3-8 あたしのイチとゼロの間
ママはあたしを産んだときに亡くなった、そう
まず、豊子さんの思い違いを疑った。重度ではないが、豊子さんも認知症が進んでいる……しかし、あたしの知識の中にある症例とは符合しない印象が強い。
次に、あたしの記憶と照合を始める。ママが出産時に亡くなった、その事実と矛盾する出来事が何かあるはず――
命日は3月末と聞いた、その辺りの休日に法事も開いてきた。他にどこかで具体的に見なかったか。
お墓の横、墓誌に没年月日も書かれている。しかしママの名前は……なかった。昔パパに聞いたら、
その違和感を、豊子さんにも衝かれる。
「義花ちゃん、
「……いえ、彫られてすらないです」
「そうかい。そこまでして隠したかったんだね、康信くんは」
豊子さんは怒っているというより、失望しているようだった。
そして、符合してしまう。
生まれたあたしとママが一緒にいた、その記録は映像も写真もない。
ならば。パパは、
……しても、おかしくはない。直感は否定に至らない。二人とも、あたしには甘い、
言葉を失っているあたしに、豊子さんは重ねて告げる。
「だから
「……はい、忘れない、です」
納得も整理もできないまま、最低限の挨拶をして豊子さんの部屋を出た。
老人ホームのロビーまで下りると、あたしを見たパパは早足で寄ってきた。
「どうした義花」
答えられず、パパの腕を引いて施設を出ようとする。
「待った、受付に挨拶するから、それだけ待って」
「……うん、ごめん」
黙って車に乗り込み、そしてパパに確かめる。
「豊子さんに言われたんだけどさ」
「ああ」
「ママはあたしを産んだときに出血多量で亡くなった……本当?」
パパの表情で察した、それが真実だ。
パパはしばらく黙ってから頷いて、あたしの頭に手を置く。
「……本当にすまない。義花はこんな形で知るべきじゃなかった、もっと早く僕が言わなきゃいけなかった」
確定してしまった瞬間、体が言うことを聞かなくなる。
目の奥から涙が、喉の底から叫びが、勝手にあふれ出して心を焼いていく。
「義花が気にすることなんか何もないんだ、ただ義花は健やかに生きていればいいんだ」
パパはあたしを抱きしめて、何度も何度もそう言い聞かせた。
耳が捉えたその言葉に、頭は異議を唱えない。新生児に責任なんて何もない、そう分かってはいる。あたしだって他の親子にだったらそう言える。
けど、納得なんて到底できそうもなかった。
だって、この体を育ててくれた人を、この体で傷つけて死なせたんだ。
あたしが世界に出てくるために、あたしに世界をくれた人を死なせたんだ。
*
あたしは助手席で泣き疲れてぼうっとしたまま、パパの車は家へと到着した。自分からは何も話さず、いつも通りの安全運転のパパだった。
「ねえパパ」
「うん?」
「ママの話、ちゃんと聞きたい。あたしが生まれるときに何があって、パパたちは何を思ってあたしたちを育てたのか。咲子さんからも聞きたいし、
「……分かった、日は置いた方がいいかな」
「早い方がいい、モヤついたままの方が辛い」
「そうか、じゃあ咲ちゃんたちに聞いてみる」
家に戻ってすぐにシャワーを浴びた。汗も涙も流して少しはスッキリするかと思ったが、自分の体を意識してしまって逆効果だった。この体が生まれた瞬間にしたことが、罪に思えて仕方ない。
浴室から出ると、パパに言われる。
「咲ちゃんも仁も今夜空いてるらしい、家で良いか?」
「うん、また外出る気力はないや」
「分かった……夕飯も一緒でいいか、早く食えそうなの作っとく」
手伝おうかと思ったが、いま包丁を扱ったら指を切りそうな気がしたのでパパに甘える。
しばらく時間があったので、ひとまず宿題は進める。どこにも正解のない問題ばかりの現実に比べ、明確な正答のある勉強は楽だ――生徒の反感を大いに買っていた数学教師の台詞に、こういうときは共感してしまう。次から次へと問題を処理していくうち、ほんの少しだけ無力感が紛れた気がした。
午後7時過ぎ、
パパが作った冷やし中華をそそくさと啜り、テーブルに麦茶が並んだところで本題へ。
「仁、急に呼び出して悪いな」
「いや良いよ、それだけ大事な話なんでしょ」
パパは仁輔にだけ詫びた、つまり咲子さんはパパと同じ側だと意識しているのだろう。
