第35話


妊娠が発覚してから一週間が経ち、今日は問題の火曜日だった。


内田院長は出張から帰ってきている。


僕と栞は横に並んで、院長室の立派な扉の前に立つ。


内田 栞:「不安だなぁ……」


ため息と共に栞は弱音を吐く。


目黒 修:「大丈夫だよ。きっと上手くいく」


自分自身に言い聞かせるように、大丈夫と何度も呟いた。


栞の左手を握ると、強く握り返してくれた。


内田院長は僕のことを『栞にたかる虫』だと思っているに違いない。


そしてそんな『虫』が栞を嫁にくれと言うのだ。


簡単に結婚を許してはくれないだろう。


だけど僕は怖気づいたり、引き下がったりはしない。


僕は土下座だって、栞を誘拐する覚悟だってある。


僕は残りの人生を、栞とこれから生まれてくる子供と一緒に居たいんだ。


目黒 修:「いくよ?」


栞は静かに頷いた。


震える手で大きな扉をノックした。


内田院長:「どうぞ」


事務的な冷たい声が聞こえ、背筋が凍った。


目黒 修:「し、失礼します……」


ゴクリと唾を飲み込み、扉を押し開け、戦場である院長室に踏み込んだ。


これから栞を賭けた母親と僕の戦いが始まる。


内田院長は僕たちが入って来たのを見て顔色ひとつ変えず、いつもの冷たい目をしていた。


目黒 修:「今日は大切なお話があって来ました」


2人で深く頭を下げた。


内田院長は僕を睨むように見つめる。


視線だけで殺されそうだ。


栞の両親は離婚しているので、挨拶をするのは母親である内田院長だけだった。


内田院長:「お掛けになって」


優しさの欠片も無い冷たい口調。


命令に従い、部屋の隅に置かれている革のソファに栞と並んで座る。


内田院長は座っていた椅子から立ち上がり、膝の高さほどのガラスのテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろした。


3人の間に重たい空気が流れる。


内田院長は沈黙の間も僕を刺し殺すように睨んでいる。


でも僕は目を逸らさなかった。


余計な前置きなど要らない。


さぁ、本題に入ろう。


目黒 修:「栞さんとお付き合いをさせていただいております」


内田院長は‟本当なの?”と言わんばかりに栞に視線を移した。


だがその顔は決して驚いてなどいなかった。


内田 栞:「三年前からです」


栞は短く答えた。


内田院長:「そんな 分かり切った事を、改まって報告しに来たんですか?」


目黒 修:「いえ。違います」


僕のはっきりとした即答に内田院長の美しく描かれた眉がピクッと少し寄った。


目黒 修:「栞さんのお腹の中に赤ちゃんがいます。もちろん、父親は僕です」


内田院長は綺麗な右手で口元を押さえた。


内田院長:「どれくらい……なの?」


さすがに動揺したようで、ゆっくりとした口調で栞に聞く。


内田 栞:「もう7週目になりました」


栞は小学生の様なぺったんこなお腹に手を当てる。


内田院長:「……そう」


内田院長は力無く呟いた。


きっと『虫』が大切な愛娘を汚したと思っているのだろう。


目黒 修:「栞さんと結婚したいんです」


内田院長は先ほどの動揺が嘘のように、僕を睨んだ。


僕は絶対に目を逸らさない。


逸らしたら僕の負けだ。


内田院長:「責任を取る、という事ですか?」


目黒 修:「お付き合いを始めた時から結婚は考えていました」


内田院長:「結婚前提だったんですね?」


目黒 修:「はい」


膝に置く拳は熱を持ち、汗で気持ち悪いほどじっとりと濡れていた。


目黒 修:「栞さんを僕にください」


僕は額が膝に付きそうなくらい深く頭を下げた。


内田 栞:「お願いします……」


栞も頭を下げた。


長い沈黙が僕たちの鼓動を加速させた。


内田院長:「顔を上げてください」


この事務的な冷たい口調には慣れてしまった。


内田院長:「心臓外科医の貴方はとてもプライドが高い人間だと思っていたので、私に頭を下げたのには驚きました」


内田院長は深呼吸をして僕を見た。


内田院長:「栞をよろしく頼みます」


内田院長は僕に頭を下げ、潤んだ瞳で優しく微笑んだ。


思わずその顔に見惚れたのは、栞の笑顔は母親譲りなのだと初めて知ったからだった。


目黒 修:「ありがとうございます!」


僕は再び深く頭を下げた。


内田 栞:「お母さんっ!」


栞はソファから立ち上がり、母親である内田院長に抱きついて泣いていた。


初めて親子らしい二人の姿を見て、気が付くと僕の頬にも涙が伝っていた。


目黒 修:「絶対に栞さんを幸せにします」


これで栞との関係を隠さなくて済む。


僕が他の病院に飛ばされるかはまだ分からないが、もうこの病院の女性に用は無い。


◇◇◇


内田院長:「今から2人で指輪でも見てきなさい」


内田院長に微笑んで言われたのは、僕たちが院長室を出る時だった。


窓の外は夕闇が広がっていた。


目黒 修:「そうします」


内田院長と微笑んで会話をしている事に違和感を覚える。


内田 栞:「じゃぁ行ってくるね、お母さん」


僕たちは有名ブランドのジュエリーショップへ向かった。


目的地に到着し、栞とガラスケースの中に並ぶ指輪を見ながら店内を歩き回る。


胸に『後藤』という名札を付けた女性店員が僕たちの接客を担当した。


じっくり見て回り、栞の選んだ指輪を購入した。


栞のはダイヤが並ぶハーフエタニティリングで、僕のは同じデザインのシンプルなプラチナリングだった。


僕達は夫婦になるんだ。

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