第31話 ユイと竹宮

 ユイは声のトーンを落として、ルカに言った。

 「あのとき、私は、二度目の恋をしたのかもしれない」

 ルカは、淡々と語り続けられるユイの話を聞きながらも、ユイの口にしたガラスのナイフが、心に突き刺さり、ナイフの刺さった心が置いてきぼりになっているのを感じた。

 ユイの話が作り出す流れに乗って、どこまでも流れていこうとする心と、ナイフに固定され、動けなくなった心。ルカは、分裂した心を意識し、息苦しくなった。

 そして、流れに乗っていたはずの心までが、

 「あのとき、私は二度目の恋をした」

 という言葉でせき止められ、絡みつく言葉に身動きがとれなくなった。

 過去に体験した壮絶な恋愛話を聞きながら、ユイが本当にルカに伝えようとしていることに、近づいているような気がした。自分一人で考えているだけでは見えてこない。そんな思いがルカの口を開かせた。

 「二度目の恋、って・・・ユイさんは今でもそう考えてるんですか? 」

 自分の内面に向けていたユイの目が、その問いに反応し、くいっと上向き、ルカの目を見返してきた。意地悪な目ではない。透徹した、澄んだ目をしていた。

 「病室で母から、竹宮が奥さんと子供、そして、愛人の私まで、何もかも棄てて、行方をくらました、と聞かされて以来、何回も、何十回も考えたわ。

 私は恋をしたんだろうか? ってね。一緒にいれば、孤独ではなかった。彼と作る時間は心地良かった。もちろん、セックスもね。

 でも、だからって、それが恋だったんだ、と絶対に言い切れるのか? 考えるたびに、分からなくなったわ。いつ、失うことになるかもしれない、という恐怖感。奥さんに隠れて、逢瀬を重ねていることの背徳感、スリル。それが、まだ小娘だった私を酔わせ、恋してると錯覚させたのかもしれない、ってね」

 ユイの口元に、薄い笑いが出来かかったが、笑みになる前に消えていった。

 「『錯覚』と言いましたよね? 」

 ルカにしてみれば、精一杯の厳しい目つきで、ユイをにらみつけた。でも、ユイの目に動揺はなく、相変わらず透徹した澄んだ目のままだった。ルカがそのことに気づくのを、待ち構えていたようでもあった。

 「私と竹宮の関係を、ヒロミさんと斉木さんのケースに重ねてる、と言いたいんだよね? 」

 ルカは黙ってうなずいた。

 「ヒロミさんと斉木さんのケースは、吊り橋効果という理論で説明がつくけど、私のは、それに当てはまらない。

 だけどね、地震によるドキドキを恋とカン違いしたのと同じような説明をすることは可能よ。つまり、不倫によるドキドキを、命を懸けた熱愛とカン違いした、とね。

 本当の原因は、地震や不倫にあるのに、脳がカン違いして、原因は恋をしたせいだ、と思い込んでしまう心理をね、難しい言葉になるけど、心理学では『情動の錯誤帰属』と呼んでいるの。

 そうやって広げて考えれば、ヒロミさんと斉木さんのケースと、私と竹宮のケースを同列に扱うことも可能になる・・・ 」

 ルカの目が、一段とキツくなった。

 「ユイさん。それって、やっぱり悲しすぎます。錯覚だの、カン違いだの、言葉なんてどうでもいいですけど、恋心をバカにしすぎていませんか? 恋が神聖なものなのかどうかなんて、私には分からないですけど、もうちょっと、恋を大切にしてほしい。私が言いたいことは・・・ 」

 「分かった」

 ユイの言葉が、ルカの訴えにおおいかぶさるように告げられた。

 「分かってるの。だから、恋じゃないなんて、ひと言も言ってないわ。斉木さんやヒロミさんからの連絡に、流した私の涙は嘘じゃない。ホントに嬉しかったもの。恋じゃなければ、嬉し涙なんて流せないもの。そうでしょ? 

 私が結婚相談所を始めた理由は、幾つもあるんだけど、結果はどうであれ、竹宮との恋も、恋だったんだ、と納得できたことが、一つの理由よ。

 あの男と一緒にいると感じられた、心地よさ、何もセックスのときばかりじゃないのよ、それを恋と呼んでも構わない、と思えるようになった。そんな快楽をもたらせてくれる相手となら、結ばれてもいいんじゃないのかな?

 でも、アイツはダメ。妻子持ちで、奥さんと別れようとしなかった。クズ男は問題外ね。

 不倫は犯罪。民法709条と710条に抵触する犯罪行為なの。裁判になれば、賠償義務が生じてくるし、社会的地位を脅かされることになる。

 それを未然に防ぐため、結婚相手からクズな男を排除するために、お見合いは有効なの。昔ながらのやり方で、釣り書きを交わしてから、お見合いをして、仮交際、本交際を経て、成婚へと至る。まどろっこしいように思えても、チェック機能が働いている点で、人間の知恵なんだ、と思っている。

 竹宮みたいなクズな男にひっかかって、泣きを見るような女は、私一人で十分。でも、私がアイツといて感じた気分を味わわせてくれるお相手ならば、さっさと結婚しちゃえば、と迷っている会員さんの背中を押してあげるのが、私の仕事。そんな仕事に手応えを覚えているわ」

 ユイの話は、そこで終わった。透徹した澄んだ目に変化はなかった。終始淡々とした語り口で、まるで川が静かに流れ去るように、海へと注いでいった。

 ルカに流れは見えても、その流れが行きつく海が見えなかった。

 (カン違いも、恋だと思えるなら、恋。それで、結婚したカップルは、無事、海にまでたどり着けるのか? カン違いの恋は、やっぱり、ボタンのかけ違いで、早晩破綻してしまうんじゃないのか? )

