5-11 見てるからね。あんたの、柔道。
これまでに何度、
スポーツには興味のないあたしだったけど、仁輔の試合にはいつだって心が動いてきた。勝てば嬉しいし安心する、負ければ悲しいし心配になる。褒めるも叱るも本気の
そうして強烈な感情を覗かせる仁輔を見ながら、あたしの感情も動かされながら。けどあたしはずっと傍観者で、プレイヤーとしては関係ないんだとずっと思っていた。
本気で何かとぶつかって悔しくなるなんて、やらないで済む方がいい。剥き出しの闘志や渇望、苦しそうなそれらには触れたくない。磨いてきた技に敗北を突きつけられるなんて、怖くてやってられない。
得意なことが得意でいられるフィールドを見定めて、ほどほどの努力で達成できるゴールを予定通りに通過する、それがいいと思ってきた。その見極めすら間違わなければ問題ないと思ってきた。
けど、あたしはその安泰に背を向けることにした。
命を巡る剥き出しの感情を背負う、深く重い喜怒哀楽が交錯する道を選ぶことにした。
その道の歩き方を、仁輔から学ぶと誓って。
今回は上位大会への進出がない、
切符のかかっている他の大会に比べれば重みは小さいかもしれないけど、仁輔の気合いは変わらない。
そしてあたしは、彼にもう一つ重みを預けた。
あたしが会場で仁輔を応援するのは、今回で最後にする。
まずは結華梨への義理だ。彼女と女友達が一緒に応援するのも別にいいとは思うが、あたしと仁輔はあまりに色々ありすぎた。きっちり結華梨に譲った方が、あたしもスッキリする
それに、咲子さんと一緒に出かける機会を余計に増やすのも気が進まなかった。成人するまで恋人としての付き合いは封印、それには二人とも全面的に同意しているのだが、二人きりで自制を続けるのはやっぱり苦しそうである。ちゃんと我慢するためには予防措置も必要だ。
後はシンプルに、自分の勉強時間を確保したい。いくら成績上位とはいえ、医の医を想定した受験対策はしてこなかったのだ。本来、高二の秋から目指しはじめるようなフィールドではない。
……という理由も、仁輔には伝えてある。二世帯会議の後、焼肉パーティーの合間に津嶋家のベランダで。
「だからさ、仁がみっともない負け方したらさ、この先ずっと引きずるのよあたしは。画竜点睛がボロボロだったじゃんって」
「義花の都合で勝手に集大成にされても困るんだが……まあ、いいタイミングではあるよな」
「でしょ? 預けていいかな」
「ああ、預かった。お前に何年思い出されてもいい、そういう試合にする」
「うし、信じたぞ」
推定じゃなくて断定で決意を示す、それが仁輔らしくて好きだ。
「じゃあ俺からも義花にリクエスト」
「なに?」
「大声は出さないでほしい……お前の声が聞こえなくても勝てるって、お前にも母さんにも証明したい」
それだとスッキリしないだろうな、けど仁輔の気持ちも分かる。
「分かった、じゃあここで言っとく――頑張れ仁、決めろよ相棒」
「任せろ、見せてやるよ俺の最高」
『ペルソナイト
*
「――そこまで、一本!」
仁輔の抑え込みが決まり、体育館に拍手が響く。
今日の仁輔は、81キロ以下級の個人戦トーナメントを順調に勝ち進み、準々決勝も一本勝ちした。
「良かった、これで結華梨ちゃんに顔向けできるね……」
咲子さんはホッとした顔をしている。
「ねえ、仁にとっては達成できそうなラインだったとはいえ、あたしも安心」
仁輔は前言撤回を嫌うし、簡単な目標じゃ自分が納得しない、しかし結華梨を待たせるのも申し訳ない――それらの間でバランスを取って、仁輔は目標を設定していた。見積もりで見栄を張ると失敗する、パパが仁輔とあたしに教え込んだ鉄則である。そんなパパなので、岳志さんも信頼しているのだろう。
「けどさ、ここまで来たら全部勝たないと気が済まないでしょ仁は」
あたしの推測に、咲子さんも頷く。
この規模の大会なら、仁輔はトップに立った実績がある。そうでなかったときの方が多いとはいえ、ここ一番で負けて終わるのは仁輔が嫌う展開だ。遠くから見える仁輔の横顔にも、そんな闘志が漲っている。
ねえ仁、それは勝ち以外は要らないって顔でしょ。あたしもだよ。
続く準決勝、仁輔は足技で獲得した技ありを守って勝利。終盤では仁輔が抑え込まれかけていたが、なんとか脱出していた。
そして決勝、相手はあの
強豪同士だということは広く知られているらしく、場内の熱気も高まっている。しかし畳を挟んで対峙する二人は、そうした外野を気に掛けることもなく静かに意識を集中させているようだった。
「仁、頑張ってね」
手を組んで祈りながら、咲子さんが呟く。心労をかけ続けてきた息子だけど――だからこそ、応援の気持ちはどこまでもひたむきだ。
あたしも咲子さんも、仁輔を置いていく立場だ。二人で、彼と離れることを選んだ。だから今だけは、あたしは咲子さんを見ていない。恋を拒む女として、ただ一人で仁輔を見つめる――きっと咲子さんも同じだ、家族と離れようとする母として彼に向き合っている。
試合開始。じりじりした読み合いと激しい組み手を繰り返し、ときに一方が崩されるが、なかなか抑え込みには至らない。強さが拮抗しているぶん、どちらかの隙が命取りになる、そんな緊張感が観客席まで伝わってきた。さながら、真剣の斬り合いのように。
