2-8 やがて恋に、なってしまった?

 スマホを見ると「仁は落ち着いている」とパパからメッセージが届いていた。

「あたしも大丈夫、仁のこと宜しくね」とあたしは返した。男どうしだから出来る話もあるだろう、ここはパパに任せるのが吉だ。元からパパは揉め事の仲裁が上手い。


 リビングに二人分の布団を敷いて、咲子さんと並んで横になる。小さい頃は一緒の布団に入っていたけど、今はさすがに手狭である。


「……今日はこっち入ってこないの?」

「うんと……うん、お邪魔しま~す」

 けどこんな感じに、咲子さん側にあたしが偏ることになりがちだ。あたしをリラックスさせるためと分かっているが、今は妙に意識してしまう。とはいえ断るのも変なので、布団の中で咲子さんと抱きしめ合う。


 いつもあたしに安らぎをくれる咲子さんの抱擁は、今も心地いい。けどその心地よさは、あたしの胸に安らぎではなく高揚を巻き起こしてしまう。鼻腔をくすぐる甘い匂い、ぴったりとくっついた柔らかい身体つき、それらはもう母性というカテゴリには収まってくれない。友情、に収まらないのは言うまでもなく。


「義花、ほんとに大きくなったなあ……好きって感情で悩むなんて」

 咲子さんの話に、なんとか合わせていこうとする。

「普通はもうちょっと前じゃない? 中学くらいで初恋の悩みとかぶつかりそうなもんだけど」

「人それぞれだって、私も学生の間は彼氏とかいなかったもん」

「咲子さんならモテたんじゃないの?」

「告白はそれなりにされたけどね……同年代の男子、みんなガキっぽかったから」

「ははあ、年上趣味」

「お父さんも結構子供だけどね」


 そうやって笑う咲子さんは可愛らしくて、けどやっぱり夫婦の話は妬ましい――普段の咲子さん、仁輔と岳志さんの話はしても、夫としての岳志さんの話はほとんどしないからだ。


「義花は昔から、びっくりするくらい賢かったから。たまに子供っぽいところを見ると安心するの……実穂がいないから無理して大人ぶっているんじゃないかって、心配することもあるから」


 頬を撫でられながら、懸命に平静を保とうとする――娘同然という枠にしがみつこうとした、のに。


「だから、義花。

 まだ隠してることあったら、私に言ってよ」


 その葛藤を、咲子さんは見抜いていた。


「……さっきまで言ったことで全部、だよ」

「義花が隠し事するときの顔は分かるんだよ、私は」


 仁輔よりも、ひょっとしたらパパよりも、咲子さんはあたしの表情に敏感だ。白を切るのは、どうやら難しそうだ。


「本当にごめん、けど咲子さんには言えない」

 嫌な思いをさせるのを覚悟で言うと、咲子さんは目をつぶってからあたしに訊ねる。


「……仁に、ひどいことされた?」


 見当違いの、しかし男子の母親らしい危惧を口にした。


「違うよ! それは本当に違うの……」


 咲子さんが一番に心配するのはそこだ、自分の息子が加害側である可能性だ。咲子さんがあたしに関してはかなりの心配性である以上、本当のことを言わないとその誤解は解けないだろう。


「分かったよ咲子さん、本当のこと言う。言うけど……」

 これを打ち明けたら、咲子さんとも気まずくなりかねない。仁輔と同時に付き合いづらくなるのは、あたしにとって致命的である。

 それでも、これ以上仁輔に迷惑をかけるのは違う。あいつの愛情は裏切ったとしても、せめてあいつの名誉は守りたい。


「あたしのこと、気持ち悪いとか、思わないでね」

「義花が何言ってもそんなこと思わないよ、大丈夫」


 覚悟を決めて、口にする。

「さっき、あたしは誰が好きなんだろうって話、したじゃん」

「それで?」

「あたしは、恋愛の意味で女性が好きで。今……というかずっと、好きだったのは」


 目をつぶって、名前を告げる。


「咲子さん、だと思う」


 すぐそばで息を呑む気配がして。あたしの頬を撫でる手が一瞬だけ止まってから、また動き出す。


「……それは、家族として、とかじゃなく?」

「ママみたいな、お姉ちゃんだからってのも間違いはないけど……」


 ゆっくりと目を開く。咲子さんの瞳は驚きに染まっていて、それでもあたしから逸らされていない。


「さっき、咲子さんと岳志さんの昔の話を聞いて……咲子さんが岳志さんに抱かれたってこと考えたら、すごい嫉妬しちゃってさ。咲子さんに誰より触れてるのはあたしじゃなきゃ嫌だって思っちゃった。

