第34話
翌日、僕は病院の屋上に居た。
本当は今すぐにでも母親である内田院長に結婚の了承を得たかったのだが、残念なことに内田院長は出張で来週の火曜日にならないと会えなかった。
夕陽を眩しく反射させる手すりを掴み、オレンジ色に輝く景色を眺める。
風が白衣の裾を泳がせる。
目黒 修:「はぁ……」
両手を突き上げ、固まった筋肉をほぐすように伸びをした。
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
櫻井 舞:「……目黒先生」
屋上の扉が開き、僕の背中に不安気な声が届く。
声の主は櫻井舞。
僕が呼び出したのだ。
新しい命が宿り、プロポーズをした今、いつまでも先延ばしにはしていられなかった。
櫻井 舞:「お話って、返事の事ですよね?」
隣に立った櫻井舞は僕と目が合うと、気まずそうに燃えるように輝く向かいのビルに視線を向けた。
目黒 修:「こんなに時間を空けてしまって、すみません」
僕は櫻井舞の横顔に頭を下げた。
櫻井 舞:「謝らないでください。先生は悪くありませんから。るうさんの件で警察が来て少しバタバタしていましたし……」
櫻井舞は体の向きを変えて、僕を見上げた。
屋上で、背景は優しい色合いの夕陽。
映画やドラマならベタで最高のシチュエーションだろう。
でも僕はこんな最高の雰囲気の中で、櫻井舞の告白を断るのだ。
目黒 修:「僕は……櫻井さんと付き合うことは出来ません」
すみませんと言って頭を深々と下げた。
櫻井 舞:「理由……聞いても良いですか?」
僕は頭を上げたが、櫻井舞の顔を直視できず、足元の白いコンクリートを見つめた。
櫻井 舞:「どこか悪い所があるなら教えてほしいんです」
悪い所なんてひとつもない。
容姿はもちろん、 心も美しい櫻井舞の悪い所なんて今の僕には見つけられない。
栞と出会っていなければ、僕は櫻井舞を選んでいた気さえする。
でも僕は栞と出会い、栞を選んだ。
櫻井舞を選ぶ気持ちも、シナリオも存在しない。
目黒 修:「実は……」
僕は櫻井舞に真実を伝える義務がある。
ここで内緒にしてしまっては、院長である母親の前で胸を張れない気がした。
そう思い、僕は櫻井舞の目を真っ直ぐ見つめた。
目黒 修:「今付き合っている彼女と結婚するんです。だから……」
櫻井 舞:「私の知っている人ですか?」
震える低い声で櫻井舞は問う。
櫻井舞にだけ教えても良いと許可はもらっている。
目黒 修:「内田栞です」
僕と櫻井舞の間を、強い風が駆け抜けた。
櫻井舞の瞳が潤み始める。
櫻井 舞:「そう、だったんですね……すみません、私、知らなくて」
長い沈黙の後、震える声で櫻井舞は深々と頭を下げた。
そして僕が言葉を返す前に、櫻井舞はこの場から逃げるように歩き出した。
僕は扉に向かう櫻井舞の背中に向かって叫んだ。
目黒 修:「櫻井さんを想っている人はすぐ近くに居ますから!」
それは嘘ではない。
櫻井舞に好意を抱いている人がすぐ近くに居るのだ。
一度振り返った櫻井舞は僕に笑顔を見せ、扉の向こうに消えていった。
その笑顔は見惚れてしまうほど美しかった。
櫻井舞を女としてではなく、コレクションとして僕のものにしたかった。
櫻井舞は美しいのだ。
コレクションにする価値は充分ある。
でも僕はそうしなかった。
警察の男が来た時、僕は逃げられるか賭けをしたが、半分諦めていた。
だが、櫻井舞が乱入して僕の知らなかった小山るうの情報を警察の男に教える事で、僕は救われた。
いや、僕と栞と授かった命の未来をも救ってくれたのだ。
櫻井舞は恩人であり、美しいからこそ、このまま生きて今以上に美しくなって幸せになってほしいと思った。
大川大輔の想いが実るのなら、彼と幸せになってほしい。
目黒 修:「はぁ……」
日が落ちて、少し冷たい風が吹く。
手すりの向こうは、僕の心を表すように暗いブルーに変わっている。
悪い事をしたわけではないが、女性を泣かせてしまうのは気分が悪い。
白衣のポケットからスマホを取り出し、栞に電話を掛ける。
目黒 修:「やっぱり櫻井さん、泣いちゃった……」
内田 栞:「恋愛したらフラれる事もあるわ、そんな心配しなくても大丈夫よ」
栞の優しい声が聞こえる。
内田 栞:「次の恋が始まれば、修の事なんてあっという間に忘れちゃうわよ」
栞はそう言って笑うが、それはそれで悲しいと思ってしまった。
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