2:姪を探してI(冴えない昔話を添えて)




 どこまでも続く大理石の黒壁に、等間隔に並んだ矢印が青く光り点滅している。

 黒い床には、壁の青い光が反射してぼやけて映る。

 そこを通り過ぎていくのは忙しない数多の靴。次いでひとりの私立探偵の影だ。

「くさい、くさすぎる。そろいもそろって天使くさいとは」

 探偵は夏ミカンを一つ手にしている。

 先刻すれ違った孤高の水菓子売りから買ったもので、食べずに手に乗せてパシパシと跳ねさせていた。

 夏の陽ざしを閉じ込めた小さな太陽。油泡の荒いでこぼこした表面の手ざわりを感じていると、心の中まで夏ミカンの穏やかな色に染まっていく。だがその果肉は眠気も醒めるほど酸いという。

「だれもかれも天使の文化に染まってしまった。そういう時代なんだろう」

 女子高生の二人組が鉤付きの尻尾を地べたに垂らして壁にもたれアイスクリームをなめていた。

 探偵は立ち止まり、割って入るように顔面を近づけ、腕組みしながら、彼女たちの折れそうなほど華奢な腕や足首をためつすがめつする。うち一人は、わざと錆び付かせた星柄のバングルを腕に装着していた。

 不審な男に睨まれて二人のアイスクリームが冷や汗をかく。

「うん……きみたちも天使くさいな。悪魔のくせに天使印のシューズをはいているとはけしからん。靴の側面に生えた天使の翼がすばらしい推進力を生み出すそうだが、中坊どもの大会で天使印の競技用靴をはいた短距離ランナーが、走行中前方に七回転して、頭蓋骨と頸椎と肋骨と膝蓋骨と大腿骨とハムストリングスと前歯二本を損傷した事件は記憶にあたらしい。そんなえたいの知れない新奇なものより、おれたち悪魔の古式ゆかしい製造法でこしらえたバネ靴でがまんするべきだったんだ。前転二回で済むんだからな」

 女子高生たちはたがいに顔を見合わせ、男の進むであろう向きとは逆のほうへ足早に去っていった。

「じゃなくて、姪の居場所を訊くんだった」

 探偵の風貌は黒ずくめだ。

 紅い光輝にふちどられた黒髪、一ぺんの塵もない(ように見える)漆黒の背広、靴の先までが闇に閉ざされている。影の中に隠れていたら常人では見つけられないだろう。

 冷ややかな黄金の眼光と、ひかえめな二本の頭角も、すべては彼の漆黒のため。つまりは心の奥の闇のためにある。

「昨日のことのように思い出す。あの忌まわしき生ける天使兵器によって壊滅させられたわが港町は、奇跡的に生き残ったものたちの手によって再建された。建物のひび一本にいたるまで正確にだ」

 反発しあう磁石のように、通行人が避けていった。

 なにせ眼付きが鋭く、ぶつぶつと独り言を放っている、背の高い男がやって来るのだから。おまけに夏ミカンまで握っている。

「以前とうりふたつの都市に再興することで、われわれは以前の尊厳を完全に取り戻した。とはいえ新しく建てられた建物も少なくない。たとえばこの万貨店がそうだ。まるで都市の中に都市があるみたいにあきれた広さだ。一生ここで暮らしていけるだろう。じっさいにベビーカーから墓石まで贖える。もっともそれらの売り場がどこにあるのかはかいもく分からないが」


 青い矢印は途切れていた。

 家具売り場の前に来ていた。

 背広のままでキングサイズのふかふかベッドに飛び乗る。非の打ちどころがないほど完璧なベッド。背をあずけた瞬間、思わず声が漏れる。

 迷子になった姪を探して歩きまわり疲弊した身体も、少しばかり回復していくようだ。

 あおむけで大の字になって明るい天井を見つめる。

「とある研究機関が行った実験によれば、いちばん安眠できる睡眠環境は、家具売り場のベッドらしい。しかし、そうだろうか。演繹法を用いても帰納法を駆使しても、いちばん安らかに眠れる睡眠環境は、炎天下の昼間に熱いシャワーを浴びてからエアコンを効かせてカーテンを閉めきった部屋のひんやりお布団にもぐることだって結論が導きだせる。真夏のひんやりお布団に勝る睡眠環境があろうか?」

 ベッドの上をごろごろと左に右に回っている。最初はゆっくりと、次第に大胆に。大人の行動とは思えない。

「ま……家具売り場のベッドもいいけどな! そこの不愉快なほどに天使くさいパフュームをつけた店員さんは、どう思う?」

 店員は凍れる眼付きでベッドを見下ろしていた。

「ひんやりさせて、あげましょうか」

 冷たい言葉が返ってくる。

 冷気をまとった拳を宙に揺らがせ、口からはドライアイスのような白煙が漏れている。

「……暇をもてあましたドブネズミさん?」

 謎の店員が腰に佩いた短剣に手をかけたときだ。

 探偵はベッドから飛び起きて、じゃあな、と言った。

 後頭部で縛られた馬の尾のような髪のひとふさが、ふわりと跳ね上がり、また胸元にもどってくるころには、彼はもう家具売り場にはいなかった。その逃げ足の速さを礼賛せよ。

 だれだって氷漬けにはされたくはないものだ。


 探偵の名はアグロ。仕事の依頼はあまりない。

 平日の昼間から、ともに暮らす姪っ子とプラネタリウムを観るために万貨店をおとずれたが、みごとにはぐれてしまった。

 ちなみにドブネズミではない。それほど美しい存在ではない。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る