涼風と陽炎

「だぁあああッちくしょう、なんだこの暑さは——ッ!」


 頭に白タオルの鉢巻き、黒の七分丈クロップドパンツを履いた半裸の真壁康介まかべこうすけは滝の様に汗を流しながら、自宅のリビングで大声を上げていた。


 壁に置かれているデジタル時計が表示している室温は44℃、湿度は75%。見るのも暑苦しい数値なのも当然で、康介の家は現在エアコンが故障中なのである。


「……はよ来いよ、業者ぁあ……」


 扇風機ではどうにもならない熱気に苦悶の表情を浮かべる康介は、スマホを見つめる。この暑さでは端末も鉄板の様に熱く、指を置いていられない画面には、母親からのメッセージやり取りが積み重なっている。


【今日十一時頃、エアコン業者が来るから家で待っててくれない? お父さんも私も、仕事を外す訳にもいかないし】


【休みだから待ってんのは良いけどよ、業者が来る前に俺が熱中症で死ぬぞ!】


【だから、由衣ちゃんの家で涼んだら良いじゃない。到着したら、業者さんもコーちゃんの携帯に電話入れてくれるって話だし】


 そこまで読み返した康介は、ぐだー……と、リビングのソファーに倒れ込んだ。この暑さで、今すぐにでもプールや涼しい公共施設に駆け込みたいだろう。しかし康介は、来客に備える為にこうしてジッと大人しく待つ他無いのだ。


「くっそぉ……暑苦しいのに、めちゃくちゃ眠い……朝までイソップ寓話を一気読みするんじゃなかった……」


 絵本作家志望の熱意が寝不足として裏目に出て、彼のコンディションは最悪だった。暑さと眠気で頭痛がしてきた康介はむくりと身体を起こし、リビングの窓から見えるお隣さんを見つめる。


 そこは同年の幼馴染、樋口由衣ひぐちゆいの家である。母親が言うように、事情を話して素直に彼女の家の世話になれば、この猛暑地獄から今すぐ抜け出せる。


「でも由衣はこの後、学童ボランティアで留守にするしなぁ……母さんも、ノリで家に上がれるだろって思ってんじゃねぇよぅ……」


 力尽きた様に、康介はソファーに顔を埋めた。両親共働きという事情をお互いに理解し合っている幼馴染と言えど、同い年の男子を自宅に置いて出かける事を年頃の女子が安易に許すだろうか。下心を疑われる他ないだろう。


「……くそ、形振なりふり構ってられん……」


 暑さと眠気に我慢の限界を迎えた康介は、深刻度を強める為に、メッセージのやり取りではなく通話を試みるが、直ぐに彼女と繋がった。


『——もしもし? どうしたの康介。いきなり電話してくるなんて、珍しいね』


「……あのさ、由衣ってもうすぐ——出かけたりします……かね?」


『そうだよ、いつもの学童ボランティアの時間だし。いま玄関にいる所なんだけど、それが何?』


「あのう……そちらのお宅に、今からお邪魔しても……いいッスか?」


『はあ?』


 由衣の冷たい一言に、康介の背が一瞬凍るが彼を襲う熱波が一瞬で溶かす。もはや暑さで、思考回路はまともに機能していなかった。


「ほらあ……由衣もさあ、俺ん家によく勝手に上がるやん? なら、俺も由衣ん家に勝手に上がっても……万事オッケーじゃないでしょうか?」


『何言ってんの? 康介を家に置いて出かけられるわけないでしょ』


「えっとですね……俺ん家、エアコンぶっ壊れてるんで、そちらのお宅で涼ませて欲しいなあ……って」


『無理だから。他の家当たってよ』


「俺には……友達がいねぇから……」


『ウソつかないで。木之下きのしたさんがいる美術部だけじゃなくて、河野かわのさんがいる文芸部……それに写真部、演劇部——昔遊び同好会にも顔が利くの、私は知ってるんだから。それ全部、絵本作りの為でしょ』


「うぐ……何で由衣がそこまで知ってんだ⁉︎」


『そんなに暑いなら、プールにでも行けばいいじゃん』


「そういう訳にもいかねぇんだよう……」


『ていうかエアコンに頼り過ぎてるから、そんな風に我慢できないんじゃん。扇風機に保冷剤くっ付けたりさ——』


 聞き慣れた強気な由衣の言い分に耳を傾けていられない程に、強烈な熱気と寝不足で康介の意識は朦朧としていた。耳元に由衣の声が聞こえてくるが、もう反論する体力が尽きている。


