第30話 ユイと竹宮

 やはり、氷雨の降る肌寒いある日のことだった。

 いつものように、どちらが誘うともなく、ホテルへと車を走らせた。いつも通り、凪の海をたゆたうようなセックスをした後、珍しく竹宮が、話がある、とユイに告げた。どんな場面でも、心を動かすことのない彼には似つかわしくない、深刻そうな表情を浮かべていた。

 とっさに、ユイは、聞きたくない、と思ったが、話を拒絶するわけにはいかなかった。

 初めてだった。竹宮が家族のことを口にしたのだ。しかも、信じ難い、ショッキングな内容だった。

 女のカンは鋭い。何か月も前から、二人の関係は、奥さんにバレていた。今すぐに別れて、と竹宮は懇願されたのだが、言を左右にするばかりで、隠れてユイとの関係を続けていたのだった。

 ユイは、いまいましく思った。

 (そんな話を、このタイミング、こんな場所で話せるなんて・・・。この男はクズだ! )

 だが、口には出せなかった。

 奥さんの心は、急速にむしばまれていった。パートの仕事をしていたのだが、体調を崩し、パートにも出られなくなった。部屋にとじこもるようになり、行き来のあった、同じアパートに住む主婦たちが、心配して、様子を見にくることがあった。

 その日。保育園を休ませた子供を抱いて、魂の抜け殻のようになった彼女が、アパートの屋上へと上がっていく姿が目撃された。目撃したのは、一番仲の良かった主婦友だちだった。不審に思い、跡をつけていった。

 屋上の柵は、人の胸の高さまであったが、屋上に転がっていた、ビールケースの上に乗り、我が子を抱いて、柵を乗り越えようと、前かがみになった後ろ姿が、目に飛び込んできた。間一髪のタイミングだった。抱いていた子供もろともに、その主婦友だちは、竹宮の奥さんに抱きつき、大声で泣き喚いて、助けを求めた。

 誰かが通報したのだろう。ほどなくして、アパートの駐車場に、パトカーと救急車が到着した。

 無事保護された奥さんと子供であったが、彼女は事情聴取しようとする警察官と意思疎通のはかれる精神状態ではなくなっていた。

 今、彼女は精神病院の入院病棟で治療を続けていた。幼い子供は、田舎から祖父母が駆けつけてきて、暫くの間は面倒を見ることになった。

 そんな悲劇を聞かされた後、次にユイに向けられるに決まっている竹宮の言葉を察知したユイは、逆上した。

 ベッド脇にある棚に置かれた花瓶を握りしめると、花束を投げ捨て、頑丈な柱に叩きつけた。花瓶は割れ、幾つもの破片が飛び散った。飛び散った破片以外の、残りのガラスの塊を握ったユイの手から、血が滴り落ちた。床に転がった破片の一つ、鋭利な刃物の形をしたガラス破片を拾い上げたユイは、棒立ちになった竹宮と向き合った。

 彼の顔が恐怖に歪んだ。刺されると思ったのだろう。慌てふためいて、ベッドの陰に身を隠そうとした。

 (こんな男だったのか・・・!? )

 ユイは脱力したように、薄笑いを浮かべた。だが、その直後に、怒りとも哀しみともつかぬ激情が噴き上がり、白目を剥いたすさまじい形相で、竹宮を怒鳴りつけた。

 「アタシに、こうしてほしいんでしょ!? 」

 ユイは手加減することを忘れて、左手首を握りしめたガラスで切り裂いた。

 鮮血がほとばしり、ベッドの周りは血の海と化した。

 その後、どうなったのか、ユイは覚えていなかった。意識が戻ったのは、病院のベッドの上でのことだった。ベッドの脇に据えた丸椅子に、母親のルミ子が座っていた。目覚めたユイの顔に、自分の顔を近づけてきた。

 (何を言うつもりだろう? )

 思わず、ユイは身構えたが、ルミ子は何も言わなかった。その目には、ひと言では説明しきれない複雑な感情が宿っていた。今は、何も考えたくなかった。ユイは目をつぶると、再び眠りに落ちていった。

