終わらない物語の話

「もうおしまいね」

「うん。本当に終わりだ」

 死に物狂いで水から浮かび上がった吾輩の耳に飛び込んできたのは、そんな台詞だった。無論、話者とモデル読者の声だ。

 初めてここへ来たときのように、半透明の繭に閉じ込められる心配はなかった。話者たちは、パイプに蓋をすることもなければ、繭を修繕することもなかったらしい。吾輩は水流とともに床へと転がり出た。

 話者とモデル読者も、吾輩がここへ再訪したことに気づいているだろうが、全く意に介していない。それもそうだろう。物語は修復不可能なほどに壊れてしまい、彼らはもはや自分の存在意義を失いかけているのだから。

「残された道は二つね。ここで世界が消滅するのを待つか、それとも『禁じ手』に賭けるか」

 話者が言う。その顔は気の毒なほど疲れ切っている。

「『禁じ手』か。読者としては避けたいところだが、仕方ないのかもしれない」

 モデル読者の言葉に背中を押されたのか、話者はモニターの前から立ち上がり、部屋の奥へと向かう。その後ろを、モデル読者が追う。

 壁に一つだけ付いている、赤いボタン。「絶対押すな」の張り紙。彼らの言う「禁じ手」とは、どうやらあのボタンのことを指すらしい。

 吾輩の脳内でアラームが響き渡った。本能が――語り手としての本能が、強烈な危険を察知している。あのボタンを押せば、確実に事態は最悪な方向へ進むだろう。

 吾輩は二人の方へ駆け出した。

「言っておくけれど、これは本当に賭けよ。これを使ったところで事態が好転するとは限らない。むしろ、世界の滅亡より恐ろしいことが起こる可能性もあるわ」

「大人しくゴミ箱に行っておけばよかった、と思う日が来るかもしれないな。でも、少なくとも俺たちが生き延びるためには、これ以外に方法はないだろう? 背に腹は代えられない」

「そのとおりね」

 話者の細い指が、ボタンへと伸ばされる。

「これを押せば、すべてはリセットされ、任意の場所からやり直される」

「どうなるかは神のみぞ知る、だな」

「押すわよ? ――『夢オチ』を」

 吾輩の肉球が、すんでのところで話者の腕を弾いた。

「あっ」

 短い声を上げ、話者がバランスを崩す。そのままモデル読者を巻き込む形で、二人は床に転がった。

 話者がヒステリックに叫ぶ。

「邪魔しないでよっ。あんただってこのまま消えたくないでしょう?」

 もちろん、消えるのは御免被る。だが、ボタンを押すことが最善だとはどうしても思えなかったのだ。

「大人しくしてな」

 モデル読者が吾輩を抱える。これ以上、手出しをさせてもらえそうにない。話者が腰をさすりながら、立ち上がる。

「あんたが『夢オチ』を嫌うのは分かるわ。ここまでの語りがすべて無駄になるに等しいものね。でも、『夢オチ』を扱った名作はいくらでもある。この物語がそうなることを祈りましょう」

 甘すぎる。

 吾輩にも「夢オチ」の知識がインプットされているようだ。「すべては夢でした」という強引な幕の引き方。あるいはそれに類するエンディング。「すべては妄想でした」「すべては仮想世界の話でした」「すべては作中作でした」

 その手法がまだ広まっていない時代、「夢オチ」は斬新なものとして受け入れられただろう。名作と呼ばれる夢オチ小説もあったに違いない。しかし、今やそれは手垢の付いた古典的技法と成り下がっている。

 つまり、使えば炎上必至ということだ。何が燃えるのか知らないが。

 不意に、部屋が明るさを増した。

 話者とモデル読者が動きを止める。抱えられたままの吾輩も、身をよじって光源を確かめた。

 部屋に大きな窓が出現していた。巨大なガラスがはめ込んであり、その向こうで二人の人間がこちらを覗き込んでいる。パンクなファッションに身を包んだ男女。

「なんだ、どういうことだ」

 モデル読者がつぶやく。腕の力が緩んだので、吾輩は床に降り立つことができた。

 モデル読者とは対照的に、話者は落ち着いていた。

 髪をかき上げ、自嘲的に笑う。

「そういうことね」

「どういうことだ?」

ってことよ」

 モデル読者が首を振る。

「もっと親切に説明しろ」

「窓の向こうから私たちを見ているのは、この物語の話者とモデル読者」

 モデル読者はぎょっとした表情で話者を見つめ返す。

「モデル読者は俺だ」

「違う」

 話者は悲しそうに首を振る。

「あたしたちは、

「俺たちは話者でもモデル読者でもないってことか?」

「そのとおり」

 話者はゆっくりと椅子に腰掛けた。どことなく投げやりな態度だ。

「言ったでしょ? 『これはそういう物語』。登場人物が話者とモデル読者に出会って、無茶苦茶になった物語を元に戻そうとする――けれど失敗する物語。だからあたしは本物の話者ではないし、あんたもモデル読者ではないのよ」

