回想③ 青すぎたバラ / 津嶋 咲子
*
「おかえり咲子さん、これ見て~」
見せられたのは、義花の三学期の定期試験の結果表だ。数学の満点をはじめ、見事に高得点だらけである。
「今回も優秀ねえ、義花」
「でしょ、それで素点平均が95%を越えてるんですよ」
義花がにんまりと笑う。咲子と
「ほんとだ~、今回何にする?」
「土曜、お泊まりデートしようぜ咲ちゃん……」
なんて耳元で言われたのだから笑ってしまう。咲子と二人で出かけて夜も津嶋家で泊まる、という流れが義花のリクエストの定番だ。
「はいはい、康さんも良いって言えばね」
「たぶん大丈夫よ、手応えあったからテスト終わった日に予告しといた」
自慢げな義花の後ろから、不機嫌な仁輔の声。
「なんで二人とも俺に聞かないんだよ、俺の家でもあるんだぞここ」
「あんたウチでパパとゲームできんの好きでしょ」
「そうだけどさあ、そもそも俺の前で点数ドヤるの辞めてくれっていつも言ってるだろ」
仁輔の点数は良くなかったらしい……今回は部活の忙しさと重なっていたのもあるだろうか。
「あんたは試合で勝ったから大丈夫、ほら筋肉が喜んでるじゃん」
「煽りにしか聞こえん」
義花に腕を小突かれ、仁輔は間合いを取る。そして仁輔は自分の結果表を咲子へと持ってきた……まあ、危惧していたほどではない。
「ま、仁も頑張ったんじゃない」
「うっす」
「間違えたところ、ちゃんと義花に聞くのよ」
「……頼むわ義花」
「えぃよぅ」
仁輔は一時期は「義花に教わるのはもう嫌だ」とゴネていたが、最近はまた丸くなっていた。やっぱり、義花に構ってもらえるのが嬉しいのだろう。
「じゃあ仁くん、先生が大人の勉強教えてあ・げ・る」
「おねショタごっこやめろ」
何やら言い合いながら勉強道具を広げる二人。
ふとした瞬間に願う。このままこうやって、仲良く大きくなってくれますように。
大人になっても、その先も、二人らしく支え合ってくれますように。
*
……なんて話は今の義花にはまだ早いかもしれないが、二人で出かけるのはシンプルに楽しい。カラオケで歌って甘い物を食べて、なんだか咲子まで若返った気分になれる。
以前の義花は外出したがる子ではなかったが、去年からのコロナ禍で「出かけられない」時間を体験してからは、行けるときに行っておこうと考えるようになったらしい。今年になって仲良くなったミユカちゃんという子の影響もあるみたいだ。
「え、なっにこれ!」
義花に連れられて物凄く久しぶりにプリクラを撮ったら、出てきた顔があまりにも変貌していて愕然としてしまった。
「何って、最近の加工はこんな感じよ」
「……もう別人じゃない、こんな目おっきくなって」
「多分プリクラ黎明期から何度も言われてるよなあ……んん、やっぱり筆記体は書きづらいか、はい!」
義花が落書きしたのは英語らしい、意味を聞いても「ひ・み・つ」と教えてくれなかった。後で康信に見てもらったら「We're Blooming Always!」で、「毎日満開」みたいな意味合いとのことだった。咲子との名前の共通点である花ネタなのが義花らしいし、それがバレると照れるから隠したかったのだろう。
義花が英語慣れしているのは、小学校から英会話教室に通っていたからである。それにしても吸収が早すぎる気はするが、英語に限ったことではない。まだ中学生だが、頭にある知識なら咲子のも超えているかもしれない。本人は言われると嫌がるが、神童とでも呼びたくなるくらいの頭の良さだ。
そんな義花も、精神的にはまだまだ幼い。
夕方になると肌寒いので、義花はがっちりと咲子の腕を抱えて、ぴったりと体を寄せる。周りには、たいそう仲の良い母娘に見えたことだろう。義花を利用しているようで申し訳ないが、「娘と気の合う若い母親」という見られ方は好きだ。
それに、咲子が義花とこんな過ごし方ができるのも、きっともう数年もない。今だから許される義花との距離感を、できるだけ味わっておきたかった。
帰宅して一緒に入浴しているとき、義花に訊かれる。
「ねえ、昨日なんか仁が機嫌悪かったんだけど、なんでか知らない?」
その理由を咲子は聞いていたが、知っているからこそ言いにくい。
「義花には言いづらいなあ」
「え~」
