第4章 恋に壊れた心を救う話

4-1 子供の知らない親たちの話

実穂みほに恋していた」と咲子さきこさんが口にした瞬間。


 ガタン、と仁輔じんすけが立ち上がった……彼にとっては思いもよらないだけじゃなく、受け容れがたい事実なのだろう。

 あたしは仁輔の袖を引いて言う。

「仁、いったん話聞こう?」

「……だな、すまん」


 仁輔が席につき、咲子さんは「ずっと黙っててごめんね」と謝ってから話を続ける。


「私が中学生のときに実穂と仲良くなって、一緒に合唱部に入って……その辺りは、これまでも話した通りだよ。周りからしても、実穂にとっても、いつも一緒のコンビでしかなかった。

 ただ、私はね……中二くらいからかな、実穂への好きは友達の好きだけじゃなくて、恋の好きだって気づいてた。他の男にも女にも渡したくない、ずっと私の一番がいいって思ってた。好きな理由なんて、ありすぎて分からないくらいに」


 なんとなく、だけど。

 咲子さんは過去の話をしていない、そんな気配がしていた。


「けど、実穂にとっては……時代のせいもあったかもしれないけど、何より本人の実感にとってね。自分にとって恋愛とは男性とするものだって、疑ってなかったから。私は実穂の親友以上にはなれないんだって。気づいてたの」


 仁輔は目を伏せて黙っている、あたしは訊ねる。

「じゃあ、咲子さんは……ママが他の男子を好きになったとき、苦しかった?」

「そうね、苦しかった。だから、全部止めてた」

「止めた?」

「実穂は、なんでもまず私に話してくれたから。あの人が格好いいとか、気になるって話するたびに、やめた方がいいよって答えてた……聞いたことある悪い噂を話したり、本人は関係ない男とのトラブルの話したり」

「そんなの、」

「洗脳みたいって思った?」


 咲子さんの口ぶりは、まるで自嘲のようで。


「……洗脳とまでは言わないけど、ママの選択肢を狭めていることにはなるよね」

 咲子さんが嫌がることを承知で、あたしは率直に指摘する。

「ええ、義花の言うとおり。正しいことしてたなんて全く思ってない、けどあの頃の私にはそれしかなかった。だって実穂は、就職したらすぐ結婚したいって決めてたから」


 パパが補足に入る。

「実穂の家はとても苦労していた、その話は義花も知っているよな?」

「うん……林業やってたお父さんが仕事中の事故で早くに亡くなって、お金にも困っていたとは」

「そう。だから進学することも難しかったし、職場で先輩と結婚して余裕ある暮らしをすることに活路を見いだすしかなかった」


 ママが結婚を急いでいた理由――自分が選ばれた理由を、パパは淡々と語った。

 であれば、咲子さんにとってパパは恋敵になるはずで。


「……就職してからの話をするね」

 再び咲子さんが語り出す。

「あの頃の健信けんしん製薬は事業を広げる途中で、地元の高校生をたくさん工場に雇っていたの。だから私と実穂も、部署は別だったけど一緒に就職できた……ほんとに嬉しかった、一緒なのは高校までだって思ってたから。

 けどね。入社してから実穂が……セクハラに、遭うようになってね」


 咲子さんの声が震える、どれだけ許し難かったかそれだけで分かった。


「ここからは僕が話すよ」

 咲子さんがヒートアップする気配を察したのか、パパが話を引き継いだ。


「加害者の社員は課長クラスの男だ……まあ、優秀な奴だったよ」

「ママって総務だったよね、そこの上司?」

「いや、製造畑……僕が今いるポジションの辺りだ。実穂とは同じ部屋で働いていたし、総務は他部署と接する機会も多かったから」

「ああ……雑用を頼む口実で連れ出して悪さした、みたいな?」

「だっただろうな……そいつは性格の裏表が激しくて、気に入らない人間は徹底的に見下すような奴だったけど、工場を回すのに必要な人材なのは確かだった。けど、妻に離婚されたあたりから、若い女子社員に言い寄るようになってね。実穂は……誰にでも優しくあろうとする子だったから、集中して狙われるようになっていた。それも、周りの目につかないような場所を選んでな」


