4-2 子供が納得できない親の話

 あたしの両親が近づく頃の話を、咲子さんの視点から。


実穂みほはね。例のセクハラ犯の追放計画にやすさんたちが動き出した頃から、康さんのこと大好きになっていたの。会社の外で話してもね、康さんがどんなに優しくて心強いかってことばかり話してた。実穂がああいうタイプの大人に憧れてることはずっと聞いてたけど……こんなに早く現れるなんて思ってなかった。だから最初、康さんのこと気に入らなかった」


 パパは黙っている。きっと、これまでに何度も聞かされてきた嫉妬なのだろう。


「けどね……会社にいて、周りの様子見てると、分かっちゃうの。いま実穂に……これから実穂の人生に必要なのは康さんみたいな男性だって。だから私は、実穂の背中を押すことにした。実穂の恋愛相談に、初めてイエスを返したのがあのとき」


 初めて咲子さんに前向きに応援された、だからママはパパに――実穂さんは康信やすのぶさんに、想いを伝えられたのだろう。

 けど、それは咲子さんにとっては苦渋の決断だった。その証に、咲子さんは過去の自分を呪い続ける。


「稼ぎもなければ特別な資格もない高卒の女に出来ることなんてたかが知れてるって。

 物凄く勉強して、親に頭下げて、いい大学を出て稼げる職につけていたら、いつか実穂を迎えに来れる女になれたかもしれないけどね。実穂と一緒の道さえ選んでいれば実穂を守れるんだって、子供じみた甘い見込みしかできていなかったから」


 実穂さんが選んだのは正解だっただろう、世間にとっても彼女自身にとっても。あたしがその場の第三者だったとしても、実穂さんと康信さんが近づくことを応援しただろう。けど今だけは、世間の側じゃなく咲子さんの側に立ちたかった。


「あのね、咲子さん」

 咲子さんの手を握りながら、あたしは伝える。

「それだけ悔しいのに、ママを応援してくれたこと。あたしはとても感謝しています」

「……うん、ありがとう」


 笑顔を作ってみせた咲子さんに、仁輔じんすけが低い声で問う。


「じゃあ、どうして父さんと付き合ったの。康さんと実穂さんを通じて仲良くなった……みたいに今まで聞いてたけど」

「それも嘘じゃないんだけど、本当のきっかけは別。まずね、実穂が結婚を決めてから、私も早く結婚しようって考えるようになったの」


「いや、なんでさ」

 仁輔は咎めるような口調、だったけれど。


「他の人とそういう仲になれば、諦めきれない失恋も上書きできる……みたいな思考回路もあるんだよ」

 あたしの回答に咲子さんは頷き、仁輔はあたしの目をのぞき込む。

「……義花にも心当たりが?」

「あるよ。仁には悪いけど」


 あたしが仁輔との関係にこだわるのにも、似たような理由が裏打ちしている。仁輔は大きく息を吸ってから、低い声で答えた。

「分かった、その話は後でじっくり聞く」


 咲子さんの本心を知って、仁輔の心境は大きく揺らいでいる。表に出ないだけで、内心は激しく乱れている。あたしと仁輔の関係も、今日を境に大きく変わるのだろう。


「うん、義花の言う通り。結婚して子供ができて……最優先すべき人が他にできれば、実穂よりも優先できると思ったの」

 実際に咲子さんは優しい母親だった――みたいなフォローが仁輔から入ると思ったのだが、彼は黙っていた。よその子供は知らないが、仁輔はそういう親への気遣いを大事にする奴のはずなのだが。


「それにね。やっぱり私は……実穂とお揃いが良かった、同じ立場でいたかった。だから、実穂が結婚したなら、私もそうしようって」


 さすがにそこまでは――と思いかけたが。

 あたしが好きになったものに、咲子さんはいつも手を出してくれた。あたしが咲子さんと同じものを好きになると、とても喜んでくれた。

 だから咲子さんにとってそれは自然な発想だったのだろう、と判断するしかなかった。


「そう思っていた頃に、岳志たけしさんに助けてもらったことがあったの。仁、もしかしてお父さんから聞いてたりした?」

 仁輔は否定し、咲子さんが話を続ける。

「実穂が入籍した頃。どうしても寂しくて、ひとりで飲み屋で深酒したの。そうしたら帰り道で、ガラの悪そうな男にぶつかっちゃって。その集団に囲まれて怒られて……あのままだったら、どこかに連れていかれたかも」


