第3章 壊れそうな恋にしがみつく話

3-1 パラダイスがロストの危機

 物音で目が覚める。朝の6時半あたり、咲子さんはキッチンに立っているようだ。

 今日も咲子さんは出勤だし、あたしもちゃんと見送りたい、仁輔も帰ってくるからずっと寝てはいられない……のだが、さすがに気まずい。


 朝食の匂いに包まれながら、ぼんやりした頭の整理に励む。

 どうやらあたしはレズビアンらしい、あんまり火急の案件ではないし納得感も強いからゆっくり考えればいい。けど誰か詳しそうな人には聞いてみよう。

 仁輔とは……やっぱり正直に話すしかないよな。別れるしかないだろうし、また友達に戻れるかも厳しそうだけど、ごまかしようがない。


 そして咲子さん。

 告白して、襲うように唇を奪いかけて。


 ……うわあ、うっわあ、マジでやらかしたなあたし?


 さすがに、さすがに、何もなかったようにはできないよなあ……けどそうするしかないよなあ……


 なんて頭を抱えているうち、咲子さんの声が降ってくる。

「義花、そろそろ起きた?」

 ……そうですね、起きましょうか義花さん。


 体を起こして返事をする。

「うん、おはよう」

「おはよう、ご飯一緒に食べちゃえる?」

「うん、食べる」

 顔はお湯で洗うのが通例だけど、気合いを入れたくて冷水にした。ついでに無駄にぱしぱしと顔をはたいた。


 食卓の向こう、咲子さんはいつも通りの顔に見えた。

「いただきます」

「はいどうぞ」

 ご飯と卵焼きとサラダと味噌汁、いつも通りのメニュー。あたしの卵焼きの基準は咲子さんの甘口のである。


「仁は今日部活だから、上で食べたらこっち来るって。あと30分くらい?」

 咲子さんに言われた、やはり仁輔はすぐに来る。

「だよね……どうしよ」

 昨日の今日だし、ほとんど話さずに仁輔とすれ違う方が無難かもしれない……と、思いもしたが。


 咲子さんは柔らかく、しかしハッキリとあたしに伝えた。

「少しだけでも、ちゃんと話した方がいいと思うな」


 自衛官の家族がよく言われること。有事となれば帰ってこないかもしれないのが自衛官、だからどんなケンカの後でも送り出すときは笑顔であれ。

 そのマインドは岳志さんに対してだけでなく、津嶋家全体に根付いている。つまりは仁輔も、あたしに対して。

「……だね、話しとく」


 そして、あたしが話さなきゃいけない人はもう一人。

「ねえ咲子さん」

「うん?」

 できるだけ姿勢を正して、真剣な声で。

「昨夜は……本当に、ごめんなさい」


 咲子さんの両手があたしに伸びて、頬を挟む。

 その触れ方はやっぱり、女とか恋人とかに対してじゃなく、娘に対するものだった。あたしが生まれたときから知っている、安らぐ触れ方そのものだった。


「大丈夫、あれは一晩きりの夢。これからは今まで通り、でしょ?」

「うん。変わらずよろしくお願いします、咲子さん」

「こちらこそ」

 正面からその声を聞いて、これからもこの人を信じていいのだと思えた。今までのように甘えるのはダメでも、仲良くさせてもらって良い。昨夜浮かんだ恋の期待に、きっちり鍵を掛ける。



