第29話 ユイと竹宮

 ユイは淡々と語った。特別な出来事を語るとい気負いはなく、なにげない日常風景を思いつくままに、ひとり語りする。そんな感じだった。

 実家から歩いて行ける距離に、カトリック教会があった。信仰とは無縁であったが、ユイはミサの雰囲気が好きだった。ステンドグラスを通して射し込む淡い光。パイプオルガンの奏でる荘厳な讃美歌の響き。お御堂みどうに広がる、エコーのかかった神父の声・・・。それらに包まれていると、ユイの心は安らいだ。

 神父と親しくなり、声をかけられたことで、休みの日に行われていたボランティア活動に参加するようになった。

 大学の卒業を意識し始めた、9月のある日曜日のこと。お御堂の前の駐車場を会場にした、不用品回収の場で、ユイは竹宮恵介と初めて出会った。

 パーマをかけた長髪をオールバックにして、口ひげとあごひげをたくわえたその顔は、一見すると、いかつそうであったが、切れ長の目は優しげだった。まだ夏の暑さの残る日だったこともあり、その日の竹宮の服装は、パステル調の空色の地に、白い雲が浮かぶアロハシャツ、カーキ色のカーゴパンツ。足元はサンダル履きというラフなものだった。

 それまで竹宮は、地面に敷かれたシーツの上にあぐらをかき、持ち込まれた不用品の仕分けをしていたものだから、分からなかったのだが、立ち上がると、180センチは優に超える長身だった。

 教会の前と歩道を仕切る柵を支柱に、軽く腰掛け、アロハの胸のポケットから取り出したタバコをくゆらせ始めた。

 好きでこんなことやってんじゃねえ。頼まれたから、仕方なくやってるんだ。

 タバコを吹かす竹宮の姿からは、そんな雰囲気がにじみ出ていた。

 年齢は、見たところ、四十歳くらい。お洒落には気を使っている、チョイワル風オヤジ―ユイの目には、そう映った。教会には不似合いなその外見が、何だかおかしくなった。

 ユイが、プッと吹き出したときに、竹宮と目が合った。くわえタバコの竹宮が、首を前へ押し出すようにして、挨拶してきた。そのしぐさが、またチョイワルオヤジ風で、ユイにはおかしかった。

 だが、そのときの出会いは、それだけで終わった。互いに名乗るでもなく、ボランティア活動が終わると、ユイは竹宮の存在を忘れた。

 竹宮と再会したのは、その年のクリスマス、教会でのミサの場でのことだった。なぜか、お御堂の席には座らず、後方の鉄製の扉にもたれかかるようにして立っていた。

 黒いコートを腕にかけ、黒いタートルネックに、こげ茶のツイードのジャケット、下はビンテージのジーンズで、革のブーツを履いていた。

 お御堂の通用口から入ってきたユイの目に、長身のその姿は、真っ先に飛び込んできた。竹宮も、ユイにはすぐに気付いたようだった。軽く頭を下げた彼の傍へ、ユイは近づいていった。

 「クリスマス・ミサには見えるんですか? 」

 小声で、ユイは聞いた。すると、苦笑いを浮かべ、声を潜めて答えてきた。

 「初体験です。どうにも落ち着かなくて、席に座っていられず、こうして一番遠い場所で立ってます」

 いかにも場違いだ、という感じの、所在なさげな様子に、またユイはおかしくなった。このときは、互いに名乗り合い、ユイはあいている前の方に座った。初対面のときと同様、ミサの間、ユイが竹宮のことを思い出すことはなかった。

 ユイが特別に希望したわけではなかったが、大学卒業後、懇意になった神父の勧めもあって、教会に付属する結婚式場の事務員として、就職することが決まった。それも運命だったのか、竹宮との三度目の出会いが準備されていた。

 昼休憩の際、教会内のレストランで食事する職員の多い中、ユイは息抜きのために教会のほど近くにあった喫茶店へと出向いた。ツタの絡まる、時代を感じさせるレトロな雰囲気の店であった。その店のマスターが、竹宮であった。

 顔を合わせた途端、二人は、あれ? という表情になった。それから、竹宮は、カウンターに水とおしぼりを置き、どうぞ、こちらへ、という意思表示をした。ユイは黙って従った。換気扇の傍に立ち、くわえタバコのまま、ボソッとつぶやいた。