 ユイの左手首に負った傷は、相当深くにまで達していたようで、入院期間は長引いた。怪我の具合はもちろんだが、それ以上に、心に負った傷の方が深かった。

 担当の精神科医から、症状の説明を受けたのだが、うつ症状が深刻で、希死念慮にとらわれ、発作的に自殺を企図する危険性がある。投薬治療を続け、落ち着くまでは、退院させるわけにはいかないと、冷淡な口調で宣告された。

 生けるしかばね―そんな乾いた言葉が、ふっとユイの頭に浮かび、シャボン玉のようにあっけなく弾けて消えた。

 死ねないから・・・死ぬことさえ許されないから、結果的に生きているだけ・・・。絶望的な気分を抱いて、ユイはいつ終わるともしれない入院生活を送った。

 病院に搬送されてから、一週間ばかり経った頃だろうか? もはや、日にちの感覚さえなくしていたユイには、定かではなかったが、どこでそんな情報を聞きつけてきたのか、母親が、竹宮とその家族の情報を伝えてくれた。

 警察で事情聴取を受けた後、彼は姿をくらましてしまった。まだ、入院中の奥さんのもとへも、訪ねてくることはなかった。

 孫の面倒を見ている祖父母が、行方不明になった竹宮の捜索願を警察に出したというのだが、その行方はようとして知れなかった。

 そうした情報を耳にしても、ユイの心は動かなかった。竹宮は愛人のユイを棄て、そして、妻と子を棄て、姿をくらました・・・。それだけのこととしか、ユイには受け取れなかった。ただ、ボンヤリとではあるが、祖母を棄て、愛人と共に行方をくらませた祖父のことが思い出された。さらにそこへ、母親を棄て、死出の旅へと出立しゅったつした父親の面影がかぶさった。

 三世代にわたる女の人生に、暗い影を落とす、三人のクズな男たち・・・

 母親の目に留まらぬように、ベッドの上で、ユイは顔をそむけて、薄く笑った。

 ユイに感情が戻り、心が動きだしたのは、退院が許され、自宅療養に入って、暫く経ってからのことだった。

 突然、人生という舞台が暗転になり、一切の説明がないままに、演目が打ち切られてしまった。演者であるユイに、台本はなく、宙ぶらりんな気分で生きることを余儀なくされた。自分への仕打ちは理不尽だ。

 だが、自分に怒る資格はない。他人の家族を一つ、潰してしまったという負い目に、ユイは苦しんだ。加害者意識が、いつもついて回った。唯一の救いにも思われた死刑の執行されない、無期懲役囚―それがユイの自己意識だった。

 罪深い自分を他者の目にさらすことが恐ろしく、ユイは一歩も自宅の外へ出ることが出来なくなった。

 昼間でも、カーテンを閉め切ったままの部屋で、窓際に背をもたせて、ボンヤリとしていたとき、カーテンのすき間から、電柱の陰でタバコを吸っている人影を見かけたことがあった。身の内がざわついた。

 (もしや・・・!? )

 まさかと思いながらも、どうしようもなく、その人影に目をこらしてしまう自分がいた。

 人影の正体を見きわめようとする自分に問うてみた。

 (今でも、あの男のことを愛しているのか? ) 

 頭の中に、濃いもやがかかっているように、答えが見つからない。

 (逢瀬おうせを重ねていたときは、愛していたのか? )

 そう問いをたてても、答えは同じだった。竹宮とのセックス。男の胸に抱かれて、凪の海をたゆたっていたあの時間だけは、特別だったといえる。しかし、セックスを重ねたからといって、愛が深まったとは思えなかった。

 (とらえどころのない、竹宮と過ごした時間の中で、セックス以外の場面で、心が揺らいだのは、いつだったか? )

 その自問自答には、すぐに答えが出た。

 店内で、他の常連客から、彼が妻子持ちであることを知らされたときだった。

 もしも、二人の関係が、奥さんにバレたら、二度と会えなくなるかもしれない。最悪の場合、別れ話を切り出されるかもしれない。それだけは、厭だ!

 奥さんにバレないように、二人の関係は絶対に秘密にしなければいけない―そう思っただけで、ユイの胸は震えた。彼への思いが、10倍も100倍も強くなっていくのを感じた。

 常連客が口にする家族の話題に、無関心を装い、知らん顔をして、タバコをふかしている姿を、視界の端に入れながら昼食のパスタを頬張っていた。だが、はり裂けそうな思いに、何の味もしなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る