第35話 ミナト

 それから一週間ばかり経った頃、妹のミナトさんから連絡が入った。明日の昼に、事務所を訪れても構わないか、との問い合わせだった。出向くのは、彼女だけだと言う。アサヒさんは、雑誌の仕事が終盤に入っていて、動けないし、そもそもが、姉には内緒の訪問だとのことだ。

 この連絡が入ったとき、ユイは、ざわっと胸騒ぎが起きるのを覚えた。その正体が何なのか、は分からない。でも、何かが確実に動く前兆のようなものを感じたのだった。

 事務所の掃除をしていたルカに向かって、ユイは言った。

 「アサヒさんの妹、ミナトさんが、事務所にみえるわ。明日のお昼よ。舌の肥えた彼女のことだから、奮発して、おいしいスイーツを買っておいてくれる? もちろん、あなたにしか淹れられないスペシャル・ティー付きでね。

 アサヒさんよりは、ちょっと小さいけど、実物のミナトさんに会うと、ビックリするわよ。楽しみにしていてね」

 ユイの顔には、片方の口角を上げた不敵な笑みが浮かんでいた。この表情を浮かべたときのユイには要注意だ。ルカは、ミナトさんに会える楽しみと同時に、ユイだけに見えている次なる展開に、興味が湧いた。

 それが何なのか、を聞いても、きっと教えてはくれないだろう。そのときが来たら、あなたにも分かる・・・。それが、ユイの流儀であることを、彼女との付き合いから学んでいた。


 今年の梅雨明けは、遅くなりそうだ、と天気予報が告げていた。予報を裏付けるように、昨日まで何日も雨が降り続いた。

 ところが、今朝は空気が一変して、爽やかな風が街中を流れ、初夏を思わせる柔らかな陽射しが差す、気持ちの良い日になった。

 事務所の外がそうなのではなく、室内にも初夏の空気が溢れていた。ドアを開け、彼女が一歩、事務所の中に足を踏み入れた瞬間から、それは始まった。

 「コンニチハ」

 涼しげな声が響き、軽やかな靴音とともに、ミナトさんは姿を現した。

 前裾のセンタースリットが、お洒落な黒いパンツ。パンツに合わせた黒いパンプスを素足に履いている。

 (靴のとがった先端から始まってる、この人の足は、どこまで続いてるんだろう? )

 魂を抜かれたような虚ろな目で、ルカは、彼女の長い足をたどっていった。ウエストラインが高い。パンツに前裾だけインする、元モデルらしいこなれた着こなしが、カッコイイ。ほんのりと肌感が透けている、ブルーのリネンニットを身につけていた。

 姉のアサヒさんの写真に写っていたのと同じ、美しすぎる鎖骨のラインが、ニットのⅤネックからのぞいていた。

 ほっそりとした首。遠近感を狂わされるような小さな顔。亜麻色に染めた、ウェーブのかかったミディアムヘアに、黒いキャップをかぶっていた。細い首に、二重に巻いたネックレスが、女らしさを際立たせていた。

 ミナトさんが、全身から醸し出している空気感が、カラリと晴れた初夏そのものだった。

 (こんな女性が、ホントにいるんだ。同じ人類じゃない。私なんかとは、全く違う過程で進化した人類が、目の前にいる・・・ )

 その存在に圧倒されてしまい、消え入るような声で、挨拶を返すのが精一杯だったルカは、心の中でそう思った。

 ユイは明るい調子で挨拶すると、ミナトさんをテーブルの席に案内した。

 「昨日までとは打って変わってイイ天気。あなたが連れてきてくださったのね」

 ユイが口にする冗談も、軽やかに弾んでいた。

 ユイとミナトさんが、型通りの時候の挨拶を交わしているうちに、ルカは急いでキッチンに立ち、紅茶の準備を始めた。

 それと同時進行で、ルカの好みで購入したスイーツの用意もした。

 電子レンジでチンしたブリオッシュを、白い皿に盛った。薄く湯気のたつブリオッシュの上に、冷たいバニラアイスクリームを載せ、ハーブを添えた。皿にハチミツで幾筋かの線を引いて、出来上がり。

