第12話 体はポカポカ、心も…――

「うぅぅぅん…………っ」


 どうしてだろう……かっ、体が重い……。


 ベッドから起き上がろうにも、体が言うことを聞いてくれない。


「っ、んん……」


 だるい体をなんとか動かして、枕元にある時計を手に取った。


「九時……か……」


 普通なら、遅刻確定なのだけど。今日は土曜日だからその問題はない。


 ただ、いつも八時には起きているから、今日はちょっと寝過ぎだ。


 この一週間、初めてのことだらけだったから、疲れたのかもしれない。


 そう思いながら、ふと手の甲をおでこに当てると、


(……熱い)


 体全体も、なんとなく熱っぽいし。


 一応、体温を…………体温計って、どこに置いたっけ……?


 ……。


 …………。


 ………………。


(僕としたことが……体温計を忘れてくるなんて……。それに、薬も……)


 こっちに来る前に何度も確認したはずなのに……。ほんと、駄目だな……。


 ついネガティブ思考に走ってしまう。


 このままだと……体だけじゃなくて……精神的にも……。


「ぐっ……うっ……」


 気力で起き上がったものの、景色がぐるぐると回っていて立つこともできない。


「………………………………」


 朦朧もうろうとする意識の中、壁にもたれながらなんとか立ち上がった。


「はぁ……っ、はぁ……っ」


 スマホは…………充電が切れていた。


 こっ、こうなったら……。


 机の上の財布を持って廊下に出ると、おぼつかない足取りで玄関にたどり着いた。


 そして、左右逆の靴を履いていることに気づかないまま、玄関の扉を開けて……そこで、まことの意識は途切れた――。




(んっ……。んん……ここは……)


 ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が広がっていた。実家から持ってきた低反発の枕と、この毛布……間違いない、自分の部屋だ。


 あれ、でも確か、財布を持って外に…………え。


 横の方に目を向けると、そこに人影があった。


(誰かがいる……)


 目を凝らすと、ぼやけた視界がゆっくりとクリアになっていき…――


「――!!? 母さ――」

「真ちゃん!!」

「かっ……管理人……さん?」


 と呟いて起き上がろうとする真を、香織は慌てて止めた。


「だ、ダメだよっ! まだ横になってないと!」

「っ……で、でも…………」


 促されるまま、真は横になった。


「どうして……管理人さんが……ここに?」

「もうびっくりしたよっ! 二階からガタンッ! って、音がしたから慌てて行ってみたら、真ちゃん、廊下で倒れてたんだもんっ!」

「そう……だったんですか……」

「もぉ……心配したんだからね……っ!!」

「……っ」

「ぐすっ……ティッシュ、貰っていい……?」


 と言って、涙目の管理人さんは鼻をすすった。


 わざわざ泣かなくても……。


「すみません……ご迷惑を……お掛けしちゃって……」

「ううん……っ。ところで、具合はどう? 苦しくない?」

「そうですね……。熱いし……だるいし……天井がぐるぐるしてます……」

「体温計は?」

「実家に……置いてきちゃったみたいです……」

「そっか……あっ、ちょっと待ってて!」


 そう言って香織が慌てて部屋を出て行くと、一分も経たない内に玄関から扉の開く音が聞こえた。


「はぁ……はぁ……、持って来たよっ! 体温計っ!」


 どうやら、自分の部屋から取って来てくれたようだ。


 香織かおりは、起き上がろうとする真の背中に手を回した。


「ありがとうございます……」


 体温計を脇に挟んで、待つこと数分。


 ピピッ、ピピッ。


 結果が出た体温計を渡すと、香織は目を見開いた。


「何度ですか……?」

「……三十八度一分」

「…………」


 やっぱりか……。


 なんとなく、三十八度は超えているんだろうなとは思っていたけど、まさにその予想通りだった。


「たっ、大変っ! すぐ病院に――」

「!? 初めてのことばかりで……疲れが出ただけです……っ。そこまで状態も悪いわけでは…――」


 ――バタンッ。


「真ちゃん!?」

「ハァ……ハァ……ハァ……」

「……っ! こうしちゃいられない!!」

「ぼ、僕は……大丈夫――」

「本当に大丈夫な人は、自分から大丈夫って言わないものなんだよっ?」


 と言い残して、部屋を出て行く香織の背中を見つめながら、真はゆっくりと目を閉じたのだった――。




 トントントントンッ。トントントントンッ。


「んっ……んん……」


 再び目を開けると、肩までキッチリ毛布が掛けられていることに気づいた。


 そうだ……廊下で倒れていた僕を管理人さんが部屋まで運んでくれて……それから、体温計を持ってきてくれて……


(あの後、眠っちゃったんだ…………ん? なんだ……これ……?)