 今だって、咲子さんのこと見てると、キスしたいって思っちゃうの。だからこれは、家族愛とか友情とかだけじゃなくて……性愛込みの恋愛感情、だと思う」


 しばらくしてから、咲子さんは起き上がる。

「……そっか、そっか。これは、困ったな」

「あたしは封印できるから、咲子さんは忘れてよ。既婚者と未成年なんて叶えようがないし……そもそもあたしからなんて、気持ち悪いでしょ」

「そうじゃないの義花、気持ち悪いなんて全然」

「こんなときまで取り繕わなくていいよ、子供みたいな人間からの性欲なんてさすがに」


「本当に違うの!」

 咲子さんはあたしの頭を抱き寄せる。

「本当に、気持ち悪いとかおかしいとかじゃないの……嬉しいから、困るの」


 咲子さんの涙声と、告げられた言葉に、あたしの思考はさらにかき乱される。


「咲子さんが……嬉しい?」

「そう。仁には言ってないけど、私もね……男だけじゃなくて、女のことも……いや女の方が好きなの。女に恋されたことなんてなくて、そう言ってくれたの義花が初めてで」


 布団の上、上体を起こして向かい合う。

 初めて聞かせてくれた、咲子さんの恋の形。


「けど、私は仁の母親を辞めるわけにはいかないし、岳志さんを裏切りたくもない。それに義花は、大事な大事な親友の娘で、あたしにとっても娘で……だから、恋人とかはなれないのに、」


 あたしの頤を、咲子さんの左手がなぞる。


「こんなに可愛い義花に、好きって言ってもらえたこと、嬉しくなっちゃったの。だから困るの、苦しいの」


 その声からこぼれる熱情に、瞳の涙色のいじらしさに。


 あたしの理性のストッパーが弾け飛ぶ。


「――咲子さん!」


 あたしは彼女を布団の上に押し倒す。あたしを見上げる彼女の顔は、今まで見てきた中で一番に、女の顔だった。そんな解釈した時点で何もかも間違っていると知っている、知っているけど直感はイエスを叫び続けている。


「ねえ咲子さん、今夜だけは本気の本音で付き合ってよ」

「……よし、か?」

「明日からはこれまでのあたしに戻るから、近所の子に戻るから、今だけは女と女で向き合おうよ。ずっと、こうしたかったんでしょ」


 咲子さんは答えない。正気だったら叱って当たり前なのに、熱にうかされたように、ご褒美を目の前にぶら下げられたかのように、口を半開きにしてあたしを見つめ返している。


 彼女の、好きな女性の身体は。さっき仁輔に抱いた違和感の正体を猛烈にあたしに突きつけていた。


 そうだ。この人に触れたいんだ、この人に触れてほしいんだ。


 ゆっくりと顔を近づける、彼女の顔が近づく、恋しい唇に届こうとした瞬間。


「――ダメだよ!」


 我に返ったように、咲子さんはあたしを押し返した。


「これ以上はダメだよ義花。女どうしとか関係なく、子供と大人がその関係になるのは、ダメだよ」


 どうしようもない正論が、あたしの頭を冷ます。


「……そうだね、ごめん」


 咲子さんから離れる。立ち上がってキッチンへ行き、コップ一杯ぶんの水を飲み干して。

 

 ようやく、あたしの愚かさに気づく。

 一日に二度も。大切な人の愛情に甘えて、愛情を裏切ってしまった。


「ごめんなさい、咲子さん……本当に、ごめんなさい」

 彼女に顔向けする勇気もなくて、その場にうずくまって泣きながら、呪文のように唱える。

 咲子さんはゆっくりと近づいてきた、そっとあたしの肩を抱く。


「義花、寂しかったんだよね。怖かったんだよね……私たちが思うよりずっと、色んなものを抱えてきたんだよね」


 それが正しいかは分からない、周りに比べて何が足りないのかも分からない。

 けど、咲子さんの優しさに縋るしかなかった。


「今日のことは、二人の秘密。どうしようもなく人に甘えたい、それが義花にとっては今日だった、私が受け止めた。

 だから明日から、今まで通りの義花になれるよね」


「……はい、戻ります。仁にも謝ります、咲子さんの前でも、いい子のあたしでいます。

 だから、お願いだから、あたしのこと見捨てないで」


「見捨てたりなんかしないよ、絶対。今までも、これからも、あなたは私にとって大事な女の子。

 だから、もう泣かないで」


 

 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る