咲子の両腕の間、義花は考える顔つきになる。咲子の正面に背中を預ける格好が、風呂での義花のお気に入りだった。保育園の頃から、ずっと変わらず。
「分かった、あたしの悪口聞いたとか?」
「なんで分かっちゃうかなあ」
「大体そういうパターンじゃん、なになに?」
バレてしまったので正直に話す。同学年の男子が義花の容姿を貶していたのを聞いてしまい仁輔は苛立っていた、しかしその理由を義花に言うわけにはいかなかった……という流れを、咲子は聞き出していたのだ。
「ま~たそれか、あいつらも暇だねえ」
義花は気を悪くした風でもなく、呆れ顔だった。
「今日も平気そうね?」
「平気だからねえ、関係ない奴が何言っても関係ないし、低脳の言ったことに思考割くの無駄だもん」
義花にとっては潔い割り切りなのだろうけれど。
「ねえ義花、悪口言われたのはあなただけどさ。他の人のことそんな風に言っちゃダメだって」
「はあい」
これは納得してない返事だ、もう少し言い聞かせよう。
「義花はすごく賢いし、いつもコツコツ勉強できて偉いけどさ。体質とか家の事情とかで、そもそも勉強が思うようにできないって人もいるんだから。酷い言葉を使ったらダメだよ」
「……うん、咲子さんが言うなら」
そのときに納得してくれたかは分からないが。その後の義花は貧困家庭の児童に勉強を教えるNPOに入るなど、違う境遇の子供にも関心を寄せるようになったのだ。
「それにね。義花を悪く言われて仁が悲しむ気持ち、義花には分かっててほしいな……私だって悲しいよ」
だってあなたは
「仁が悲しいのは分かるけどさ。あたしが悲しかったら余計に仁も悲しいんじゃないの、だったらあたしが平気な方がマシじゃん」
「そういうことじゃないんだけどなあ」
「あたしはさ、大事な人が可愛いって思ってくれたらいいの」
ねだるように咲子を見上げてくる義花。その頬を撫でながら、刻むように伝える。
「義花はとっても、とっても可愛いよ」
「やった!」
義花はじゃぶじゃぶと浴槽の中で体勢を変え、ぎゅっと咲子に抱きついてくる。
「あたしはね、可愛い人に可愛いって言ってくれるのが最高なの。だから咲子さんに言ってくれるのが超嬉しい……最近はミユカが言ってくれるのも嬉しい!」
そうした感情には、義花がレズビアンであることも多少は影響していたかもしれない――とは、後になれば思い当たったが。当時の咲子にとって、義花が抱くのはどこまでも無邪気で無垢な想いだった。母のように姉のように、身近な同性に向ける愛情だ。
だから、咲子が義花に向ける愛情の中に、恋に似た感情が芽生えつつあることを、咲子自身が許すわけにはいかなかった。
「はいはい……ちょっとのぼせそうだから、私は上がるね」
「うん、着替え終わったら呼んで〜」
洗面所で、あえて冷水で顔を洗った。
――義花の裸に抱きつかれることに、そんな意味なんて欠片もないんだ、私が見いだしたらいけないんだ。
実穂は実穂、義花は義花。
実穂にずっと言えなかった、叶わずじまいだった恋慕。それを義花に向けていいはずないんだ――たとえどれだけ、在りし日の実穂と今の義花が重なったとしても。
*
自分がこんな感情になるなら、義花との距離感を考え直した方がいいのだろう、それは咲子も自覚している。
自覚しているけれど、義花に求められると拒めない。
「咲子さんさ。嫌な病気が見つかったりとか、体が変だったりとか、ないよね?」
寝ようとしていた頃、隣の布団の義花に急に聞かれた。
「ないよ。何かあった?」
「何かってわけじゃないんだけどさ……この前、好きな作家さんが急に亡くなってね。六十歳くらいの人なんだけど……人って急に死んじゃうんだよなって思ったから」
元々義花は、物心つかない頃に母親を亡くしている……本当は「生まれたときに」だが、死別したことには変わらない。その影響か、「みんな急に死んじゃうかもしれない」という感覚が強いようだった。その発想は達観にも不安にも転ぶ、今は後者だ。
「私は大丈夫だよ」
言い聞かせながら、義花に絡みつく怯えを解くように頭を撫でる。
「私は義花を置いていったりしないから……もう五十年くらいは元気でいるつもりだよ、その頃は義花もいいオバサンでしょ」
「うん、約束だからね」
義花は笑顔に戻ってから、咲子の手を掴んで胸元に引き寄せる。胸元というか、左の乳房に。
