第32話 アサヒ

 「うわ~っ! 濡れた、濡れた。ルカ、タオル取って! 」

 静まり返っていた事務所に、突然、喧噪がなだれ込んできた。ルカがタオルを渡すと、ユイは、髪から肩、腕、そして、パンツの裾にかけて、手当たり次第に拭き始めた。別のタオルを手に取ったルカは、ユイの拭き損じた箇所を、まるで恋女房のように、かいがいしく拭いて回った。

 「梅雨入り宣言が出た途端、お空は律義に、毎日雨を降らしてくれる。こうも降り続くと、昼間でも、何だか肌寒いわ。梅雨寒って言うんだっけ? 」

 ユイは帰ってくるなり、ひとり喋りづめに喋り続けている。

 (妙にハイだ。今日はお昼過ぎから、新規の会員さんとお茶してくる、と言って、出かけていったけど、出先で何かあったんだろうか? )

 ルカは、お喋りにあいづちを打つ間もなく、ユイの傍から離れずに、次に命じられることを待っていた。

 ルカを振り返ったユイの目は、興奮でキラキラと輝いてるようだった。今、見てきたことを喋りたくって、待ちきれないという感じで、言葉が溢れ出てきた。

 「今度の会員さん、スゴイよ! これまでにも、モデルを職業にしている人とは何人も会ってきたけど、今回の彼女は、ホンモノだわ。ひと目見て、全身から出ているオーラが違う。人は、他人の視線を浴びれば浴びるほど、磨かれていくものだけど、あの人は、これまでにどれだけ大勢の人たちの視線を浴びてきたんだろう? 

 ・・・ま、ともかく、論より証拠よ。この写真、見て」

 ユイが取り出した写真をひと目見るなり、ルカの目は釘付けになった。

 モノクロのバストショット。被写体の女性は、カメラ目線ではなく、憂いがちな横顔を見せ、視線を斜め下に落としていた。美しく整えられた眉の先端に、アイラインが長く引かれていた。それとは反対方向、下向きの視線に添うように伸びた高い鼻筋が、絶妙のラインを描いていた。きゅっと結ばれた口元が、女性の意思の強さを感じさせた。

 そして、何よりも印象的なのは、彼女の視線の先から吹き付けてくる風にあおられ、後方になびく長い黒髪だった。一本一本の髪が、意思を持っているようで、りんとした美しさという次元を超えて、凄みさえも感じさせる。

 身に着けていた衣装も、大人の色香を際立たせていた。ボディーラインにフィットしたニット。バストショットのせいで、よくは分からないが、恐らくはニットワンピースだろう。スクエアに大きく開いた胸元が色っぽいが、下品ではない。首元に浮き上がった細い鎖骨が、彼女の気品を引き出していた。

 「どう思う? 」

 興味津々な様子で、ユイが聞いてきた。

 ルカは、口ごもるように、

 「・・・スゴイ・・・です」

 とだけ答えた。そうとしか言えなかった。

 次の写真を見て、また違った意味で驚かされた。同一人物であることは間違いないのだが、雰囲気がまるで別人だった。

 肩ひもに女らしさがにじみ出ている、オレンジのキャミソールに、胸の辺りで袖を軽くクロスさせて羽織っている黒いカーディガンを合わせているのが、お洒落だ。 

 スパークリングワインの入ったグラスを掲げて、屈託のない笑顔を見せていた。真っ赤なリップに、白い歯が輝いていた。モノクロの写真で表現されていた、意思堅固でもの憂げな女性が、こんなあけっぴな日常を送っていることが不思議でもあった。その大きなギャップが、この女性の魅力でもあるのだろう。

 「感情豊かな、素敵な大人の女性ですね」

 無防備な笑顔から目を離さずに、ルカがそう言うと、ユイは、肯定も否定もせずに、こう答えた。

 「最後の写真を見て。それが、彼女の本質だから」

 命じられるままに、3枚目の写真に目を留めたまま、ルカは動けなくなった。そこには、ファッションショーのランウェイを歩く女性の全身が写っていた。ランウェイを挟んで、両側にぎっしりと観客が埋め尽くしていたが、ライトに当たって、浮かび上がった観客の顔は外国人ばかりで、日本人はいなかった。