 朝食を終えたところで、仁輔が帰ってきた。時間を置くと迷いそうなので、すぐに出迎える。

「おはよ仁」

「……おう」

「ちょっと話せるかな」

「いいけど、どこで?」


 咲子さんが聞いていないところがいいし、かといって昨日の今日で仁輔の部屋は居づらい。

「ベランダ?」

「だな」

 二人でベランダへ。今日はしっかり晴れていた、あまり外に出たくない気温になりそうだ。

「あのね、仁」

「ああ」

「昨日から考えて、咲子さんにも言ったんだけど。あたしは多分レズビアンです」

「……そうか、だろうな」

 仁輔はSOGI関連について、基本的なところは知っているはずだ。改めての説明はいらないだろう。


「あたしが本心に気づかないで、仁を誘った挙げ句に拒絶したこと。それは本当にダメだった、ごめんなさい」


 頭を下げると、ややあって仁輔も口を開いた。

「俺も、浮かれずぎていたから。義花の言葉の裏、本音をくみ取れなかったのは俺も悪かったよ」

 そんなことはない――というのがあたしの本音だが。仁輔の反省は彼のものだ、そこを撤回させるのも違う。


「だから、あたしたちが恋人っぽいコミュニケーションできるとも思えないし、」

 ――この言葉、やっぱり重いんだな。

「別れる、しかないと思う」


 仁輔はしばらく黙ってから、手すりに肘をつく。あたしに、というか人に顔をまっすぐ向けないで話すのは、仁輔には相当に珍しい。


「……身体の付き合いがなくても、恋人らしくなくても、パートナーとして生きられる道はあるって、俺は考えてる」

 仁輔が語る可能性も正しい、それはあたしも分かる。

「けど、今の俺がそれを目指すのは、やっぱりキツい。こんな言い方はよくないんだろうけど、やっぱり義花とは恋人らしい恋人になりたかった。それは簡単に消えない」

「だよね、仁の感覚は真っ当だよ」


 性愛に囚われないパートナーシップ、肉欲を離れた精神的な関係。そういうのはフィクションやメディアで称揚されがちだし、あったらあったで素敵だろうけど、なろうとしてなれるものでもない。学校にもいた、そうあろうとしたが別れた男女が。


「じゃあ、とりあえず……あたしたち、恋人的な行為はやめにしましょう。ただ、周りへの報告の仕方はちょっと考えたい。こんなすぐ別れましたって言うの、色々と支障あるし」

「まあ……そうだな」

「ってか仁、うちのパパにはなんて言ったの」

「気まずくなったとだけ、それ以外に言いようがないだろ」

「ですよねえ……じゃあパパにはあたしから言うよ、生々しいところはぼかして」

「うちの父さんには?」


 顔を合わせる機会が少ないからか、あたしにとって岳志さんの距離はそれほど近くない。加えて、遠くで働いている人にあまり心配をかけたくもない。

「岳志さんは……別れたってすぐは言いにくいな」

「分かった、穏健な感じで言っとく」


 それ以外に決めておくこと。大事ゆえに、聞きづらいこと。


「じゃあ、仁……これからの距離、どうしよう。付き合う前に戻れたらいいなってのがあたしの理想だけど、仁は」

「戻りたいけど、すぐには無理。親と一緒ならともかく、二人きりで家にいるのはしばらく避けたい」

「うん、分かった」


 承諾するしかないよな、と頷いてから。

 その場合は咲子さんと過ごす時間も減るんだよな、と気づく。


 寂しがる資格なんてあたしにはなくて、むしろ咲子さんと距離を置くことがあたしには必要で。

 それでも寂しいなんて思ってしまうあたり、あたしは相当に咲子さんに依存しているらしい……津島家から離れた方がいいんだろうな、あたし。


「じゃあ、俺は部活行くから」

「うん、」


 ――いってらっしゃい、が言えなかった。

 そんな家族みたいな挨拶、今のあたしがしていいのか、なんて思えて。


「頑張れ」

「おう」


 仁輔はそのままベランダから室内に戻る。あたしは……自分の家に戻ろう、パパの見送りもしたいし。


 自分の荷物をまとめてから、洗面所にいた咲子さんに声をかける。

「じゃあ、あたしは戻るから」

「うん、またね」

「……しばらくこっちには来ない、かも」


 咲子さんは一瞬だけ手を止めてから、いつもの調子で答えた。

「そっか、来たくなったらすぐおいで」

 そしてあたしの肩を叩く。

「ほら、康さんも出る頃だから」

「うん、じゃあね」


 部屋を出てマンションの階段を上り、九郷家の部屋へ。ほんの昨日ぶりなのに、ずいぶんと長く留守にしていた気がした。


「パパ、ただいま」

「おかえり……仁とのことは、気が向いたら話してくれればいいから」

「うん、そうする」


 パパが家を出て、一人になる。

 別に珍しいことじゃないのに、今はひどく心細かった。


 ここまでぐらついてやっと気づく、どうもあたしの重心はあたしの中にないらしい。


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