無理だろう。軍内でも人望の厚かったらしい鈴郎にそんな扱いをすれば組織の維持に問題が生じかねない。連中がいくら戦争大好き集団ウォーモンガーでも、組織を運営する上でできることとできないことはある。

 まあそこでできないことを無理にやっちゃうからブラックなんだがな。

「…………ん?」

 と、そこで、手紙に続きがあるのに気づく。拡大した際に見切れてしまっていて見逃していたらしい。指でスライドして内容を確認する。

『姐さんには知らせないでくれ。

「……………………………………な」

 殺される。

 殺される?

 どういう、ことだ?

 唐突に目に飛び込んできた文言に思考が停止する。殺される。分かる。日本語は分かる。だが言語化されていることは理解できることを意味しない。殺される。言いたいことは分かるが、それは理解できない。殺される。姉に……青柳に殺されるというのか?

 なぜ?

 殺される?

 だが殺されるというのなら鈴郎が脱柵を選んだ理由も推測できる。軍を抜けた時点で殺されると仮定するなら、彼が生きる道は脱柵し行方をくらませることしかない。正規の手続きを踏んでも殺されるなら意味がないちょっと待て。なぜそうなる? 確かにそう推定するなら辻褄は合うが辻褄が合うというだけだ。今度は青柳が鈴郎を殺す動機が分からなくなる。なぜ殺す必要がある。

 なにか。

 俺は何かを見落としているのではないか?

 いや、見落としているなんて不慮の事故みたいなものではなく。

 見ないようにしているのか?

 影本の件で乗り気になれなかったために想像力を欠いたのとは似ているようで違う。あのときより俺はもっと積極的に、何かを無視しているのではないか。

 マチルダの声がぐるぐると頭を回る。銃。護身用の銃。銃は人を殺すもの。何かを殺すために持っているもの。

 いや。それは符号がただ合致しただけだ。偶然に過ぎない。銃を持っていることなど、今の日本じゃ当たり前だ。そこに鈴郎の置手紙の内容が偶然重なっただけ。

 どのみち、動機が分からない。

 姉が弟を殺すなど。いや、俺は機会があれば兄たちを殺していてもおかしくないくらいに不仲だが、あの兄妹は違うはず。そうでなければわざわざ東京まで探しに来るなど……。

「どうしたの?」

 俺の思考は、青柳の言葉で現実に引き戻される。

「ん? ああ、いや、なんでも」

 いずれにせよ、この手紙を青柳には見せない方がいいだろう。弟が姉に殺されると思い込んでいるなど、彼女に見せても混乱させるだけだ。

「何かメールが来てたの?」

 ふっと。

 彼女は体を寄せてきた。

 肩と肩が触れるほどに近かった。俺は一歩引こうとしたが、足が動かない。その場で固まるしかなかった。

「……ちょっとな。マチルダからの定時連絡みたいなものだ」

「ふうん」

 適当にごまかす。青柳は体を離した。硬直は解かれる。

 展示を先に進んでいく。

「このあたりは、昔来たときとあまり変わっていないな。配置は樺太紛争の展示を増やした影響で動いてはいるけど」

 混乱と動揺を隠すために、いきおい饒舌になる。

「そうなんだ。そういえば昔一度来たことあるって言ってたよね」

 青柳はそんな俺の様子を特に不自然とは思わなかったようだ。

「理三郎くんって、あまりこういうの興味ないと思ってた」

「そうか?」

「そうだよ。覚えてる? 中学のとき、国防軍の人が学校に来て特別授業してくれたよね。男子はみんな興味津々だったけど。理三郎くんは退屈そうにしてた」

「どうだったかな。覚えていない」

 俺が中学生の頃というのは、自衛隊が国防軍に改編されてすぐの時代だから、隊員確保のために全国の小中学校で特別授業をしていたはずだ。それは覚えているというか、そういうことがあったのは知っている。少なくとも俺の地元には「生徒を戦場に送るな」と抗議するいわゆる「日教組」的な教員はほとんど見なかったことだし……。

 覚えていないということは興味がなかったんだろう。

「結局、誰も国防軍には行かなかったね」

「興味があるのと、いざ軍に志願するのには距離があるからな」

「だから理三郎くんがPMCで仕事しているなんてびっくりしちゃった。他のみんなもきっと驚くよ」

「驚かれてもどうしようもない」

 軍に入らずに済んだということは、銃を持たずに済んだということは、なんだかんだ連中は仕事を見つけられなくて苦労しなかったということだろう。銃を持つのは職がなく、命を張る以外に生きる道のないやつの仕事と相場は決まっている。ロシアでも東欧戦争の戦死者の多くが片田舎の貧困層出身だったという国連の調査もあるし、どこの国も似たようなもんだ。

