第6話 差し伸べられる手

 


 部屋に人が入ってくる気配がした。

 父親が入ってきたのだと思いながら、礼子がぼんやりと目を開けるとそこにはシンがいた。

「シン……?」

 彼は、雨のせいで少し薄暗い部屋の中、立ち尽くしていた。

 いつもは、同じ部屋の中にいるとうっとうしいと思うほど背が高く見えるのに、今の彼はうなだれているせいか、とても小さく見えた。

「呼ばれた気がした」

(耳も高性能なのかしら……?)

 礼子は苦笑した。

 しかし、謝るチャンスだと思い直す。

 熱のせいで気が弱っていることも手伝って、素直に謝れそうな気がする。

「シン……、昨日は………」

 礼子がシンに謝ろうとすると彼のほうが一足早く口を開いた。

「…………すまない」

「どうしてあなたが謝るの?」

「俺に気をつかっていたんだろう?」

「シンに気を使う? なぜ? 機械人形アンドロイドに気なんか使わないわ」

 礼子が熱を出したことを心配しているシンの様子がおかしくて、彼女は溶けそうなほど甘い笑みを浮かべた。

 彼女がシンを好ましく思っているのは、彼が普通の人間のように彼女に対して同情も哀れみも持たないところでもあった。

 かわいそうだと思われることだけは、どうしても嫌だった。

 そう思われる分だけ、自分がいらない人間じゃないかと不安になるから……。

「しかし、少しも役に立たないなら、いても邪魔だろう。これからはもう来ない」

 その言葉を礼子はきつく遮った。

「ダメよ! 誰がそんなこと言ったの?  だれも言わないでしょ?」

「篠原博士も、ルーカス医師からも何も言われなかった」

「そうでしょうとも。ルーカス先生はおもしろいこと大好きだから、シンを出入り禁止になんか絶対しないわ」

 礼子は、堪えきれず肩を震わして笑った。


「でも信用してる。先生が、大丈夫っていうなら、シンは、今までどおり、ここへ、いるべきだわ」

 途切れ途切れでも、話をすると熱を帯びた吐息が胸を駆け上がり息苦しい。

(いるべき? 違う、いて欲しいの……)



 礼子は、額に前髪が張り付き気になったが、それを払うことさえ辛くそのままであった。


 シンも、礼子の額の汗に気が付き、額の汗を拭ってやるために近くに置いてあったタオルを手に取り振り向いた。


 しかし、シンの腕は礼子の額に触れる前に止まった。


 それを、ひどく長い時間に感じた礼子は、シンが機能停止してしまったのではないかと心配になり、覗き込むようにそっと見上げた。



 彼は、自分の手をじっと見ながらリンゴのことを思い出していた。


 機械の腕は、まだ自分の思うように制御ができない。



 ――― もしも、リンゴを握りつぶしていたのと同じように、礼子に怪我をさせてしまったら?


「すまない。俺は、レイコに触れることはできない」

 危険が少しでもある以上、それが最も適切な判断だろう。

「何のためにここにいるのだろう……」


 彼は表情を変えなかった。

 声色も、いつもと変わらず落ち着いている。

 ただ、礼子には彼がその言葉をため息交じりに言ったような気がした。



「シン……」

 たまらず、呼びかけたものの、礼子は次の言葉が見つからない。

 代わりに、幾つもの透明な滴が頬を滑り落ちる。

 それは、彼女の意思ではとめることが出来なかった。


 シンは、礼子の額の汗も頬の涙も拭ってやれず、ただ見ていることしかできない。

「俺は、役立たずだな……」




(シンは、何も悪いことをしていないのにどうして謝らないといけないの?

 どうして、自分を責めなければいけないの?

 無力なことはいけないことなの?

 人の役に立つために作られた機械人形アンドロイドだから、わたしの役に立たないといけないの?

 誰が、役に立つとか立たないとか決めるの?

 わたしが決めるなら、シンはわたしに触れることができなくても十分役に立ってる。

 シンがいてくれるだけで、わたしは心強いもの……)


 ★


 礼子は、静かにシンに声をかけた。

「手、貸してくれる?」

 シンは、ベッドサイドにある椅子に腰掛け右手を礼子の枕元、頬の近くに差し出した。

「これでいいか?」

 礼子は、こくりとうなずいた。

 そして、そっとシンの手に触れた。


(脈のないこの腕に初めて触れたとき、とても驚いた。

 怖いとさえ感じた。

 けれど、今は自分から触れてみたいと思っている。

 これが、どんな気持ちかなんて分からない。

 けど、わたしにとって、シンはただの介助用機械人形アンドロイドなんかじゃない。

 たぶん、仲間。

 無力感と戦っている、仲間なのだと思う)


