第37話 真ちゃんとママ

 その日の夜。


 時刻は、夜の十一時。


 琴美ことみが実家に帰ったことで、一人だけの部屋に戻った。


 慣れたつもりではいても、やっぱり誰かが一緒にいてくれる方が安心するのは確かだ。


 ピロリンッ。


「ん?」


 スマホの画面を見ると、管理人さんからメッセージが届いていた。


『今から、そっちに行っていい?』


 今から?


『いいですけど、なにか大事なことですか?』

『……うん。真ちゃんに、どうしても聞きたいことがあって』

『わかりました。部屋で待ってます』

 

 と送った瞬間、ピンポーン。


 早っ。もしかして、玄関の前でやり取りをしていたのかな。


「はーい」


 ガチャリと扉を開けると、前にこの部屋に泊まったときに見たパジャマを着ていた。


「どうしたんですか? こんな時間に」


 いつもなら、もうとっくに寝ている時間のはずだけど。


「と、とりあえず、上がっていいかな?」

「あ、どうぞ」


 二人で廊下を進んで部屋に入ると、ローテーブルを挟んで座った。


「実は今日、真ちゃんのお父様がお見えになったんだ。おばあちゃんと一緒に」

「え、きてたんですか?」

「うんっ」

「っ! でも、父さんは……」


 今から数時間前――。


 香織かおりがリベンジで作ってきた肉じゃがを中心に夕食を食べた後、琴美を見送るために駅へ行くと、


「え、父さん!? どうしてここに」

「仕事ついでに琴美を迎えに来たんだ」


 父さんは管理人さんの方を見ると、お辞儀をした。それに慌ててお辞儀で返す管理人さん。


(……ん?)