 「ここは、どこですか? 」

 自分が生きてきた世界との余りの違いに、気おくれしてしまうのをこらえながら、ルカは聞いた。

 「イタリアのミラノ。私はこういう世界にはとんとうといから、分からないけど、世界的にも有名なファッションショーらしいわ。一流じゃないと出られないって、本人が言ってたわよ」

 そう言って、ユイは楽しそうに笑った。

 衣装の色合いは、濃いパープルで統一されていた。色目としては地味な部類に入るのだろうが、この女性が着ると、ゴージャスな色合いに見えてくる。

 ボディーラインにピッタリとフィットしたロングドレスを身にまとっているのだが、柔らかなレースが用いられているために、全身が透き通って見えた。だから、下着は単なる下着ではなく、あくまでもドレスの一部として露出していた。セクシーなビキニ。下着のファッションショーか、とカン違いしてしまいそうな装いであった。

 写真は、彼女が足を一歩、大きく踏み出した瞬間を捉えたもので、踏み出した側のドレスは、太ももの付け根の辺りまで、深いスリットが入っていた。そのため、太ももから足先まで、全てが剥き出しであった。

 息を詰めて見入っていたルカが、小さく息を吐いてから、ボソリとつぶやいた。

 「長い足・・・。こんなにも長くて、キレイな足、私、見たことがないかもしれない・・・ 」

 すると、ユイが、その後を受けるようにして、こう言った。

 「直に会うと、もっとスゴイわよ。手も足もビックリするくらい長くて、細くて、真っ直ぐなんだから。小さなテーブル席になんか座ったら、手足が納まらなくて、邪魔になるくらいよ」

 こんな大胆な衣装を身にまとい、大勢の観客の視線を一身に集めて、ランウェイを闊歩かっぽする彼女は、自信に満ち溢れていた。濃いアイメイクを施した目元には、強い光が宿っていた。口元に浮かべた微笑とあいまって、この写真に切り取られた一瞬の心の声、叫びが、ルカには、はっきりと伝わってきた。

 「見て、私を見て! もっともっと私を見てちょうだい! 」

 その声が、ルカの頭の中で、わんわんと響いた。圧倒されてしまった。その生きるエネルギーの強烈さに。

 世界基準に達したモデルとしての価値に、彼女は微塵も疑問を抱いていない。会場を埋めた観客から熱視線を浴びることが、当然だと考えている。そして、憧憬と賛美(ときとして、劣情も含めて)の込められた視線を浴びれば浴びるほど、モデルとしての、女性としての魅力は磨かれていく。それを見せる技術も磨かれていく。これが、自分に最もふさわしい生き方なんだ、と彼女は確信しているに違いない―。

 ルカは圧倒されながらも、余りにも自分からは遠い存在に、シンパシーを感じられず、次第に、その熱量に疲れを覚え始めていた。

 疲れを覚えるのと同時に、ルカには、ある疑問が湧いてきた。

 「ところで、こんな華やかな仕事をしている女性が、なぜお見合いしようと思ったんですか? 世界を飛び回ってる女性なんですから、仕事でもプライベートでも、出会いは多いでしょうし、こんな絶世の美女を、世界の男性が放っておくわけない、と思うんですけど? 」

 ルカの胸の中で、スポットライトを浴び続けている彼女と見合いとが、どうしても結びつかなかったのだ。

 よく言ってくれたとばかりに、ユイも納得顔で応じた。

 「そう。私も思ったのよ。なぜ、お見合いしようと考えたのか? その辺りを確認するために、今日、直接彼女に会ってきたのよ。会ったのは、彼女だけでなく、妹さんも一緒だったけどね。実は今回の話を生んだ、いわば、キーマンが、妹さんだったのよ」