「ああ……今日の昼間、実穂のお母さんに会ってきてな。そこで初めて義花も知らされたんだが。実穂が亡くなったのは、自転車事故のせいじゃない。義花を出産した際の出血……産科危機的出血によるものだ」
仁輔はショックを受けたように目を見開いていたが、黙ってパパに続きを促した。
「細かい話は長くなるが、専門家に調べてもらっても医療過誤ではないだろうと判断された……つまり病院側の過失ではないだろうと言われた、だから僕も訴訟に持ち込まなかった。お金の余裕はあって心の余裕はなかったという事情もあって、君たちを育てるのに集中することにした」
あたしたちが気になるところをすぐに潰していくのがパパらしい。
「そして僕と咲ちゃんは、君たちが大きくなるまでこのことを知らせないと決めた……いや、知ってほしくなかった、だな。実穂の家族にも職場にも、口裏を合わせてくれと頼んだくらいだったから」
さっきから気になっていたことを、あたしはここで訊いてみる。
「小さい頃はショック受けるから隠しておこうってのは分かるよ。けど、十六年はさすがに長すぎないかな」
「最初はね、十歳が節目だと思ってたの」
咲子さんが言う。
「その節目が、中学入学になって、十五歳になって、高校入学になって……義花が大きくなるたび、この子に悲しいこと知ってほしくないって思いに負けて、ずっと先延ばしにしちゃった」
「……あたしは、そんなに頼りなかったかな」
「違うの、義花は考えすぎちゃうからなの」
咲子さんは目に涙を浮かべて首を振る。
「義花は。興味ないことは全然気にしないけど、気になることはとことん考えるでしょう。生まれたときのことなんて、気にしすぎちゃうに決まってるじゃない」
……悔しいが、咲子さんの推測は当たっている。
あたしが気にしても仕方ない、という割り切りが出来ない。なんだって考えることで割り切ろうとしてきたあたしにとって、それは致命傷だ。
「義花、ひどい質問になるんだけどさ」
仁輔が怖々と口を開いた。
「いいよ、何?」
「ああ……気にならなかったのか? 実穂さんとお前が一緒にいる写真がない、それどころか生まれた直後のお前の写真がほとんどないことだって」
「……仁は気になってたの?」
「小学生のときにな。それを母さんに言ったら、よその家の不幸をあれこれ聞くんじゃないってすげえ怒られたけど」
「そうなのね。あたしは……うん、そうだね、無意識でブレーキをかけてた気はする。その頃の話になるとパパも咲子さんも辛そうな顔するから、聞いたらマズいんだろうなって」
「今だって物凄く辛いさ。それでも、父親が……実穂の夫が、逃げ続けたらいけない役目だった」
手をきつく握りしめながら、パパが言う。その声があまりに痛々しくて、あたしはパパの手に自分の両手を重ねた。
パパに向ける言葉を探しているうち、咲子さんの震えた声が聞こえてきた。
「まだ言わないでって康さんに泣きついたのは私なの。叶うなら、ずっと義花には知らないでほしいって思ってた……だって実穂は、子供には親の苦労なんて何一つ知らないで、幸せなことばかり覚えて大きくなってほしいって願ってたから」
その声が帯びる想いの強さ、鬼気迫るほどの激しさに、あたしは――仁輔も、言葉を失っている。こんな咲子さん、あたしたちは知らない。
先に復帰したのは仁輔だった。
「母さん、答えてほしいんだけどさ……実穂さんは、母さんにとって、本当はどんな人だったの?」
「……どういうこと仁、一番の友達でしょ?」
あたしは質問の意図がよく分からなかったが、パパと咲子さんには心当たりがあったらしい。
「咲ちゃん。それも話した方がいい」
「けど、」
「さっき岳志にも確認を取った。そろそろ仁に聞かせる頃合いだろうって」
親たちの話に、ますますあたしは混乱する。ママと咲子さんの話に、どうして仁輔が?
しかし咲子さんは納得したらしく、麦茶で喉を潤してから姿勢を正す。
「仁、義花。あなたたちにずっと黙ってたことがあるの……岳志さんと康さんにも、実穂が亡くなってから話したことなんだけどね」
始まる。あたしたちがずっと知らなかった、あたしたちが生まれるまでの話。
「私はね。実穂に出会ってから、別れるまで。ずっと、あの子に恋していたの」
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