 モデル読者は頭を抱えた。

 窓の外を――本物の話者とモデル読者を――にらみながら、何かを必死に考えているようだ。話者の言葉を否定したいという思いが見て取れる。しかし、話者の言葉は、つじつまが合いすぎていた。

「で、でも――」

 彼は言葉を絞り出した。まだあきらめようとはしていないらしい。

「それなら、あいつらは何だ?」

 窓の向こうを指さす。

「本物の話者とモデル読者だって? それなら、? 

 確かにそうだ、と吾輩は思う。すでに吾輩は、窓の外の彼らについて語っている。ということは、彼らもまた登場人物と言えるのではないか。

 話者が笑った。必死なモデル読者をいたわるような、優しい笑いだった。

「そう。彼らも、

 パッと、蛍光灯の点く音が響いた。

 窓の向こうの男女。その向こうに窓が現れて、二人の人間が覗き込んでいる。そのさらに向こうにも窓があり、二人の人間が覗き込んでいる。そしてその向こうにも――。

 無数の観察窓。そして、無数の話者とモデル読者。

 合わせ鏡を覗き込んでいるような光景だ。

「語られた以上は登場人物。だから、あたしたちが視認できる者はすべて登場人物よ。この目の回りそうな景色の一番向こうに、本物の話者とモデル読者がいるはず」

 話者――がとつとつと語る。

「作者は何がしたいんだ。小難しいメタフィクションを書こうとして収拾がつかなくなったってことか?」

 が愚痴った。

 話者だった女が椅子から立ち上がり、モデル読者だった男の肩へ手を置く。

「でも、もう大丈夫。あたしたちが本物の話者とモデル読者ではなかった――これって、最後のオチとしてはまあまあじゃない?」

「どうかな? 作中作の――つまり、有島たちの世界は無茶苦茶になったままだし、主人公は失われた。今さら僕らの正体が明らかにされても、カタルシスは生まれない」

「そうではないの。ひとまず、あたしたちは物語の最後までこぎつけられたってことよ」

 モデル読者だった男は、小さくうなずく。

「それもそうだ。登場人物としての役目は果たせたってところかな」

「ええ。たとえこの小説がひどい出来だったとしてもね」

 無数の窓を通し、無数の人物が、二人と吾輩のことを見ている。そして、モニターの向こうでは、作中作の登場人物たちが「支配者X」の宇宙船と戦闘を繰り広げている。

 この物語が成功であれ、失敗であれ、吾輩たちはその役目を果たしたのだ。

 あとは読者一人一人の受け止め方に委ねるしかない。

 このどこまでも仮想的バーチャルで、不完全な物語論ナラトロジーに基づく物語を。

 名前を付けるなら、これが良いだろう。

 明治バーチャル・ナラトロジー。

 

 完


 

 

 エンディングを迎えたはずの世界に、窓ガラスを突き破って何かがやって来たのだ。

 飛び散るガラス片から顔を守っていた手をのけると、巨大なバイクが横倒しになっていた。窓ガラスは無惨に砕け、その向こうでパンクなファッションの男女が口を開けたまま固まっている。彼らの向こうのガラスも破壊されているから、きっとバイクは何枚ものガラスを破って、ずっと向こうからやって来たのだろう。

