回想① 彼に願いを / 津嶋 咲子

 義花よしか仁輔じんすけが小学校一年生の夏頃。



 午後九時ごろ、咲子さきこ津嶋つしま家を訪れた康信やすのぶを出迎えた。

「康さんお疲れ様、長引いたね」

「ほんっとにごめん、咲ちゃん」

「仕方ないって、ここまで工場が追い込まれるのは珍しいって私も分かる」


 当時の康信は激務に追われており、パート社員で短時間の勤務だった咲子が義花を預かることが多かった。そのぶん康信からは見返りももらっていたし、義花の将来のためにも康信は仕事に打ち込んでほしいと咲子も願っていたのだ。


 仁輔と義花は、手をつないで布団で眠っている。

「宿題までは頑張ってたんだけどね、疲れたんじゃないかな」

「そっか……どんな様子だった、仁は」

「殴ったことが悪いってのに言い返さなくはなったけど……まだ納得しきれてないんじゃないかな」


 仁輔が他の生徒に怪我をさせたと、咲子は夕方に児童館から呼び出されていた。義花は高学年向けの本を読んでいたのだが、同級生の男子は義花に悪口をぶつけながら読書の邪魔をする。仁輔がその男子へ掴みかかると、男子の友達や兄も加わり、手の出るケンカになったという。

 すぐに職員が駆けつけて収まったものの、相手方の三年生の顔には傷ができていた。仁輔に飛びかかられて倒れ、床で頬をすりむいたという。他の二人も腹を殴られたらしく、仁輔は一分足らずのうちにひどく暴れたらしい。


 軽い怪我だったこともあり謝罪と菓子折で手打ちになったものの、すっかり仁輔は問題児である。咲子だって、こんなに肩身の狭い思いをしたのは生まれて初めてだった。どんな経緯であれ、子供が怪我を負わされた怒りは痛いほど分かる。


 咲子から報告を受けた康信は、長いため息をつく。

「そうか……昔の岳志たけしよりも危ないかもしれんな、仁は」

「岳志さんもやんちゃだったんでしょ?」

「あいつはケンカになっても力の加減はできてたよ。今回の仁輔は……なんつうかな、暴力への躊躇いが吹っ飛んでたんじゃないか」

「……そうだね、取っ組み合いになっても本気で殴ったりはしない子、だった」

「だとしたら、そんなに義花がひどいこと言われたとか?」

「そうらしいの」

「聞こうか」


 義花が平然と口にしていた、自分への悪口。それを思い出すと咲子だって苦しいが、それ以上に。

「……親への悪口だったとしても、聞きたい?」

「聞かなきゃいけないだろ、子供への侮辱なら」

「うん。義花の母親は悪魔だって」


 康信の眉が険しくなる。

「……どっからそんな話になったんだ。義花がガリ勉だってからかわれてるのは知ってるけど、悪魔なんて」

「うん、頭の良さが全面に出てるのが気に入らなかったみたいなの。で、顔のこと……眼鏡のブサイクだって」

「そこまではムカつくけど分かるよ、子供の悪口の範疇だ」

「で、義花に母親がいないのも知られてるから。義花の母親は悪魔で、だから異常な頭してているし顔もブスなんだって」

「子供は何を言い出すか分からんな……義花だって傷ついただろう、そんなの」

「それが……義花、ありえないって笑ってたみたいで」


 康信は沈痛な面持ちでこめかみを押さえる。

「義花は義花で、冷静すぎて不安だな……」

 嫌なことを言われても、義花は傷ついたそぶりを見せないのだ。怪我や病気で痛いとすぐに泣くし、ときどき実穂みほが亡くなったことを考えては辛そうにしているけど、同年代からの言葉での嫌がらせにはあまりにも鈍感。それどころか、「あんなこと言うなんてバカだよね」と笑うほどだ。


「……ともかく、義花が絡むと仁がキレるってことはよく分かったよ。僕もじっくり義花に話聞いてみる」

「私も。岳志さんが次に帰ってきたときに、三人でちゃんと話すよ。前から岳志さん、仁には武道やらせて心を落ち着けた方がいいって言ってたから」

「だろうな。義花も……学校以外の友達ができるといい気がする。同じくらいのやる気で勉強できるような子の方が過ごしやすいだろうし」


 親たちの悩みなんて知らず、子供ふたりは仲良く眠っている。普段の様子から分かる、仁輔は義花を何より大事に想っていることも、義花がそれに甘えていることも。

 その弊害で今回のようなトラブルが起きてしまったとしても、二人の絆は愛おしい――そこに、重すぎる親のエゴが乗っていたとしても。


「ねえ康さん、内緒話していい?」

「何だい」

「仁がやったこと、母親としては本当に申し訳ないって思う、思うけど……」

 これを言ったら母親失格だと思いながら。それでも康信になら言える、康信にしか言えない。


「実穂と義花を侮辱した奴を仁が痛めつけてくれて、スカッとした」


「……それはダメだろ咲ちゃん。親子以前に人として、暴力での私刑を正当化するのは」

「分かってる。けど康さんにしか言えないじゃない、岳志さんに聞かれたら離婚されちゃう」


 その感情に同意してほしかったんじゃない、間違っていると確かめたくて咲子は口にしたのだ。異常なのはどうしようもないから、異常なんだと確かめ続けたい。


「咲ちゃん。義花には義花の、仁には仁の人生があるんだ。二人がずっと一緒とも限らないし、僕たちのそばにずっといるとも限らない。だから……君の願いを仁に託しすぎないでくれ」

「……そうね、康さんの言うとおり、私が悪かったよね」


 康信の指摘に頷きながら、咲子の内心はちっとも揺らがない。

 だって、仁輔が義花を幸せにしてくれなかったら、私は。


「けどさ。仁と義花が二人で幸せになりたいって言うなら、全力で応援するのが私たちでしょう」

「そうなってくれたら嬉しいってのは僕も同じだよ。けど、そんな上手くいかないだろ人生は」


 自分の愛する人が、自分の望む道を選んではくれないこと。

 選んだ道すら、理不尽に潰えてしまうこと。


 それを知っているのは、二人とも同じだ。

 そのうえで、望みが外れる覚悟を固めるのか、望みへの道を固めるかの選択が違う。


 康信が義花を連れて帰ろうと抱っこすると、仁輔が目を覚ました。仁輔は暴れたことを康信にも謝り、眠ったままの義花に「また明日」を言う。


 明日の学校の準備をさせながら、咲子は仁輔に語りかける。


「ねえ、仁」

「なに?」

「殴ったことは絶対にダメだけど。義花がひどいことされて怒る気持ちは、なくしちゃダメだからね」

「……うん! 義花のこと、正しいやり方で守る!」


 張り切って笑う息子を、ぎゅっと抱きしめた。

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