「来てたんだったらちょうどいいや。はいっ、持ってーっ」

「おいおい、俺は荷物持ちかー?」


 そんなやり取りをしていると、


「あっ、そろそろ電車が来るみたいだよ」

「そうだな。じゃあ行くぞー」

「わかってるよ。ママっ、またすぐ来るからねっ!」

「うんっ。でも、次もちゃんと父さんに言ってからね」

「はーいっ。えへへっ」


 と微笑むと、琴美は管理人さんの耳に顔を寄せた。


「兄のこと、お願いします」

「!! ……ふふっ、任せてっ」


 重要な任務を香織に託し、琴美と真二は帰っていった。


 ……。


 …………。


 ………………。


「聴いたよ。真ちゃんが『ママ』になったときのこと。それから……お父様の気持ちを」

「そうだったんですね……」

「……それでね。私になにかできることはないかなって考えてみたんだけど」

「管理人さんが、僕に?」

「うん。料理もできないし、家事も……あまり得意じゃないし……。うーん……って考えていたら、一つだけあったんだ」


 今の私にできること。


「真ちゃんのそばになら、ずっと一緒にいられるって……」

「……っ!」

「寂しいとき、ただ話を聞いてほしいとき、いつでも一緒にいることができるって」


 私だけじゃない。


 ここに住むみんなが、真ちゃんのそばにいることができる。


 誰に相談してもいいし。できれば、私がいいけど……。


 すると、それを聞いた真ちゃんが徐に顔を俯かせた。


「父さんから話を聞いたのなら、隠す必要はありませんね」

「え」「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」


 それは、あまりに長い沈黙だった――。


「あの……」


 真ちゃんは顔を上げると、真っすぐな瞳で私の方を見た。


「僕の話……聞いてくれますか?」

「うんっ、聞くよっ!! 何時間でも、何日でも!!!」

「…………っ」


 そして、真ちゃんはゆっくりと話し始めた。




「ママはどこ……っ? どこなの……ッ!!!!!」


 琴美の悲鳴のような声が、家中に響き渡った。


 母親が突然、目の前からいなくなったのだ。


 あの日はとても天気が良くて、まさにお出かけ日和だった。


 僕自身、あの日はお出かけをするのだとばかり思っていたのだけど。


 それは間違っていたのだ。


 あの日は、琴美と同じように自分も泣いた。


 そんな僕たちを父さんは、なにも言わず抱きしめていた。


「ごめんな……っ」


 今思えば、あのとき、父さんも泣いていたんだ。


 あの震えた声を、忘れることはできない。


 僕は、別に大人びていたわけではないけど、ある程度状況を理解することはできた。でも、まだ幼かった琴美は違う。


 毎日、声が枯れるまで、母親の名前を呼び続けた。


 そんな姿を見ていて、なにかできないか……自分に……と、自問自答を繰り返していたあるとき、タンスの奥から母親が着ていた『白のワンピース』を見つけた。


 そして、それを手に持ったとき、僕はあることを思いついた。それが……


「琴美っ!」


 泣きじゃくる琴美が振り返ると、


「じゃ~んっ♪」


 僕は、ワンピースと母親が髪を結んでいたリボンを付けて、琴美の前に立った。


「おぉ……っ!!」


 いつの間にか涙が止まった妹に僕は言った。


「今日から、僕が琴美のママだっ!」


 ……。


 …………。


 ………………。


「最初は無我夢中だったんですけど。体の線が細いこともあって、意外とワンピースが似合ったんですよ。で、そのとき付けていたリボンが、今、琴美が付けているリボンなんです」