 「あらっ、イイ香り。ユイさんの結婚相談所では、パティシエも雇っているのね? 」

 ミナトさんの華やいだ声が、ルカにも聞こえてきた。

 「そう。でも、あの人は、パティシエだけじゃなくて、紅茶を淹れる魔術師でもあるの。是非、ご賞味あれ」

 ユイの声も、ノリが良かった。ほめられて、嬉しくない人などいない。ルカの場合、この瞬間を心の支えとして生きてるようなものだ、と自覚さえ抱いていた。

 トレイに、「ルカスペシャル」とユイが名付けた紅茶と、ルカが用意したスイーツを載せて、ユイとミナトさんが座っているテーブルへと運んだ。

 「温かいうちにお召し上がりください」

 そう口にした自分の声に、力がこもっていたのを、ルカは感じた。

 「では、おおせの通り、まずは魔術師の淹れた紅茶をいただくわ」

 ミナトさんは、微笑みをルカに向けてから、ティーカップに口をつけた。そして、もう一口、口に含んでから、そのつぶらな瞳で、ルカの顔を真っ直ぐに見つめてきた。

 「不思議な味わい・・・。口の中で、味が微妙に変化していく。固く閉じていたつぼみが膨らんで、ポッと花を咲かせるみたいな・・・ 味にドラマがあるわ。こんなの初めて。ユイさんが言うように、あなたは魔術師さんなのね」

 ルカは頬を赤らめ、ぺこりとお辞儀をした。

 ミナトさんは、神経を集中させようとしているのか、目を閉じ、何度か、ティーカップを傾けた。瞬く間に、カップはカラになっていた。

 「魔術師さん、お代わりをおつぎして」

 そう言ったユイの声も、まるで自分がほめられたかのように、嬉しそうだった。

 ルカの用意したスイーツも大好評だった。おいしい、おいしい、を連発し、こちらも、あっという間に完食してしまった。

 ユイもスイーツを食べ終わってから、紅茶で喉を潤した後で、ちょっとばかり沈んだ声で、ミナトさんに告げた。

 「この人の魔術は完璧ですけど、私の魔術は、アサヒさんの放つ強いオーラにかき消されて、まるで通用しませんわ」

 ユイの自嘲気味の言葉に、ミナトさんは首をすくめるようにして、小さく頭を下げた。

 「ユイさんじゃなくても、こういう結果になるのは、目に見えていましたわ。私も、何度か言ったんですけどね。こんな写真を見て、誰がお見合いしようなんて気になるもんですか!? ってね。でも、全然ダメ。姉は、被写体になると、絶対に自分の意思を曲げようとしないんです、昔から。そのせいで、現場ではよくもめたんですけどね。それでも、姉は学ぼうとしないんです。もしかしたら、今も、雑誌の撮影で、トラブルを起こしているかもしれません・・・ 」

 ミナトさんは大きなため息をついた。

 「それで・・・ 」

 と、ユイが言いかけたとき、かぶせるようにして、ミナトさんが言った。

 「そう。その件で、今日はうかがったんです」

 ハンドバックから封筒を取り出し、ユイの前に差し出した。

 「姉にお見合いを勧めたのは、私です。同じ業界にいる男性だと、姉の気質から考えて、どうしても仕事の方に関心がいってしまって、お見合いにならないんじゃないか? そう思って、ユイさんの相談所に入会させて、業界人以外の男性を紹介してもらおうと・・・。でも、結局、お見合いにまでたどり着けないことが分かりました。

 私、考えを改めました。ある程度、業界に関わっている人の方が、姉のようなド派手なタイプにも、耐性というか、免疫があるんじゃないか、と。

 夫の仕事の関係で、何人かの知り合いに当たった結果、この男性が見つかったんです。その方の写真と釣り書きが、封筒の中に入ってます」

 ユイが封筒の中身を確認した。ルカも一緒に見るよう、促した。そして、写真を目にした途端、二人は声を揃えてつぶやいた。

 「シブイ! 」

 黒のタキシード姿に、蝶ネクタイ。胸板が厚くて、肩幅も広く、カッコいい。足も長くて、アサヒさん同様、日本人離れした体形をしていた。

 日本人離れ、ということでは、顔立ちもそうだった。何といっても、彫りが深い。鋭い眼差しが、きれいに整えられた眉の奥の方で光っていた。鼻が高く、口ひげをたくわえて、うっすらと、どこかニヒルな笑みを浮かべていた。

 「往年のハリウッドスターみたいね」

 ユイがそう言うと、ミナトさんもうなずいた。

 「日本の大学を出てから、アメリカに渡り、再度工学系の大学に入り直したって話です。

 大学在学中から、コンピューター・グラフィックスの腕前を買われて、いろいろなイベントで、技術担当を任されていた人です。この方のことをよく知る人の話では、CGの可能性を探求する技術屋さん、ということらしいんですが・・・。

 帰国したのは5、6年前のことで、すぐに会社を立ち上げたんです。まだ、創業して日は浅いんですが、卓越したCGの技術を駆使した演出方法で、既に、いろんなイベントから引っ張りダコなんですって。