 礼子は、火照った手でシンの腕をきゅっと握り、頬に寄せた。

「シンの手、冷たくて気持ちがいい……」

 礼子は涙が止まり、穏やかな笑みを浮かべた。


「機械だからな……」

 シンの言葉は、機械人形アンドロイドである自分を否定しているように聞こえた。

「機械でもいいじゃない? それだけでここにいる意味があるってものよ。

 だから安心して、役立たずなんかじゃない……」

「脈打たないこんな腕でもいいのか?」

「うん、手を握ってもらえると安心できる。あ、握ってるのはわたしの方ね」

 そう言って微笑んだ礼子だったが、その顔はすぐに苦痛に歪んだ。

 発作ではないとは分かっていても、軽視できる状態ではない。

 ルーカス医師の薬が、そろそろ効くと分かっていても不安は拭えなかった



 再びシンの手を握り直す礼子。

 けれど発熱のせいで、握る手に力は入らない。

「怖い……苦しいよ……」

 礼子の本当の気持ちだった。

「医師を呼んでくるか?」

「呼ばないで、心配かけたくないの。けど、弱音を吐くと少し楽になる。誰かにこうして触れてるだけで心強いの」

「そんなことで楽になるなら、いつでも言えばよかっただろう」

「でも、こんなこと人に頼めるような子供じゃないから……言えなかった」

「俺には言えるのか?」

機械人形アンドロイドだから……。シンが機械人形アンドロイドでよかった……。わたしのこと心配してくれないから弱音を吐ける」

 その言葉にシンは何か言いたげな複雑な表情をしたが、熱のある礼子は気がつかなかった。

「『何のためにここにいるのだろう……』シンは、さっきそういったよね?」

 窓の外の雨粒は、人工太陽光を受けてなお、輝く。

「わたしも、自分のことそう思ってた。わたしなんか、いらない。わたしはお父さんの邪魔ばかりしている。人の役に立つ仕事をしていて、わたしの自慢のお父さんなのにその邪魔をしているなんて……消えたほうがいいって。役に立たないなら。

 でもね、さっき、シンに言われて分かったような気がするの」


 礼子は、シンの問いに自然と答えられた。

 それは、いつも繰り返し思っていた疑問。

 さっきまで答えなど思いつきもしなかった。


 なのに、今、シンに問われて自然と答えが見つかったような気がする。

 この少しひんやりとする、脈打たない機械の手にすがり付いている自分だから分かる答え。

 無力で、小さくて、何も出来ないわたしだからわかること。




「誰でも同じなのよ」

 もうすぐ、降雨が終わるのだろう。

 日の光が部屋の観葉植物を照らしている。

「シンは自分だけどうして…そう思ってるでしょ? どうせこの世界にいるのなら何でも出来て、強い心を持って、胸を張って生きたいって。でもね、自分が無力だと思って苦しんでいるのはあなただけじゃないわ。わたしだってそう……」

 礼子は今、目を瞑っていてもその光を感じていた。

「シンとわたしだけでもない……。何でもできるように見えるお父さんだって、どうしてお母さんを助けられなかったのか、わたしも病気で死んでしまうのか、心配でたまらないはず。たくさんの人を救ってるのに、身内だけ助けられないなんてきっとつらいはずよ。ルーカス先生だっていつもは明るくしているけれど、救える人もいれば亡くなる人も見ている。どうして、全員を救えないのか……そう思ってるわ」



 どうして今まで気が付かなかったのだろう。


 みんな、つらい気持ちと戦っている。



 手術は怖い。

 怖いけど……。

 逃げちゃだめだ。


 ひとりじゃない。

 今は、シンもいる。



 同じように無力感にさいなまれているわたしたちなら、お互いを励ましながら歩いて行けるんじゃないかな?


「だから、シンも一緒に歩いて行こうよ」



 ★



 シンは、その小さな手が自分の手をしっかりと握っていることをとても不思議な気持ちで見ていた。

 熱のせいだろうが、とても暖かい。

 礼子の手からじんわりと熱が伝わり、機械の腕に命を吹き込んでくれるように感じた。



 ネオシリコン樹脂の皮膚。


 ハイチタニウムの合金の骨。


 中身は、血肉ではなく精密な機械。


 こんな脈打つことはないこの腕でも必要としてくれる人がいる。


 シンは、目の前の霧が少しだけ晴れたような気がした。


 それは。一粒の滴となって頬を伝った。




 涙が、礼子の手に落ちた。

(雨?

 これはシンの涙だわ。

 シンが、泣いているの……?

 そんなわけない、これは夢だ。機械人形アンドロイドが泣くはずない……)


 これは、シンが人間だったらいいと思うわたしの夢。


 でも、……悪くないかも。


「泣かないでシン……」


 薬が効きまどろむ礼子は、微笑みながら眠りについた。


 闇を怖がることなく、安心して……。



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