 ルカの疑問は、後から後から湧き出して、尽きることがなかった。けれども、疑問の全てを、ユイにぶつける気にはなれなかった。恋や結婚を言葉で語りきれるとは思えなかったのだが、カン違いもまた恋だ、と断言してしまうユイのことだ、トンデモナイことを言いださないとは限らない。それがまた、ルカには恐ろしく思えたからだった。

 何か言いだそうとして、言えずに、モジモジしているルカに目を留めながら、ユイの胸の奥底から、プカリと浮き上がってきたかのように、言葉が漏れた。

 「母とぶつかることが多くなったのは、退院して、実家で療養生活を送るようになってからのことなの。それ以前から、母のことを良くは思っていなかった。思春期の頃からかな? 母は、自殺した父のことを、否定的な物言いでしか、私に語ろうとしなかった。私は、ただそれを黙って聞いていただけだった。でも、心の中に、軽蔑・嫌悪感が、間違いなく溜まっていったわ。母は醜い女だ、ってね。

 退院してから、自宅でろくに物も言わずに、寝てばかりいる私に、あるとき、堪忍袋の緒が切れたというのかな、竹宮のことも、父親のことも一緒くたにして、口汚く罵り始めたことがあった。昔のように、黙って聞き流そうとしたんだけど、そのときは母の余りの言い草に耐え切れなくなって、感情的に言い返してしまった。

 『家族を棄て、家族のことなんか省みずに、ひとり身勝手に死んでしまったお父さんを、ロクデナシ呼ばわりするけど、ガラスみたいに壊れやすいお父さんひとり守れなかったのは、アンタじゃないの! お父さんがイイカゲンな人だと言うなら、アンタは妻として、イイカゲンな人よ! アンタが、お父さんを殺したのよ! 』

 思春期の頃から、心の中で、ずっと思い続けていた私の本音。こういう本音は、凶器だわ。言われた母の顔は、みるみる蒼白になっていった。そして、思いっきり、頬を平手打ちされたわ。母に手を上げられたのは、生まれて初めてだった。

 その日を皮切りに、どんな些細な事でも、母から何か注意されれば、必ず言い返すようになったわ、ヒステリックに、その何倍もね。次第に母は私から離れていった。口をきくことも少なくなった。

 家にひきこもるようになり、母とぶつかり、挙句の果てに冷戦状態となって10年。30歳を過ぎた私は、ふらりと家を出た。いろんな人と出会い、いろいろあったけど、この雑居ビルを借りられることになり、結婚相談所を開設したの。

 母とのすれ違いは、今でも続いてる。決着はついてないの。でも、あなたがここで助手をしてくれるようになってからは、母との会話も増えてきたし、なんとなくだけど、母にも変化が生まれてきたみたい。あなたが祖母と出会い、祖母の言葉を聞くという奇跡がとりわけ大きな意味を持ったと思うわ。

 ひと言で言えば、母は優しい人間になった。年を取ったってこともあるんでしょうけどね」

 いったん言葉を切ったユイだったが、何かを思い出したように、ふふっと含み笑いをした。ルカには、唐突に母親のことを語り出したユイの意図を読み切れなかった。再びユイが口を開くのを待った。

 「つい最近のことなんだけど、家による用事があってね。別に母と会う必要はなかったんだけど、リビングから楽しそうに談笑してる声が聞こえてきたの。ドアが半開きになってたものだから、そっと中をのぞいたら、着付け教室の生徒さんたち・・・とは言っても、みんな還暦近いオバさんばかりだけどね、母を中心に、4~5人いて、頭を寄せ合って、何かを見ていたの。

 私の位置からは、よく見えなかったけど、みんなが注目していたのは、母の手にあったもの。どうやら写真のようだったわ。

 生徒さんの一人が、

 『ちょっとピンボケですね。でも、時間が経つと、これはこれで味があって、いいですね』

 と言うと、母が答えたの。

 『あの人は、ひどいあがり症でね。娘が生まれたばかりで、初めての記念撮影だったものだから、手が震ってた。ハイ、笑って~、ハイ、ピース、その声までうわずってたのを覚えている。何枚も撮ったのに、こんなのが一番マシだったんだから、あがり症にもほどがあるわよね』

 母の楽しそうな笑い声が響いて、その場にいた生徒さんも、みんな声を上げて笑ってたわ。

 ・・・ウチには、父の写真がないの。結婚写真も何もかも。父の遺体が日本海で発見されて、間もなくして、父が写っている写真を全部捨てたって、母から聞かされたことがある。

 だから、父の写ってない写真、赤ん坊の私を抱いた母を撮った写真を見せながら、そこに写ってない人を話題にする。そうせざるをえなかったんでしょうけど、何だか、哀しいなあ~って、最初は思ってたのよ。

 母に会わないまま、家から出て、ふとね、こう思ったの。

 父に自殺されて、40年近く経ち、ようやく父のことを許せるようになった母は、改めて、父と恋を始めたのかな? ってね。聞けば、否定するに決まってるけど、夫婦って、結婚って、そういうものかもしれない・・・ 」

 今度こそ、静寂が訪れた。ルカの問いの一つに、ユイは答えたのだろうか? 夫婦、結婚という川が、海にたどり着く仕方にはいろいろある・・・。ルカは自らの心に沈潜しながら、まだ私には海が見えない、と思った。

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