 夫が手がけたイベントで、演出を手伝ってもらったことがあるそうで、姉のお見合い相手はいないか、と話していたところに、この人の名が浮上してきたというわけなんです」

 ミナトさんの話を聞きながら、同封されていた釣り書きに目を走らせたユイは、このハリウッドスターの名が、安住清一郎さんであることを知った。

 「念のためにうかがいますが、こうして写真も釣り書きも用意されているということは、当然、安住さんはお見合いに同意され、ウチに入会する意志があると考えてよろしいんですね? ・・・もしかして、お見合い相手がアサヒさんであることも、先方には伝えてあるとか・・・? 」

 ユイの問いに、ミナトさんはしっかりとうなずいた。そして、こうも付け加えた。

 「例の姉の写真もみてもらっています。その上で、彼は姉とのお見合いに同意したとも聞いています」

 怪訝けげんそうな表情を浮かべて、ユイは、さらに聞いた。

 「そこまでされるんだったら、何もわざわざウチを通して、お見合いをなさらなくても、いいんじゃないですか? 」

 ミナトさんは、じっとユイの目を見つめてきた。

 「姉はあなたを信頼しています。あなたが仲介してくれるから、何度話が流れても、姉はお見合いに応じようとしているんです。姉はそういう人なんです。

 ですから、彼のことも、あなたが見つけてきた相手だ、ということにして下さい。この話に、私は、一切ノータッチだ、ということに・・・。もしも、私が見つけてきた相手だとわかったら、姉はお見合いに応じない、と思います。この点については、安住さんにも話してあって、理解してもらっていますので」

 ユイも強い眼差しで、ミナトさんの目を見つめ返した。

 (姉妹の関係もデリケートだわ。他人からはうかがいしれない、微妙な心の綾がある・・・ )

 そう思いながら、ユイは、はっきりとした口調で答えた。

 「分かりました。・・・お姉さんに、そこまで信頼していただいていようとは、身に余る光栄です」

 そう言い終えると、ユイの視線はおだやかになり、ミナトさんに問い返した。

 「ところで、安住さんは、どうしてお見合いに同意したんでしょうね? これまでお見合いを断ってきた男性が、異口同音に語った、妻としては、どうも・・・ という感覚が、彼にはないんでしょうか? 」

 ミナトさんにも、はっきりとしたことは分からない様子だった。それでも、思案しながら、こう答えた。

 「アメリカでの生活が長くて、背の高い女性を見慣れているのかもしれません。独身女性ばかりじゃなくて、円満な夫婦生活を営んでいる長身女性にも会っているでしょうしね。それと、アメリカでも日本でも、多くのイベントに関わってきた方ですから、姉のような派手な印象のモデルも目にしていることでしょう。そんな体験が、幸いしたのかもしれませんね。

 写真を見せた方のお話ですと、姉の写真を安住さんが見たときの反応は、とても嬉しそうで、驚いてる雰囲気はなかった、と聞いてますが」

 ユイは、自らの胸の内をのぞきこむような真剣な顔つきになり、暫く黙り込んだ。そして、自分なりに区切りをつけるようにして、こう言った。

 「いずれにしても、もうさいは投げられたんですね。ならば、進軍あるのみです。

 改めて、私の方から、お姉さん宛に、この写真と釣り書きを郵送し、安住さんとのお見合いに応じるよう、念押ししておきます。頃合いを見て、彼からお見合いを希望するとの返事が届いた、と連絡します。併せて、一度事務所でお会いしておきます。手続きもそうですが、私なりに、彼の人となりを把握しておきたいからです。お二人の都合のあう、直近の日程で、お見合いを設定します。

 ここまでは、短期間で一気に進むでしょう。

 問題は、お見合いの場でのお姉さんです」

 ここまでは、立て板に水で、ユイが喋り、ミナトさんは黙って聞いていたのだが、ここで、ユイの喋りを遮るようにして、割って入ってきた。

 「ああ、もうその段階にきたら、私の出番はありません。恐らく、ユイさんの出番も・・・。姉に任せるしかないんです。

 お見合いの場は、姉にとって、イベントの舞台に他なりません。主演はもちろんのこと、演出も兼務です。幕が開いたら、主演の独壇場です。私たちに出来ることといったら、祈ること。それしかありません」

 ミナトさんが語り終えると、沈黙が訪れた。

 二人の傍で、ずっとそのやりとりを聞いていたルカの目に、外の明るさが、急に陰ったように映った。初夏の爽やかな空気を持ち込んでくれたミナトさんの頭上に、昨日までの雨を降らせ続けた雲が、再び広がり始めている・・・。ルカには、そんな気がしてならなかった。

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