 「今日は、カレーがおススメ」

 ユイは、ハイ、と答えた。まるで、常連客とのやりとりだった。

 コーヒーを淹れ、カレーを温めながら、ユイの顔も見ずに、また、つぶやいた。

 「結婚式場に就職したんだ」

 ユイは制服を着ていた。返事はまた同じ、ハイ、の一言だけだった。店内で二人が交わした会話は、それでおしまいだった。

 カウンター越しに出されたカレーを食べ、コーヒーを飲む。両方とも癖のない、ごく普通の味だった。

 出し殻のコーヒーの粉をつめた、錆びた業務用のコーヒー缶に、くわえていたタバコを押し付け、もう一本、新たにくわえたタバコに火を点けた。ワークシャツの胸のポケットに差していたクシを手に取り、オールバックの髪をとかし始めた。店内には、聞いたことのない、ハスキーな女性ボーカルによるスローバラードが、小さい音量で流れていた。

 (教会の雰囲気も好きだけど、ここの空気感もいい・・・ )

 ユイは、心の中でそう思った。そして、こうも思った。

 (明日も、ここにいるんだろうな・・・ )

 事実、その通りになった。この日以来、昼休憩になると、ユイは、いつもこの喫茶店の、このカウンターで、軽い食事をとるようになった。換気扇の傍で、くわえタバコをし、クシで髪をとかしつける長身の中年男。竹宮は、この店の一部、決まりきった動きしかしないカラクリ人形のようで、すっかり店に溶け込んでいた。

 ユイもまた、何も語らず、彼の存在を感じ取りながら、ただ食事をし、コーヒーを飲むだけの1体のカラクリ人形と化すことが、心地良かった。

 そんななぎのような、無為で、でも、心安らかな日々が一年近く続いた。そして、仕事を終え、外へ出たら、急に雨脚の強まった日があった。冷たい雨だった。あいにくユイは傘を持っていなかった。しのつく氷雨ひさめに濡れながら、ユイの歩を進める先は、実家ではなく、竹宮のいる喫茶店だった。店が近づいていくうちに、ユイの足取りは重くなった。

 店に着いたときには、全身ズブ濡れになっていた。店に入ってきたその姿を見て、竹宮は置いてあった何枚ものタオルを差し出した。そればかりでなく、竹宮自身がタオルを手にし、雨の滴り落ちるユイの髪や、からだに張りついた衣服を拭きだした。

 ユイはされるがままだった。

 突然、抑え込んでいた感情が、せきを切ったように涙となって溢れ出した。竹宮は顔色一つ変えなかった。黙って、濡れた髪の張りついたユイの頭を、そっと抱いた。ユイは目をつぶった。唇を重ね合わせた。タバコの臭いがした。

 一言も言葉を交わさぬまま、ユイは竹宮の車に乗り、ホテルへと向かった。男と関係を持つのは、初めてではなかった。大学在学中に、何人かの男と寝た。だが、どの男も、たった一度関係を持ったというだけで、ユイを自分のモノ扱いし、幻滅し、別れた。

 そんな過去の苦い経験が、頭をよぎったものの、竹宮とのセックスは、過去の体験のいずれとも違った。彼が入ってきたとき、確かに波が押し寄せてはきたのだが、荒れ狂う大波とはならなかった。温かいからだに包まれて、凪の海をたゆたっているような静穏な時間だった。その胸に顔を埋めて、いつの間にかユイは眠りに落ちていた。

 昼は竹宮の喫茶店で軽い食事をとり、月に何度かは、どちらが誘うというわけでもなく、ホテルでからだを重ねるという日々が続いた。

 彼からは、家庭の臭いが全くしなかった。その手の話を聞かされることも皆無だった。それでも、昼の食事をとっていたときに、たまたま居合わせた他の常連客から、竹宮の奥さんや子供について、話題にのぼったことがあった。奥さんは、彼よりも

10歳下、30代になったばかり。子供は男の子、まだ幼く、保育園に通っているらしかった。

 竹宮は無反応だった。自分の話ではない、といった態度であった。その後も、ユイに対して言い訳じみたことを、ひと言も口にしなかった。

 ユイにしても、妻子持ちであることを知ったはなは、さすがに身のうちでざわつくものもあったが、改めて問いただしたりはしなかった。明日のことなど考えまい。目の前にある今日一日だけを生きよう、とユイは考えていた。

 淡々と時が過ぎていったわけではない。ユイは彼との時を、淡々とやり過ごそうとしていただけのことだった。

 だが、そんな危うい二人の関係が、いつまでも続くものではなかった。

 

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