「あっ、あの赤色のリボン……そうだったんだ……。あれ、でも琴美ちゃんが付けていたリボンって、二つあったよね?」

「あぁ、それはですね……」


 ある日、僕がリボンを無くしてしまったのだ。


 外を探しても見つからないから、どうしようかと悩んでいたら、父さんが同じものを買ってきた。


 だが、無くしたと思っていたリボンが、部屋のベッドの下から出てきたのだ。


 そんなことがあって、手元に二つのリボンがあったのだけど、僕はそれを琴美の髪に結んだ。


 これが、黒髪ツインテールの始まりだ。


『僕がまた無くさないように、代わりに琴美が持ってて♪』

『いいの……っ!? わあぁぁぁ~いっ♪』


 琴美は、時々クルッと一回転しながら、鏡の前で何度も自分の髪を眺めていたのだった。


「……ふふっ」


 今思い出しただけでも、自然と頬が緩んでしまう。


「でも……小さい子の面倒を見ることがどれだけ大変なのか。それがわかっていくにつれて……」

「大変だったんだね……」

「そうですね……考える暇もなくて……」


 遠くを見るような瞳で呟いた。


「ワンピースを着るまでは、髪型なんて特に気にしたことはなかったんですけど。母の面影を忘れないようにと思って……」

「じゃあ、今の真ちゃんの髪型って」

「はいっ、母と同じです」

「……っ!!」

「こう見えてスポーツ大好き少年だったんで、髪は短かったんですよ? でも、伸ばそうと決めました」

「学校が終わったら、すぐに家に帰ってママになる準備を済ませて、妹のお迎えに行くんです。場合によっては、帰る途中のスーパーに寄って夕飯の買い出しを済ませて……」


 真ちゃんは……本当のママになろうとしていたのだ。自分でも、気づかないうちに。


「勉強が苦手な琴美に付きっきりで算数を教えたりしてました。それもあって、今では立派な妹に育ちましたっ!」


 と言って、真ちゃんは自慢げに胸を張った。


「さすが僕。あはははっ」


 最初は笑っていたが、徐々にその表情が暗いものに変わっていった。


「でも……段々、『お兄ちゃん』と『ママ』の境目さかいめがなくなっていったというか……」


 環境と意識が変わったことで、『お兄ちゃん』としての自分に戻れなくなったのだろう。


「自分のことがわからなくっていたときに、あの出来事が起きた……」

「出来事?」


 あるとき、買い忘れたものを買いにスーパーに行った真だったが、焦っていたこともあってワンピースを着たまま外に出てしまったのだ。


 琴美のお迎え以外では始めてだったため、バレないように対策することもできず。そして……


「たまたま、学校の制服を着た人と会ってしまって、言われたんです……」

「……なんて?」


 真ちゃんは、言おうとして開けた口を閉じた。


 その辛そうな表情が、彼の心の内を表していた。


「言いたくないなら、無理には――」

「………………『変』って」

「え」

「そう……言われたんです……」


 爪が食い込むほどギュッと握りしめている手に、香織は優しく自分の手を重ねた。


 すると少し落ち着いたのか、ゆっくりと手の力を緩めた。


「それからはあっという間でした。次の日に学校に行ったら、ワンピースを着ていたことをイジられて……それで……」

「なっ、泣かないで……っ。真ちゃんは、なんにも悪いことしてないんだからっ!」

「そう、ですよね……?」


 涙目の真を慰めようとしたものの、咄嗟に言葉は出てこなかった。


「二人にいつまでも笑っていてほしくて……そうするにはどうすればいいのか自分で考えて、考えて、考えて……僕は、このワンピースを着たんです」

「真ちゃん……」


 香織は真をギュッと抱きしめた。言葉だけでは伝えられない想いを、直接伝えるために――。


「それのどこが『変』なんですか……?」


 そのときのショックがあまりに大きすぎた結果、真は環境に耐えきれず、不登校になってしまった。


 なんとか中学を卒業するまではよかったのだが、先のことを考える余裕なんてなかった。


 そこで、父親が紹介してきたのが、天凛学園のパンフレットだった。


『ここからも離れているし、学校の子たちと会う確率はほぼないと言っていい』

『…………っ』

『一応、考えておいて欲しい。いつも無茶を聞いてもらっている俺が言うのもなんだがな……。父親として、できる限りのことはしたい』

『父さん……』


 ………………。


「じゃあ、お父様が紹介したんだね」

「はい。地元を離れたい気持ちが強かったので、あの学校に通うことに決めたんです。もちろん、オープンキャンパスに行って、改めてあそこがいいと思いましたし」


 そこからは早かった。


「試験に合格して、制服の採寸をすることになったんですけど。なぜかスカートの採寸をすることになって……今に至ります」

「えっ、じゃあ知らなかったの!?」

「はい……。まさか制服の選択が自由だったなんて……。まぁ、ワンピースを着慣れていたので、抵抗はなかったんですけどね」

「そうだったんだ……」


 どうやら、ワンピースを着たまま採寸に向かったらしい。


 どうりで、スカートが用意されるわけだ。


「それに……生まれ変わるチャンスだと思ったんです。鈴川真の新たな第一歩として……っ」

「真ちゃん……」


 そんなことがあって、学校に通い出したのだが、


「実は、何度か授業中に気分が悪くなって、保健室で休んでたことがあるんです」

「そうなの……っ!?」

「教室で授業なんてすごい久しぶりだったので……。それに、『教室』という環境がちょっと……」


 過去のトラウマがあるから、体が拒否反応を出しているのかもしれない。


「だから、僕にとっては凄いことなんですよ。みなさんとこうやってお話ができていることが」


 私の知らない真ちゃんの過去、そして、今。自分のことより、家族のこと大事にする優しい心を持った少年。


「管理人さん、初めて会ったときに言ってくれましたよね。『甘えていいんだよ』って」

「そうだっけ……?」

「あの言葉を聞いたとき、実はとても嬉しかったんです。なんというか、肩が楽になった気がして……」

「だから管理人さん、僕に甘えていいんですよ。なんたって僕は、ママですからっ!」

「真ちゃん……真ちゃーーーーーんッ!!!」


 香織が抱き着こうとしたとき、真はささっとそれを避けた。


「どうしてぇ〜?」

「身の危険を感じたので」

「むぅ……」

「あははは……」

「でも、僕にも甘えたいときがあるので、たまに……甘えさせてもらえませんか……?」

「……うんっ! 私はいつでもウェルカムだよっ!」


 香織はベッドのふちに腰掛けると、ポンポンと太ももを叩いた。


「おいでっ、真ちゃん」

「…………っ」


 真は見えないものに引き込まれるように、膝枕の形になった。


 そして、香織は優しく真の髪を撫でた。

 

 サラサラの髪はとても撫で心地がよくて、いつまでも撫でていられる。


「あの、このことは、琴美には内緒でお願いします……」

「え、どうして?」

「僕は……ママですからっ」

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