千波は投げ技のセンスが図抜けている、と仁輔は語っていた。その場で最も適した技を的確に選んでくるし、キレにも長けている。投げでの一本勝ちが千波ほど多い選手も相当少ないらしい。自分が千波に敗れた試合の映像を見返しては「悔しいけど、すげえ技が綺麗」と褒めていた。
あたしにとっても、仁輔に向き合うヒントをくれた優しい人である。良い出会いがありますように、その道の先でより強い自分に出会えますように、祈りたくなる人だ。
――だからこそ、今日の仁輔には越えてほしい。
リスペクトを込めて心技体をぶつけ合う勝負の果て、心から敬える相手に打ち勝つことでしか得られない誇りを、仁輔が掴みとってくれないとあたしは嫌だ。相手が強いほど、困難な闘いであるほど熱く研ぎ澄まされていく仁輔の闘志を、あたしはこの心に焼き付けにきたんだ。
組み手の攻防の途中、二人の姿勢に記憶が刺激される。
千波が仁輔の襟を突き上げ、踏ん張った仁輔の右足を、内側から千波が刈りにいく。前の大会で仁輔が負ける決め手になった小内刈――しかし、今回は。
次の瞬間、仁輔は後退し、千波が倒れこんでいた。これで決まるかと思いかけたが、審判の宣告は技あり。さらに仁輔は抑え込もうとするが、千波に脱出されて「待て」がかかる。
後で仁輔に聞いたところ、それは小内返という技だった。千波の得意技に対する返し技として前から用意していたが、本番で千波相手に成功したのは初だという。
仁輔にポイントが入った、これを守り切れれば勝ちだ。
しかし、ここで終わらないからライバルである。
残り時間が一分になったあたりで、千波が仁輔の足を刈って体勢を崩す。亀の体勢で踏ん張った仁輔へ千波が追撃、抑え込みを狙い合う。
寝技の攻防なら仁輔の方が得意そう――なんとなく抱いてきた印象が覆される。形が決まっていないとはいえ、明らかに千波が優勢だった。このまま仁輔が抑え込まれて逆転される、そのイメージが強烈に浮かんでしまって、気づいたら。
「負けんな、仁!!」
声援は要らないと言われたことも忘れ、叫びが腹から飛び出す。
だってこれが最後なんだ、一回くらい叫ばせてくれよ――人生で一番、あたしが応援してきたのはあんたなんだから。
試合場を見つめる。
二人の手足が絡み合い、何度も上下が入れ替わる。見えないけれど、必死に抗う仁輔の表情は目に浮かぶ。
*
ずっと見てきたよ、あんたが頑張ってきたの。
あたしに見えてる頑張りがほんの一部だってことも知ってるよ。
話していると分かるよ、普段から体に気を付けているんだって。あたしが家でダラダラしている間も、どこかで鍛えていたんだって。あたしが夜更かししている間、しっかり睡眠を取っていたんだって。肉も甘い物も大好きで、けど食べたぶんだけ運動していたんだって。勉強が苦手なはずなのに、苦手って言葉に甘えずに取り組んで来たのも知ってる。
それなのに勝てないことだって何回もあった。トータルの回数なら勝ち越しだろうけど、大会なら最後には負けて終わる日の方がずっと多い。傍から見れば好成績でも、負け試合があれば真剣に反省する。県で2位まで行った小5の大会でさえ、決勝での負けについて岳志さんに厳しく叱られていた。
楽しい時間より、苦しい時間の方がきっと多い。だから昔のあたしは訊ねた。
「仁、柔道って楽しい? 勝つ瞬間以外の、練習とか反省とか含めて」
「……楽しいっていうか、好きなんだよ。自分が強くなれてる気が、ちゃんとするのが」
なれてるよ。心も技も体も、柔道家として人として、強くなってきたことをあたしは知ってる。
その原動力にあたしが居ただろうことも――恋心で頑張ってきたことも今なら分かる。
その恋をあたしが裏切ってしまった、それでもあんたはまた立ち上がって今日までやってきた。そういう魂の強さを、あたしは忘れないから。この身に宿して、別の道を歩むから。
だから、今日は。
*
「勝って終わってよ、仁」
呟いたあたしの声は、絶対に届いていないけれど。
熾烈な攻防の末、固技を完成させたのは仁輔だった。上四方固の変形だろう。
審判から抑え込みの宣言、もがく千波を制し続け。
「――それまで!」
終わった、仁輔の勝ちだ――そこから先は、涙でよく見えなかった。どこまでも強くて眩しい津嶋仁輔だった。
その後、ロビーで仁輔と会った。
彼に近づきながら。試合を終えた仁輔に駆け寄って抱きついていた、昔のあたしを思い出す。ああいうの、仁輔は嬉しかったんだろうな。
いつもより少し距離を空けて向き合う。
「お疲れ、優勝おめでとう」
「ああ、サンキュ」
何を言うかはもう決めていた、シンプルな言葉で良かった。
「今日の仁のこと、全部見てたよ。あたし、絶対に忘れないから」
「ああ、届いたなら嬉しい」
少し間を置いて、仁輔は付け加える。
「いま義花に言われて思ったんだけどさ。
俺、柔道やってて良かった。頑張ってきて良かった――これからも、そうやって生きてくから」
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