「……わかった、自分でなんとか……するって」


『そうしてよ。あ! 私の家のスペアキー使ったら許さ——ッ』


 これ以上言葉が出てこない康介は、ピロンッと由衣との通話を一方的に切った。最後の裏技であるスペアキーに関しても予防線を張られ、康介はスマホをボトッとソファーから落とす。


「……玄関の植え込み……の、根元に……」


 無理矢理由衣の家に上がり込む強硬手段に走ろうとしたが、康介は立ち上がれず、ドバタァンッッとリビングの床に倒れ込んだ。


「くそ……気持ちわりぃ……頭クラクラする……」


 康介の視界は、立ちこめる陽炎の様に揺らめいていて平衡感覚を保てない。開けた窓からは強い日差し込み、熱風が吹き込む扇風機を見つめた彼の頭にある事が過ぎった。


「……こんな時……北風が吹いてくれりゃあな……」


 それは、寝不足の原因になったイソップ寓話の一つ『北風と太陽』だった。彼は行き倒れた旅人の様にうつ伏せ状態のまま、ボーッとしている頭でその絵本の事を考えた、苦痛からどうしても逃れたかったのだろう。


「北風と太陽は……ライバル意識で——どちらが、旅人の上着を脱がせられるか……勝負を————した」



 ——先ず、北風はぴゅううと力いっぱい風を吹かせて、上着を吹き飛ばそうとした。しかし旅人は寒がり、脱がせる事が出来なかった——。


 ——次に太陽がサンサンと照り付けると、暑くなった旅人は自分から上着を脱いだ。勝負の行方は、太陽の勝ちで幕を閉じる——。



「この絵本は——人の心は、思い通りにいかない……事を……描いている——イソップ寓話は……教訓と風刺の——ほう…………ッ」


 声を出しながら、康介は身体を起こそうと腕に力を入れるが、こもった熱により体温調節が狂い始め、再びリビングの床に倒れた。もう自力で、身体を動かせる状態ではない。


「……俺も…………そんな、絵本を——……描き…………」


 虚ろな目で、康介は床を見つめる。極限状態の康介の視界に、昨日夢中で読み耽った切り絵状の北風雲と太陽のキャラクターが入ってきた。——幻覚症状である。


「マジで……思い通りに……いかねぇな……人の心……って…………」


 康介はその言葉を振り絞った後、北風雲に自身を重ね、太陽に由衣を重ねた。幼馴染であり、子供に好かれる大人をお互い目指そうという競争意識でここまで、共に過ごしてきた。


 しかし康介の中には、コンプレックスがあった。由衣に自慢出来る絵本は、今になっても出せない。日々ネタ集めに熱を注ぐが、結果が付いてこない。全て勢い任せだ、まるで乱暴な北風のように。


 一方の由衣は、無理なく保育士への道へ進んでいた。受験にしっかり備え、ピアノのレッスンや学童ボランティアを通じて、児童福祉に求められるスキルを日々磨いている。まるで着実な太陽のように。


 康介のまぶたは重みを増し、ゆっくりと閉じていく。幼馴染で好敵手でも、由衣にとっては隣に住む、彼氏でもなんでもない男止まり。そんな、敗北感で自身を押し潰して——康介の意識は、今にも飛んでしまいそうだった。


 完全に視界が暗闇になる瞬間、突然突風が吹き抜ける。肌でそれを感じた康介は、ゆっくりまぶたを開いた。そこには異様な光景が……否、幻覚が広がっていた。


 なんと由衣を重ねた太陽から、風がぴゅううと吹いてくるのだ。着ている服を全て吹き飛ばしてしまいそうな風。身体の体温を全て奪い去ってしまいそうな、寒い寒い風。



(……んだよ……それ…………)


 あり得ない光景に、突風によって目が乾燥した錯覚を受けた康介は完全にまぶたを閉じた。太陽が冷たい風を吹く。……御伽噺おとぎばなしみたいな、幻想的な、現実。


 一瞬暗闇に閉ざされた康介だったが、次第に感覚から意識を取り戻す。未だに身体に風が吹き付けていて、部分的に氷に抱かれる様な冷感が脳に伝達する。


(あ……れ…………?)