「ねえ義花、そういうのはもうダメ」
「ちょっとでいいから……これが一番落ち着くの」
義花は昔から、胸や腹を咲子に触れられるのを好んでいる。温もりに包まれているのが心地いい、というの感覚なら咲子にも分からないでもない。やや行き過ぎではあっても、少女が同性の家族に求めるスキンシップの範疇といえばそう……なのかもしれないけれど。
どうしても咲子には、性的な意味合いが浮かんでしまう。
まだ学生だった頃。実穂にずっと、こうしたかった。実穂の体の全部に、この手で触れたかった。そんな望みを口にしたら友情が壊れてしまうことだって、それ以上に分かっていたけれど。
満ち足りたように、義花は語る。
「なんかね。咲子さんの手に心臓が当たってるの、生きてるな~って安心するの」
布越しの柔らかな温もり、その奥で脈打つ鼓動。
今この瞬間だって、そこに実穂がいる――咲子にとって、どうしようもなく深い実感。
全部間違っている、そんなのずっと分かっている。
義花を実穂の代わりに思うことも、未成年の少女に肉欲を向けることも。たとえ義花がそれを受け容れてくれたとしても、決して義花の未来のためにはならない。
「はい、もう終わり」
「はあい」
右手を引きながら告げると、しぶしぶ義花は従ってくれた。けど、やっぱりその顔は寂しそうで。
「じゃあ手握っててあげる」
「やった」
両の掌を、指を絡めて重ね合わせる。すがるように力む細い指が、泣きたいくらいに愛しい。
けど。義花と自分じゃ、生きる時間が違うのだ。
「義花はさ。仁と、こういうことしたいって思わないの?」
思春期の彼女の、息子に対する意識は。
「まだ、かなあ……あいつのそばにいると安心するけど、触れ合いたいとかはあんまり。やっぱり意識が兄弟なのよね」
以前から何度も聞いてきた、仁輔は彼氏でも親友でもなく兄弟だと。
「もしかしたら仁に色々我慢させてるのかな、とかは思うけど」
「それは義花が心配しなくていいんだよ」
咲子はずっと、仁輔に言い聞かせている。義花が望まない触れ方をしてはいけないと、身勝手な触れ方で義花を傷つけたら母親として許さないと。
「そっか……けどあたし、あいつが紳士で助かってるよ。今はまだそういう気分になれないし」
咲子の目の届かないところでも、仁輔は教え込まれたルールを守っているらしい。自分の欲を律しながら、愛する義花の心が整うのを待っている、それが咲子にとっても理想だった。
「けどさ、この歳になっても嫌にならないってことは、やっぱり特別なんよ。そのうち付き合うし結婚もするんじゃない? あたし、同年代の男子って大体合わないもん」
結婚というビジョンが固まっていることに安心する、自分からも後押ししよう。
「私だって、高校までの周りの男子なんて全然好きじゃなかったもん」
「モテはしたんでしょ?」
「オッケーしたことはあったけど……一ヶ月も経ったらごめんなさいしてたかな」
「うっわ短命」
「だって実穂といる方がずっと楽しかったんだもの……一緒にやってた合唱部が恋人みたいなもの?」
「いいよねえ、そういうのも」
強がりではあっても嘘じゃない。実穂以外に恋することなんて出来なかった、だから実穂と一番深くつながれる部活こそが逢瀬だった。
――その実穂が憧れ続けて、叶いかけていたのが、家族という在り方だから。
「私も、きっと実穂もね。義花と仁が元気に仲良くしていることが、一番の幸せだよ」
「うん、善処します……だから咲子さんも、元気なおばあちゃんでいてね」
「……孫はすっごく楽しみだけどおばあちゃんって言われたくないかも」
「ワガママ!」
「いいじゃん」
義花はけらけらと笑って、不安が飛んだかのように目を閉じる。
「ほっぺ、なでて」
ねだられた通り、咲子は義花の頬に手を当てる。それで安心しきったように、義花の表情が解れていく。
「咲子さん、おやすみ……」
「おやすみ、義花」
すぐに義花が眠りに落ちたのを確かめて、そっと手を解く。
――どうか、どうか仁とふたりで幸せになってね。
私の家族として、幸せな女性になってね。
それを確かめて、やっと私の夢が終わる。
行き場所のない実穂への片想いが、やっと報われてくれる。
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