 そう思うと、やっていられなくなる。俺は学校の成績は良かった。中学でも高校でも。大学もそれなりにいいところへ入ったのに、なぜか就職だけはできなかった。学校の成績と社会に出て仕事をすることの間に必ずしも関係があるわけではないというのは理解している。だが、自分より馬鹿で短絡的なやつらは仕事をして生計を立てるのに苦労していないのに、俺は月に二十万にも満たない薄給で四苦八苦しているのかと思うとどうにも嫌な気分になる。

 人を馬鹿にして見下していると言われればそれまでだが。しかし子どものころから真面目に勉強してきたのに、馬鹿やって適当に過ごしてきたやつより生きるのに苦労しているとなれば悪罵のひとつも吐き出したくなる。

「でもなんで独立して探偵になったの?」

「相棒に誘われたからな。それがなかったら、今でもPJ社で下働きしていたかもしれん」

「相棒……。どんな人?」

「変なやつだよ。……そういえば、初めてあいつと会ったのはここだったな」

「靖国で? 確かに、変わった出会いかも」

 気づくと、俺は自分の手首にある鎖の刺青を指でなぞっていた。正確には、刺青で隠した傷跡を触っている。

 この傷ができた後だったな。あいつと会ったのは。

「いろいろあって、不意にここへ来たんだ。そこで今みたいに、太平洋戦争で死んだ人たちの展示を見ていると、少しずつ、死ぬことが愚かしいことだと思うようになった」

「死ぬことが?」

「生きるべきか死ぬべきか。そう考える時期があったんだよ。周囲のみんなは普通に就職して普通に給料もらって生きているのに、自分はみんなと同じように生きているはずなのに同じように生きられない。それがたまらなく嫌になっていた」

 正確には、それだけが理由じゃない。希死念慮は引き金を引くみたいに、何かひとつのおおきな出来事で抱くようになるものではない。言葉にすることもできないくらい些細なことの積み重ねが、死んだほうがいいかもしれないという気持ちを作り上げていく。

 そして気づいたら死んでいる。ホームドアがないとそういうことになる。

 一度死のうとしてなぜか死ねず、生き延びてしかしまだ死ぬべきかもしれないという気持ちが残っているときに、ここへ来てあいつと出会った。

 人生に悲劇的はあっても劇的はない。だが唯一、あいつだけは例外だ。そういう、人生の範疇を超えた男だった。

「死ぬことが愚かしいことだと思うようになったって言ったけど」

 青柳が聞く。

「どうしてそう思ったの? 国のために死ぬ人たちを見て、自分にも何かできるんじゃないかって思った?」

「いや」

 不思議と。

 言葉は濁らなかった。

 それは俺の気持ちでもあるが、あいつの言ったことでもあるからだ。

「死にたくないのに死んで、死ねば愛国者の腹話術人形なんて嫌な人生だなと思ったんだよ」

「…………」

「死人に口なしだ。俺が死んでも俺を死に追い込んだやつらは後悔しない。どころか、俺の死を利用して悲しんだふりして被害者ぶるのがオチだと、ここに来てそう思ったんだ。だったら生きてやるさ。たとえ生きていると迷惑だからぜひ死んでくれと言われても、俺は迷惑をかけながらでも生きてやると思ったんだ」

「それは…………」

 彼女が何を思ったのかは分からない。ただ何かを言おうとしたが、俺はそれを結果的に遮ることとなった。

「……ちょっと待ってくれ」

 動きがあった。

 俺たちを尾行していた男がスマホを取り出す。何かのメッセージを受け取ったらしい。そして、俺たちの尾行を中断してどこかへ行こうとする。

「尾行していたやつがどこかへ向かおうとしている」

「それって……」

「鈴郎くんの居所に当たりがついた可能性もあるな。先を越されたか?」

「ど、どうしたら……」

「俺があいつの後を追う。こうなったら出し抜いてギリギリをかっさらうしかない」

「あたしも……」

「いや……」

 一瞬、考える。鈴郎を説得するのに身内がいた方が話が早いのは間違いない。だが……どうしても手紙が気にかかる。

「青柳さんはホテルに戻っていてくれ。俺が彼を連れてくる」

「そう……分かった、待ってる」

 俺は彼女を置いて、尾行を開始する。

 場合によっては、かなり際どい勝負になると覚悟して。

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