「何者?」

 話者だった女が問う。

 横倒しになったバイクがゆっくり持ち上げられた。

「いてててててて」

 バイクの下から、フルフェイスのヘルメットを被った何者かが現れる。派手な刺繡の着物と羽織を身に付けていて、ヘルメットやグローブとはひどく不釣り合いだ。

「ちょっと、勘弁してよ。あたしたちの物語はやっと終わりまでこぎつけたんだから。これ以上無茶苦茶にしないで」

「いやいや、すみません。でもひどいではないですか。僕抜きで終わらそうなんて」

 くぐもった声が聞こえる。吾輩は、その声をよく知っていた。

 何者かが、ヘルメットを脱ぎ去る。

「――あんた、まさか」

「そう、そのまさか。僕は有島です」

 ヘルメットの下に現れたのは、有島と瓜二つの顔だった。

 モデル読者だった男が「あ、有島……」と指をさす。

「死んだはずだろう? よみがえったということ? いや、しかし……」

「僕は外側の世界から来た有島です。物語世界の有島ではない」

 外側の世界から来た有島。吾輩の頭では、彼の言うことを全くもって理解できそうにない。

 この小説は何だってここまでややこしい内容を扱っているのだ。

 苛立ちから、吾輩は口を開いた。

「外側とは、作者と同じ世界ということか? ならば、あなたは有島のモデルになった人物というわけか?」

 有島は長いさらさらした髪をかき上げ、ハハハ、と笑った。物語世界の有島とは打って変わって、

「僕は有島のモデルではありませんよ。ですが、作者と同じ世界に生み出された、というのは当たらずといえども遠からず、です」

「ちょっと待って」

 話者だった女が話を遮った。

「タブレットも無いのに、あんた、猫の言うことが分かるの?」

 確かにそうだ。物語世界の有島も、話者だった女も、モデル読者だった男も、全員が吾輩の言葉を聞き取ることができず、タブレットの翻訳機能を活用していた。それなのに、目の前の有島は、何ということもなく吾輩の言葉に応えてみせたのだ。

「ええ、この猫ちゃんの言葉はよく分かります。僕が動物と会話できるようになるという内容の同人誌が、数年前に出ましたからね」

 同人誌。またも耳慣れぬ言葉が飛び込んできた。

「外側の世界で、この『有島シリーズ』は大評判です。特に主人公である有島が、老若男女の心をつかんだ。そこで生まれたのが大量の二次創作です。小説はもちろん、漫画、イラスト、文化祭の劇に至るまで、いくつもの媒体で数えきれないほどのファンたちが、有島を描きました。その中で、有島はより美形となり、動物と話す力や、他を圧倒する格闘術など、特殊能力を付与されました」

 話者だった女が鼻を鳴らした。

「それがあんただって言うの?」

「いかにも。あなた方とは異なる神々に生み出された『有島』です」

 有島は首をぽきぽきと鳴らした。

「今回の連載で、ファンたちはざわついていました。これまでの作風から一転、不自然でメタで荒唐無稽な物語に舵を切っていましたから。一説には、作者が編集者と揉めて腹いせにこんなふうにしてしまったとの話もありますが……。ともかく、何人ものファンたちが『有島シリーズ』を救うため、ペンを取ったわけです。おかげでここまで来ることができました」

 有島はモニターへと歩み寄り、宇宙船に対して銃をぶっ放す梅ちゃんたちの姿をそっと撫でた。

「物語世界を救うつもり? 相当危険よ。それこそ、主人公だって命を落とすくらいに」

「大丈夫です。僕は不死属性ももっていますから」

「不死属性?」

「別の物語で、吸血鬼に噛まれたことがありましてね。ちょっとやそっとじゃ死ねません」

 無茶苦茶だ。しかし、彼の語ることが真実ならば、この物語を救えるかもしれない。

「ちょっくら行ってきますよ。宇宙船にゾンビに異世界転生に巨大ロボ。収集をつけるのは骨が折れそうですが、その分盛り上がりそうです」

 有島はそのまま物語世界につながるパイプへと歩み寄る。

 はたと足を止め、振り向いた。

「猫ちゃん。一緒に来てくれないかい?」

 言うまでもない。吾輩は語り手である。この有島がどのように立ち回るのか、最後まで語る責務があろう。

 有島の広い肩に、吾輩は飛び乗った。

「私が超人になりすぎてしまったから、相棒サイドキックは一般的な感覚をもっていないといけないのですよ。特に、それが語り手となればなおさらです。ホームズにワトソンがいたように。そしてその相棒が動物であると、バズりやすいのです」

 何を言っているのかは相変わらず分からないが、彼ならこの世界を救えるかもしれない。吾輩は、全幅の信頼を預けることにした。

「それでは」

 有島はキザに片手を上げると、吾輩と共に物語世界へ飛び込んでいった。

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明治バーチャルナラトロジー 葉島航 @hajima

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