 咲子さんは暴行されていたかもしれない――と思うと、いくら過去のこととはいえ背筋が凍えた。


「そのときに助けてくれたのが岳志さんたちなの。店で見かけた私がやばそうで、一緒に飲んでた瑞貴みずきさん――お姉さんと様子を見に来たら、私が囲まれているの見つけたんだって。

 そこで凄いなって思ったのがね。岳志さん、そいつを怪我させるようなこと一切しなかったの。自分も酔っ払ったフリしてデタラメ叫びながら間に入って、殴られても怯まなくて。そのうち奴らはビビって逃げていって、私は二人に介抱された」


 咲子さんの説明を聞いて、仁輔はその意味を理解したらしい。

「父さんは悪人を止めるときでも、ギリギリまで暴力は使わない人だから……戦う訓練してるからこそ、それで一般人を傷つけるのは避けなきゃいけないって決めてる人だから。もっと危険な相手なら倒しにいってただろうけど、そこまでじゃなかったんだろ」

「さすが仁は、よく分かってるね」

「父さんの息子だからな」


 誇らしい言葉のはずなのに、仁輔の表情は悔しそうだ。尊敬する父親は、純粋な想いで妻に選ばれたわけではなかった――なのに二人が出会ったときも、尊敬できる父親だったから。


「……助けてもらった話の続きね。

 念のために警察に行こうかって言われたんだけど……早く忘れたかったし恨まれるのも嫌だったから、黙ってることにしたの。瑞貴さんとは連絡先も交換したけど、私からお礼させてほしいって言っても断られたから、一晩だけの恩人のつもりだった。

 そうしたらね、実穂たちの結婚式で、新郎の友人の席に岳志さんがいたの。これはチャンスだって思って声かけて、今度は岳志さんも乗り気だったから、デートするようになって……やっぱり、尊敬できる人だって思ったんだ」


 仁輔はその言葉を反芻してから、咲子さんに問う。

「好きな人、ではなく?」

「恋だったかという意味なら、半分はイエスかな。私はね、今の言い方をするならバイセクシャルになると思うの。だから男の人と体の相性が合わないとかはなかったし……岳志さんが好きになってくれるのも嬉しかった。

 けど、やっぱり一番は実穂だったよ。岳志さんの隣でウエディングドレスを着たところで、一番深い望みは変わらなかった」


「じゃあ、なんで結婚まで行ったんだよ」

 仁輔の責めるような口調に、思わず制止の声を上げかける。けど今あたしが止めるのは違うと思い直して、回答は咲子さんに任せた。


「仁が責めたくなるのも分かるよ。けど……私はね、お父さんの語る生き方に憧れていたの。自分にとって人生は、世界からもらったものを返す旅だって。平和に生きられる社会と、人よりも丈夫な体を大人たちにもらったから、自衛官と父親の両方になることで返したいって」


 あたしも何度となく聞いた、岳志さんの人生観。仁輔はそれをまっすぐに受け継いでいる。

「けど岳志さんは、自衛官と父親の両立は難しいってことも分かってた。だから私は、それを支える立場になりたかった……尊敬できる人を支えたいって思いは、実穂も同じだったから。実穂もそばで妻と母を頑張っているなら、私も一緒に頑張ることで、自分の意味になるって思えたの」

「……俺だって、父さんのそういう哲学は好きだよ、母さんに育ててもらったことは幸せだと思ってるよ。けど父さんは、それで良かったのかよ」


「式の後になっちゃったけど、仁を妊娠したときに岳志さんには全部話したよ。心の中で他の誰を好きでもいい、俺のことを最優先に想わなくていい、ただ……人前では、何より子供の前では、仲の良い夫婦でいようって。

 それにね、仁が生まれたら、やっぱり気持ちも変わってきたの。忙しくて余計なこと考えられなかったし、この子を守らなきゃって想いが一番になったから。その頃には実穂も妊娠して、二人でママ頑張ろうねって励まし合えるのが嬉しかった。