 両親が近づくきっかけ。パパが具体的に語りたがらなかったのも頷けた。

「……で、そのときにママを助けたのがパパ?」

「そこまで単純じゃなかった。上の方から口頭で注意しても実穂の被害は続いたし……僕は同意できなかったけど、社としてはセクハラがあったことを表沙汰にしたくなかったから、処分を下すのも避けられていた。だから別の部署に飛ばす、それも本人には本社への栄転と偽っておいてから外部に出向させる計画が影で出来上がった」


 パパの言葉が途切れたところで、聞いた内容を反芻する。

「……さっさと懲戒すべきではとか、その間もママは辛かったじゃんとかは思うけど、理解はしたよ。それで?」


「ああ。その追放計画で、奴の後任の一人に選ばれたのが僕だ」

「パパは研究職で入っていたよね、製造セクションに移ったきっかけがそれ?」

「そう。正直、僕はずっと研究が良かったんだが……後輩を助けるため、職場の病巣を除くためなら、自分の好みなんて言ってられないと覚悟決めてな。奴から引き継ぎを受けながら、実穂に近づかないように監視してた……それこそ、腰巾着になるような意識だったよ。憎い奴なのに、さも尊敬してやまないって顔してな」


 パパの凄みはこういう所だ。その気になれば、徹底して自分をコントロールできる――きっと今だって、苦しかった気持ちを抑えて説明してくれている。


「それで、そのセクハラ課長は追放できたの?」

「ああ。地方の大学に共同研究者として出向させた。男ばっかりの化学系のラボだったか……別に外れクジとかじゃないぞ。奴は修士持ちの研究上がりだし、やらせたのも有意義なプロジェクトだ。グレたのか何なのかすぐに退職して、一緒に出向した若手が後を頑張ってくれたんだが」

「じゃあママも安心できたんだ」

「……多分な。あれを機にハラスメント対策も整えたし、あれほど迷惑な奴もいなかった……はずだ」


 黙っていた咲子さんが、ぽつりと答える。

「大丈夫だったよ。あの悪魔がいなくなって、実穂はすごくほっとしてた」

 ポジティブな言葉とは裏腹に、咲子さんの声には棘が滲んでいる。

「けどね……実穂があんなに苦しんでいたのに、私は何にも出来なかった。ただ慰めるだけで、あいつを追い出すためことなんて何も……」


 ――咲子さんが許せなかったのは加害者だけじゃない、無力な自分自身にも怒りを抱き続けてきたのだろう。その自責があまりに苦しそうで、あたしはたまらず咲子さんの肩を抱く。

「咲子さんがいてくれて、ママは励まされたはずだよ。咲子さんがどれだけ力をくれるか、あたしがよく知ってるから……だから自分のこと許してあげてよ」 

 咽びの合間から、咲子さんの追憶は続く。

「気づいちゃったんだよ。もう私だけじゃ実穂のこと守れないって……大切だって気持ちだけで守れるのは、子供の間だからって」


 咲子さんが落ち着いたのを待って、パパは話をまとめる。

「後はこれまで言っていた通りだ。きっかけこそ辛いものだったけど、実穂は僕のことを慕ってくれるようになって、プライベートで一緒に過ごすうちに彼女から交際を申し込んでくれた……咲ちゃんも止めなかった、と聞いてる」

「止められる理由なんかなかったもの、私が悔しいってワガママだけで」


 パパと咲子さん。仲良しだと思っていた二人の間にあった、思いもがけない葛藤。


「……さあ、次は咲ちゃんの番だよ。君が実穂とどう向き合って、岳志と結婚したのか。ちゃんと話そうか」

「分かったから、ちょっと待って」


 咲子さんは席を立って洗面所へ。あたしは減った麦茶を注ぎ足して回ったのだが。

「仁、大丈夫?」

「……ん、ああ、悪い」

 仁輔は相当に動揺しているのが見て取れた。多分、咲子さんの本心に対して。


「仁、ひとつだけ心に刻んでおくんだ」

 パパは仁輔の肩を掴んで、ゆっくりと言い聞かせる。


「津嶋仁輔はここに生きてる。咲ちゃんと岳志の間に生まれてから十七年間、立派に生きてきた。それだけは確かだ」


 仁輔は黙って頷く、咲子さんが戻ってくる。


「じゃあ……私の話を、聞いてね」



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