 ユイの話によれば、写真に写っていた女性の名は、松平アサヒさん。そして、アサヒさんとの見合いに話を結びつかせたのが、妹のミナトさんだった。

 アサヒさんは、日頃東京で一人暮らしをしているのだが、今は企画を進めているファッション雑誌の仕事の都合で、この地に嫁いできた妹のミナトさんのマンションに身を寄せていた。

 ミナトさんの夫は、イベント会社を経営していて、全国を忙しく飛び回っている。結婚するまでは、姉と同様、モデルをしていたミナトさんは、この業界での顔の広さを活かし、会社の仕事を手伝っていた。

 今も、アサヒさんは幾つものファッションショーから出演依頼を受けつつ、今回のようにファッション雑誌のモデルの仕事を引き受けたりして、忙しい日々を送ってはいた。けれども、以前に比べると、ずいぶんと仕事の質が変わってきた。

 アサヒさんは、今年35歳になる。若手が次々に登場してくるファッション業界にあって、顔ぶれの新陳代謝は激しい。いくら売れっ子のモデルでも、アラフォーの声を聞くようになれば、オファーの数はめっきり減ってしまうのだ。

 仕事を選びさえしなければ、暫くの間は、食べるのに困るようなことはないのだが、そうもいかない。若い頃は、有名なファッションショーに出るため、世界中を飛び回っていたアサヒさんのことだ。どうしても、小さな仕事を受けるとなると、抵抗感を覚えてしまう。私はその程度のモデルじゃないわ、というプライドが邪魔するからだ。

 そんな日々を送る内に、何かしら今の暮らしに物足りなさを覚えるようになった。

 これまでにも、世界のあちらこちらで、恋は数限りなくしてきた。強烈な恋に落ち、結婚を意識したことも、一度や二度ではなかった。でも、仕事の方が面白くて、本気で結婚を考えるようなことはないままに、今に至ってしまった。何かの拍子に、言い知れぬ後悔の念を抱くようにもなっていた。

 そんなタイミングで、妹のミナトさんから、思いも寄らぬ話を持ち掛けられたのだ。

 見合いをしてみないか? と。

 ファッション業界に身を置く限り、姉は一生結婚できないだろう、とミナトさんは考えていた。仮に、イイ人と出会っても、仕事人間というか、この業界でスポットライトを浴びていないと、生きていけない姉では、本気の恋愛モードには入れずに、仕事の方に目が向いてしまう。あくまでも仕事上の付き合いという関係から抜け出せない、と読んでいた。

 ならば、最初から結婚することを目的に、きちんとした段取りを踏んでいく見合いの流れに乗った方が、姉のような人間には可能性が高いだろう、と考えたのだった。

 姉のことを心配した、そんな妹からの提案にも、アサヒさんは当初乗り気ではなかった。ところが、姉の性格を熟知したミナトさんは、こう切り出した。

 「お見合いなんて古臭い、と考えるのが古臭いのよ。アカの他人だった男女が、不思議な縁で巡り合い、お見合いの席という一つの舞台に立って、スポットライトを浴びる。ギャラリーがいないからお姉さんには不満でしょうけど、イベントの一つだと思えば、イイわけよ。いろんな華やかな舞台にたってきたお姉さんだけど、お見合いという舞台は初めてでしょ? これも新たなトライ、冒険だ、と考えて、やってみたらイイのよ。知らない世界だから、案外面白いチャレンジになるかもよ」

 この言葉が、アサヒさんの気持ちを動かすきっかけになった。

 なんとかして、行き詰まりを打開できないものか、とアサヒさんが考えていたときだっただけに、ミナトさんの言葉が刺さったのかもしれない。とりわけ「あらたなトライ」、「冒険」、というワードに姉が弱いことを、ミナトさんは知っていたのだろう。

 乗り気になった姉を見て、ミナトさんは早速動き出し、友人のつてを使って、ユイの営む結婚相談所にたどり着いたのだった。



 

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