 おでこに乗っていたものを取ると、それは濡れたタオルだった。どうりでひんやりしていたわけだ。


 ちなみに、横にあるローテーブルの上には、水の入った桶が置かれている。


(管理人さんには……迷惑をかけてばっかだな……)


 トントントントンッ。


(うん……? この音は……)


 真は、扉越しに聞こえてくる心地いい音に耳を傾けた。


 これは……まな板の上の野菜を包丁で切っているときの音だ。


 この世の中、たくさんの音に溢れかえっているけど、もしかするとこの音が一番好きかもしれない。なんというか、とても落ち着く……。


 それから、十分後。


 ガチャリと扉を開けた香織の手にあったのは、鍋が乗ったおぼんだった。

「あっ、起きてたの?」

「はい……。さっき、目が覚めて……」


 真が起き上がろうとすると、


「起きて大丈夫?」

「ちょっと寝たからか、少しだけ楽になりました……」


 本当は、まだ体がだるかったりするけど。これ以上、心配をかけるわけにもいかないし。


「炊飯器の中のご飯、勝手に使っちゃったんだけどよかった?」

「大丈夫ですよ……多分、お粥になっていたと思うので……」


 香織は、ローテーブルの上におぼんを置くと、鍋に入っているお粥を茶碗によそった。


「あっ、ありがとうございます……管理人さ――」

「ふぅ……ふぅ……。はいっ、あーん♪」

「……一人で食べられます」

「むぅ。じゃあ熱いからゆっくり食べてねっ?」

「はい……」


 茶碗と木のスプーンを受け取ると、真の手が止まった。


 ………………。


 スプーンを手に持ったまま、じっと茶碗の中を見つめていた。


 至って普通のお粥。だが、その『普通』が怖いのだ。


(管理人さんの料理は……まぁいいか)


 あの、期待と緊張の両方を感じさせる表情を見せられると……


「い……いただきます」


 スプーンで掬い上げて、口へとゆっくり運んだ…――


 ……。


 …………。


 ………………。


「ごちそうさまでした……とても美味しかった……です……」


 塩を入れ忘れたのか、純粋なお米の味を感じることができた。


「えへへっ、よかった~♪」


 ピンポーン。


「あっ、はぁーいっ♪」



 動けない真の代わりに、香織が玄関へと向かった。


 それによって一人だけになった部屋で、真はポツリと呟いた。


「…………最後に他の人の手料理を食べたのって、いつだっけ…………」


 思い出すために自分の中の記憶を辿っていると、


「マコマコ〜っ! 梨花お姉ちゃんが来たから、もう安心だよーっ!」

「どんな感じなの?」

「だ、大丈夫なんですか!?」

「早く入れよ……」


 玄関の方から聞き慣れた声がすると思ったら、


「マコマコーっ!」

「思ってたより元気じゃん」

「お、お邪魔しますっ!」

「はっ、入んぞー……」


 穂波ほなみ姉妹、さくら、らんの四人が入ってきた。


「先輩たち、どうしてここに……?」

「お見舞いだよっ!」

「そんな……わざわざ来てもらわなくても…――」

「汗かいてるなら、わたしが背中拭いてあげよっかぁ〜?♪ いや、拭かせて~っ♡」

「それくらい、じ、自分でできるので……」

「なら、お姉ちゃんが癒してあ・げ・る~~~♡」


 そう言って、梨花が真に抱き着こうとしたとき、


「ぐへっ……」

「はぁ、病人だからちょっとは控えろ」


 梨奈りな梨花りかの襟を掴んだ。その動きに無駄はなかった。


「えぇぇぇ~。可愛い成分を補充しないと生きていけないよ~」

「その元気をちょっとくらい分けてやれよ……」


 そう言って梨奈は枕元にしゃがむと、真のおでこに手を当てた。


 ひんやりとしていて、気持ちいい……。


「ちゃんとご飯が食べられたんなら、後はぐっすり寝て汗をかくだけだ」「はっ、はい……」


 優しい笑みで見つめられ、思わずドキッとした。


 双子と言っても、雰囲気は違うものなんだな……。


「あ、あのっ、これ食べてっ!」


 と言って、さくらが渡したのは、なんとイチゴのタルトだった。


「これは……?」

「わたしの手作りなんだけど……。もっ、もし、まだ食欲がないなら、また今度持って――」

「ちょうど甘いものが欲しかったんで、いただきます……っ」

「!! すっ、すぐ用意するからね!」

「あっ、さくらちゃん、私も手伝うよっ」


 さくらと香織は、準備をするために一旦、部屋を出た。


「ああぁーっ! わたしも食べた~いっ」

「作り過ぎたから、みんなも一緒に」

「ほんとに!? やった~♪ さくら、料理得意だもんねぇ~」


 へぇー、姫川先輩のことは普通に下の名前で呼ぶんだ。


 すると、ふと目が合った。


「マコマコ、なぁ~に?」

「なっ、なんでもないです……っ」

「…………」

「……ん? 美風先輩?」


 真が名前を呼ぶと、慌てて目を逸らした。よく見たら、額から汗がダラダラと流れているような。


「ランラン、すごい汗だよ? もしかして熱あるのー?」

「!! ね、ねぇよ」

「大変だーっ! ランランの顔が真っ赤だーっ! 看病しなきゃーーーっ!」

「だから、なんにもねぇって言ってるだろっ!!」

「じゃどうして真っ赤になってるの?」

「そっ、それは……そのー…………」

「うぅ~ん? よく聞こえないよ~?♪」

「ぐぬぬぬ……っ!!」

「二人とも、ケンカはダメだよ~?」

「「はぁーいっ。……ぷふっ、あははは……っ!」」

「あたしより、似た者同士かもな」

「「似てないっ!」」


 熱のせいなのかもしれないけど……。


(なんだか、体がポカポカする……)


 朝起きたときの寒気とは、まさに真逆だった。


 それがどうしてなのか、その答えを見つける前に、香織とさくらがキッチンから戻って来たのだった。

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