 なのに、なのにね。実穂が亡くなって、全部おかしくなっちゃった」


 咲子さんの語りに浮かぶ悲痛に痛感する――どうしてもあたしが聞かなきゃいけない問いがある。


「パパはいつ知ったの、咲子さんの本心」

「実穂の葬儀を準備している間だった。だから、遺された私たちで絶対に義花を守ろうって……咲ちゃんに義花の面倒を見てもらうこととかも、そのときに決まった」


「そっか……じゃあ咲子さん、正直に答えてほしいんだ」

 咲子さんの大切な人がどう亡くなったかを踏まえれば、おのずと浮かぶ問いだ。

「あたしとパパのこと、憎いと思ったことはないかな」


 咲子さんは弾かれるように立ち上がって、猛然とあたしに抱きしめた――こんな苦しいくらいの抱擁なんて、初めてだった。


「義花が生まれたときからね、私はあなたを守るって決めたの。だからあなたを憎んだことなんて一瞬もないの……あなたのためだったから、康さんのことも味方に思えたの。

 だからお願い、もうそんなこと疑わないでよ」


 切々とした訴えに察する。あたしを憎まなかったというより、憎まないために愛を注いだのだろうと――きっとその瞬間、咲子さんの優先順位が入れ替わった。

 そして今。咲子さんの抱擁と言葉で、あたしの心理も入れ替わる。誰よりも憎む理由のある咲子さんが許してくれているなら、あたしはあたしを許せる。


「うん、こんなこと聞いてごめんね咲子さん。咲子さんが大事にしてくれてるって分かってるから、少しも疑ってないから」

 あたしを見る咲子さんは、嫌われることに怯える少女のようで。この人を不安にさせたくない、その一念で語りかける。


「……ほんとうに?」

「ほんとだよ。信じて」

 あやすように、咲子さんの手を握る。咲子さんは何度も頷いてから、自分の席に戻っていった。


 パパが口を開く。

「それからは君たちが覚えている通りだ、咲ちゃんは実穂のぶんまで義花の面倒を見てくれた。そして僕らは、実穂が亡くなった理由を君たちに知らせないようにしてきた。森戸家の墓と分骨することは本当だったけど、こっちに実穂の名前や命日を刻めないってのは完全な嘘だ。親族だけじゃない、会社の人間に口裏合わせを頼みまでしたよ。

 ……けど、もっと義花の強さを信じた方が良かったと、今になって思うよ。本当にすまなかった」


「……それは過ぎたことだからいいんだけどね」

 生まれたときに背負ったものなんて知らず呑気に生きている頃は、確かに気楽だった。

 けど、知った以上は逃げたくない。


 しかし、あたしの心情を見抜いたように、パパは言う。

「義花。実穂の命を背負おうとか考えているなら、それは困るぞ」

「……背負っちゃうよあたしは。この命を無駄にしたくないよ」

「だったら自由に生きて幸せになってくれ、それが実穂が託した願いだよ」


 パパにじっと見つめられる――こんなにまっすぐ向き合ったの、久しぶりだな。


「実穂は、家の事情で自由に進路を選べなかった子供だった。だから自分の子供には、自由に未来を選んでほしいと……僕とだったらそれが叶うと、何度も言っていたよ。だから義花も、自分の行きたい道を」


「あたしは!」

 パパを遮るように、大きな声が出た。


「あたしが行きたいのは、大事な人に報いることができる道だよ。パパとママが、咲子さんと岳志さんが、悲しみとか嫉妬を乗り越えてあたしたちを育ててくれたなら、今度はあたしたちが育てる側に回りたい。自分が母親にならない限り、あたしは自分に納得できない……仁だって、そうでしょ」


 仁輔の視線があたしに向く――あたしの胸の底を見据えるように、鋭く。

「俺と結婚して子供を育てるのが、義花の目指す生き方だってことか」

「そう。仁だって、岳志さんみたいになりたいでしょ」

「父親になりたいことは否定しないけどさ……たとえ結婚したところで、義花が俺を愛することは永遠にないだろ」


 仁輔の言葉は、いつになく硬い。


「……なんでそんなこと言うのさ、レズビアンなりに仁を愛することだって出来るよ、男女じゃなくても人として愛せるよ、それに他に好きな人なんて」


「義花が本当に恋してるのは、母さんだろ」

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