 康介は思考がハッキリしてきてゆっくりまぶたを開いた。しかし視界は相変わらず陽炎の様なモヤがかかってハッキリしない。


「……康介こうすけッ!」


 その声に反応する様に、康介は瞬きして視界を正そうとする。いつの間にか彼は、仰向けに寝かされていた。鼻呼吸のし辛さ、首元と下半身の異様な冷感。一つ一つ状況を感覚で整頓していると、スマホを右耳に添えながら見下げてくる人影が。


「……ゆ……い、……由衣……?」


「康介? ……康介ッ! 加藤先生ッ康介、今起きた、起きたよぅ! ちょっと大丈夫⁉︎」


 不安気な表情で両膝を床に付けて、スマホで状況報告しながら覗き込む由衣が視界を埋めている。康介は未だに、頭がボーッとしたままだった。もっと自身の状況を把握する為、ゆっくりと身体を起こした。


「——なんで……由衣が、ここにいるんだよ……? ……お前、ボランティアは……どうした……?」


「……。途中まで向かってたけど——余りにも外が暑くて、胸騒ぎがしたから、戻ってきたんだよ!」


「はぁ? ……んだよ、結局またお前は勝手に俺ん家に上が——……。……んぅッ⁉︎」


 次第に状況を把握してきた康介は、まずは最初からずっと違和感があった鼻に詰められたティッシュを取り除く。熱中症の要因による鼻血を、それが止めていたようだ。


 その後直ぐに気付いたある事実に、康介は目を疑った。唯一身に纏っていた黒の七分丈クロップドパンツがまでずり落ちているのだ。そのせいで愛用している、オオカミ柄のゆったり系紺色ボクサーパンツが、こんにちはしている。


「ぉわあぁ————ッ⁉︎ な、なん……ッ?」


 信じられない光景に慌ててズボンを履こうとしたが、理由はすぐに分かった。足の付け根、鼠蹊部そけいぶにタオルに巻かれたアイスノンが巻き付いている。意味を分かっていながらも、康介はギョッと後ろにいる由衣に振り向いた。


「……応急処置! 身体冷やす為だから!」


 顔が熱いのか、由衣は手で顔を扇ぎながら、目を逸らしてそう言った。康介の周りには布に巻かれた保冷剤や、氷枕が転がっている。上がり過ぎた体温を下げる為に、康介にクーリングを施行してくれたのだろう。


「……あ、すいません……加藤先生。——はい、はい。そうです。……ご心配かけて本当に、ごめんなさい……そちらには午後から、行きますんで!」


 電話の途中なのか、立ち上がった由衣はスマホ越しからペコペコ頭を下げた。それを横目で見ながら、康介はそそくさズボンを履く。気絶してる間、由衣に色々身体を触れられていたのだろうかと彼は想像しそうになるが、頭をぶんぶん横に振って、妙な考えを排除する。


「はー……。もぉぉう、康介の家暑過ぎ……これなら倒れて当然じゃん!」


「だ、だから俺は由衣ン家で涼ませてくれって言ったんだよ! エアコン業者来るまで、家から離れられねぇし!」


 まだフラフラするが、由衣との言い争いに負けたくない康介は、気合いで立ち上がり目線を合わせて反論する。このまま口論のゴングが鳴るかと思いきや、由衣は汗を垂らしながら口元に両手を合わせ、緊張感のある表情で突如座り込んだ。


「これがもし、お年寄りとか……子供だったら、もっと早く取り返しのつかない事になってた……」


「……! ……由衣……?」


「はー……ぁ……ぁ。本当に————ほんとに……良かった……」


 指の間から漏れる吐息と声は震えていて、由衣の動揺がうかがえる。康介が死なずに済んだ事の安堵なのか、老人と幼児だった場合の事態を想像して恐怖したのか……その反応の意図を掴めない康介は、何故か再び熱くなった顔を手で扇ぐ。


「と、とにかく……これだけ氷枕くれりゃあ後は大丈夫だ、由衣はさっさとボランティアに行っちまえ!」


「うん……、そうさせてもらうから……」


 しかし由衣は腰が抜けたように、未だに立ち上がれない。強い安心感に身を震わせているのは、誰から見ても分かる事だった。彼女が戻って来て、家に上がらなければ、康介の命は危なかったかもしれない。


「おい、ゆ……」


 そこまで心配する事か、と声をかけようとした康介だが、安心した由衣を見ているだけで、猛烈な照れの感情がぶわぁと顔の体温を上げていく。たまらず康介は、スタスタとキッチンの蛇口に手を伸ばし、流れ出る水に頭を突っ込む。


「……」


 水が排水口に吸い込まれていくシンクを見ながら、康介は考える。現代の夏はエアコン無しでは危険な程、住宅街の猛暑は脅威になってしまった。こんな辛い思いをするのは、怖い思いをさせるのは——もう、たくさんだろう。


(熱中症は危ねぇって教訓の絵本……、いつか絶対作らなきゃな……)


 その呟きを流れ出る水に溶かすと、冷静になってきた康介の頭に面白い構想が浮かんだ。冷たい太陽と暖かい雲が登場する——幻想的で、愉快で、為になる物語。しかしそれが、誰かによって読み聞かせられる日は——まだまだ、先のお話。

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