第8話 前の席の北上さん

 起きて――という優しい声が耳元で囁いた。


 とても甘くて、薔薇ばらのような香りを感じられる一声だった。誘われるように目を開けると、そこには綾がいた。



「おはよう、お兄ちゃん」



 なぜ綾が目の前に……いや、そうだった。昨晩は綾から一緒に寝たいと強請ねだられて、葛藤の末に俺は要望に応えたのだ。


 綾の天使の笑みを迎えながら起床できる幸せ。


 今日は一日、良い日になりそうだ。


 挨拶を返し、俺は半身を起こす。

 身体を伸ばし「おはよう」を綾に返す。すると、綾は嬉しそうに俺の手を握ってくれた。たったそれだけなのに、心が温かくなった。


 ロフトベッドから転落しないよう慎重に降りていく。



「それじゃ、わたしは朝シャワー浴びてくるね」



 綾はとても綺麗好きで一日に朝と夜と必ず二回お風呂に入っていた。だから、いつも良い匂いがするんだろうな。



 * * *



 リビングで待つとシャワーを浴び終えた綾が戻ってきた。すでに学校の制服に着替え、準備万端の様子。そして、ちょうどトースターが“チン”と鳴り、朝食も完成。

 俺は、お皿に盛りつけ『明治屋の信州育ちブルーベリージャム』をふんだんに塗りたくっていく。


「はい、綾。ちょうどトーストが完成した。出来立てだぞ」

「うわぁ、美味しそう」


 隣に正座で座る綾は、さっそくトーストを手にして口へ運んだ。サクッと耳心地の良い音が鼓膜を刺激する。


「どうだ、綾。バターも少しだけ塗ってみたが」

「うん、サクサクでブルーベリーの酸味が絶妙で美味しい。これ、コメタに負けない味だと思う」


「マジか。それは意外だったな」


 割と適当だったんだけど、綾にはウケたらしい。ふぅ、良かった。

 そんなこんなで、40インチの液晶テレビに映し出されているニュースを見ながら朝食を頂く。



 そうして、いよいよ学校へ。



 アパートを出る前にいつもの電源コードの点検。無事を確認し、施錠。俺と綾は登校をはじめた。



 気持ちの良い天気が出迎えてくれた。

 なんて清々しい青空なのだろう。


 雑談を交えながら学校まで向かい――到着。



 昇降口で別れ際に綾は、俺を止めた。



「お兄ちゃん、ちょっと待って」

「ん? どうした」

「あのね、これ……受け取って欲しいな」

「これ、タオルか」


「うん、綾のお気に入り。お兄ちゃんにプレゼント……するね」



 なんか妙に顔が赤いな。

 ……なんでだろう。

 不思議に思い、俺は首を傾げる。けれど、綾は何も教えてくれなかった。……分からないな。至って普通のタオルにしか思えないけど。


 でも、ありがたい。

 今日は体育でマラソンがあるから助かるな。



「ありがたく使わせてもらうよ」

「良かった。それ、それの……やっぱり、なんでもないや」



 綾はもじもじしながらも背を向けて、自分の教室へ向かっていく。


 なんか気になるな。



 ――俺も自分の教室へ。



 淡々と授業が進んでいく。


 そうして、体育の授業まで進んだ。今日は天気も良くて予定通りマラソン。走るのは得意ではないし、見学にしたいくらいだ。


 けど、体育教師が厳しい脳筋先生だから、よほどの事情がない限り許してくれない。


 まあいいさ、最後尾を適当に走っていれば終わることさ。



 * * *



 ――ふぅ。


 予定通り、俺は最後尾を維持して走り切った。

 まさか学校の周辺を三キロも走ることになるとは……おかげで汗だくになった。教室へ戻り、俺は綾からプレゼントして貰ったタオルを取り出す。


 汗を拭おうとすると、良い香りがした。


 ……あれ。

 これ、綾の匂いだ。


 スンスンと匂いを嗅ぐと、やっぱり綾の匂い。


 なんだこれ、落ち着くっていうか……昨日の添い寝を思い出してしまった。そうか、それで綾は顔が赤かったのかな。


 しかもこのタオル、よく見たら綾がよく頭に乗せてやるやつだ。まさか使用済みを貰えるとか……。


 変な気分に陥っていると、前の席の北上さんが苦笑いしていた。



「どうしたの、櫻井くん」

「あー…いや、なんでもないよ」



 なにげに、同じクラスの女子に始めて話しかけられた気が……なんでいきなり?



「そういえばさ、櫻井くんって一年の神城さんと仲良いよね」

「神城……ああ、綾のことか」

「え、櫻井くん、あの美人の後輩ちゃんを名前で呼ぶんだ? そういう仲~?」



 ……し、しまった。

 神城なんて呼ばなくなって久しいが、それは綾の元々の苗字だった。そうか、世間的にはそうなんだよな。


 でも、今は違う。

 綾は俺の妹。

 櫻井家なんだ。



「ま、まあな。てか、北上さん急になんだよ。半年間、ぜんぜん話した事ないじゃないか」

「ごめんごめん。なんかさ、朝偶然、君たち二人を見かけて羨ましかったから」


「え……?」



 北上さんは前を向いた。

 なんだったんだろう。


 とても不思議だけど――それよりも、タオルの匂いが頭をぼうっとさせていた。……綾は今、何をしているんだろう。

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